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赤ちゃん

作者: 千葉彰雄

『赤ちゃん』

千葉彰雄


「お父さん、疲れたでしょ。久し振りに歩き通しだったもんね」

助手席に座る理津子(りつこ)が顔だけを後ろに向けて言う。

一日中あちこちと歩き回ったせいか、後部座席に座った年男はひとつ大きな欠伸をした。さっきから何を言われても答えようとしない。が、その年男が突然声を張り上げて喋り出したものだから、理津子は仰天したようだった。

春江(はるえ)はどこ行った!」年男が繰り返す。

「もう、何? 急にびっくりするじゃない。お母さんはお稽古のお友達と一緒に北海道へ旅行に行ってるでしょ。もう忘れたの」そう言って理津子が目を細める。

「仕方ないだろら。お義父さんは認──物忘れが多くなってるんだから」運転している(さとる)が口をはさむ。

「今日だって記憶を巡る旅のはずなのに、お父さん、覚えているのかいないのか、どこに行ってもたいした反応がないじゃない。あなたがお前もついてこいっていうから仕方なくついてきたけど、看護師の私は明日も仕事なの」

「そんなの俺だって同じだよ。春夫(はるお)だって生まれたし俺だって頑張ってる。でもお義父さんのことも放っておけないだろ」

そう言うと悟はサービスエリアに進入して車を止めた。

「何?」

「しょんべん」

「あと少しなんだから家ですればいいでしょ」

「我慢できないんだよ」

悟はそそくさとシートベルトをはずしてトイレに向かった。

「ちょっと私も……」

理津子は春夫を助手席に座らせると小走りで駆けていった。

車内は静まり返っている。死体を運ぶ犯罪者になった気分だが、後ろのじじいはかろうじてまだ生きている。

春夫は口からおしゃぶりをはずした。

「おい、じいさん」

「…………」

年男は答えない。後ろが見えないから聞こえているのかいないのかわからない。

「ぼけたふりするなよ」

「おっ……春夫が喋った……」

「生後三ヶ月の俺が喋ったらいけねぇのか」

「…………」

また、だんまりか。これじゃ歴戦のベテラン刑事も御し難い相手だろうな。そんなことを考えていると、悟と理津子の声が近付いてくるのがわかった。

春夫はおしゃぶりを口に含むと、おとなしく飼い主が現れるのを待つ小犬みたいにうるんだ瞳で出迎えた。

「あらっ、偉い。やっぱりこの子しっかりしてる。親がいなくても泣いたりしないし、将来が楽しみね」

理津子はそう言って再び春夫を抱きかかえた。

ふんっ。可愛げねえってのか? それじゃあちょっぴり泣いてみせてやるよ。

ご丁寧に春夫はおしゃぶりをはずして大きく息を吸い込んだ。

「ふぁ、ふぁ、ふぎゃーふぎゃー」

「あらあら、今頃安心したのかな。それともお腹すいたのかなあ」

理津子はそう言うと、バックから哺乳瓶を取り出して春夫に飲ませようとしてきた。腹なんて減ってない。

頑なに口を閉じていると理津子は何を勘違いしたのか、「ミルクも市販じゃダメなのね。しょうがないなぁ」といってオッパイを取り出した。

春夫はこのヘチマが嫌いだった。その干しぶどうみたいな黒い乳首を春夫の顔に押しつけてくる。春夫は本気で泣き叫んだ──。


千葉のベッドタウン──。子育てや介護など、福祉が充実していると言われるこの街ではあるが、春夫の住む家は寂れた団地だった。しけた家、しけたミルク、寝床ときたら煎餅布団のような薄っぺらさで気が滅入る。

悟は会社、理津子は入浴中で鼻歌なんかを唄ったりしている。どうやらご機嫌らしい。

じじいはというと、何もせずにひたすら時間をむさぼるように座っている。ただそこに座っているだけ。まるで修行僧のようだった。

一月前までは、悟や理津子の目を盗んでよく無断外出して警察に保護されていたが、ここ最近はそれもない。

「おい、じじい」

春夫は理津子に聞こえないほどの声量で呼びかけてみた。が、反応はない。死んでいるのか……? いや、かすかに息遣いの音がする。

先日までは終日天井を眺めているだけだったが、最近寝返りをうてるようになった。春夫はベビーベッドの上で身体の向きを変えると、年男の様子を窺った。

そのときだった。年男が突然立ち上がり、炬燵のまわりを徘徊し始めたのは。

年男がこちらに近付いてくる。

「春夫、勝手にはこの外に出たらあかんよ」

目の焦点はあさっての方を向いているが、春夫の存在は認識しているらしい。

「おまえもな」

春夫はそう言った。この徘徊は無断外出の前触れだ。理津子はまだ出てくる気配はない。そのとき、身体に衝撃が走った。じじいが柵を握り、ベッドを揺すったのだ。

「あ”、あ”っ、揺するな、じじい」

するとじじいは遊び疲れたゴリラのように、踵を返して外に出ていった。

ああ、まただ……。

じじいが帰ってくることはなかった。それから丸一日、警察に保護されることもなかったのだ。

悟と理津子も手分けして探し回っているようだったが、それでも見つからない。どうせすぐに連れ戻されるだろうと高をくくっていただけに、春夫は驚かされた。

いったいどこに行ったんだ。春夫はおしゃぶりをはずすと天井を睨みつけるようにして考えた。たしか外出する直前、年男はいつもの定位置にしばらく佇んでいた。

もしや──。

そこで理津子が近付いてくる気配を感じた。

「ごめんね。かまってあげられなくて……」

理津子は申し訳なさそうに言った。

春夫は小さなこぶしをゆっくりと開いた。そして人差し指をあれに向ける。はじめは気付かなかった理津子も、春夫のただならぬ様子にようやく気付いたようだった。春夫は玄関とあれを交互に指で差し示した。

理津子は至極驚いた様子だったが、春夫の異変に何かを感じとったのか、そくざに悟に連絡を入れ始めた。


春夫たち三人は、車で一月前に訪れた場所をひとつひとつ潰していった。

それは年男の最愛の妻との想い出の場所だった。本当に認知症で忘れてしまったのか、それとも春江の病死にショックを受けて現実逃避をしているだけなのかはわからない。

そんな年男が可哀想だったのだろう。悟も理津子も春江が今も生きているかのように振る舞っていたのだ。

無論、死んでしまった人間が生き返ることなどあるはずもない。

外出する前の年男は必ず、春江の仏壇の前でしばらく佇んでいた。

本当は気付いているのかもしれない。そんなじいさんを思うと少し哀れに思えた。

そのときだった。小さな公園のブランコに座って遠くを見つめている年男を見つけたのは。

車が止まるか止まらないかという状況で、理津子は飛び出すようにして掛けていった。

「お父さん! なんで勝手に出ていくのよ。心配したんだからね、ほんとに……」

理津子は寒空の下、小刻みに身体を震わす年男に自分の着ていたコートをかけてやっていた。すると、それまで我慢していたのか、こぼれ出しそうだった感情がとつぜん溢れだしたかのように、年男は年甲斐もなく泣きじゃくった。

「ごめん、ごめんよ。理津子……」

春夫は悟の腕の中で思わず呟いてしまった。

「やっぱり、ボケたふりだったか……」

すると、悟の顎ががくっと落ちた。信じられない光景を目の当たりにしたその顔は恐怖で歪んでいた。

──完──


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