それでも走る
どうもココアです。
珍しい短編でございます。
――ブチンっ!!
脳天に響く音と左の裏太ももに、強烈な痛みが走る。ズキズキと全身に響くような痛みで俺は立っていることができなくなり、その場で足を抱えながら倒れこんだ。
ーー高校2年生の3月。もうすぐ三年になるという、この時期に俺ーー神谷直人の陸上が終わった。
「――肉離れですね」
時計の針が時を刻む音しか聞こえない病室。顧問と、病院のベッドで寝ている俺の目の前で医師がそう言った。
「元々ハムストリングに負担がかかりすぎていました。ストレッチやアップなどが十分じゃなかったかもしれませんね」
「……どれくらいで治りますか?」
目から溢れそうな涙をグッとこらえ、それでも若干震えた声で医師に問う。
「……」
俺の問いかけを聞いてレントゲンで撮った写真などを再確認してから申し訳なさそうに言った。
「……今回の肉離れはかなり重症です。最低でも3ヶ月はかかるでしょう」
「3ヶ月……!!」
その言葉を聞いて、俺は改めて絶望した。
今は3月。次の公式戦は4月の上旬。つまり、俺は大会に出場することができないということだ。
今までやってきた3年間。中学校の時も合わせると6年間。その集大成である大会に、俺は出場すらできない。
「……」
言葉がでなかった。いつもみたいにヘラヘラと適当に流そうと思っていたけれど、それをする余裕すらなかった。
全身が震え、肉離れを起こした太股に痛みが走る。
「……」
そんな時、顧問の滝沢先生が優しく肩を叩く。特に何も言わずに……きっと、先生もどんな言葉をかけたらいいのか分からないのだろう。
「終わった……」
悔しさ、悲しさと言った感情だけでは表すことすらできない。でも、それでもそれしか出てこなかった。
この感情がどういう気持ちなのか分からない。
でも、もう何もかもどうでもよくなってきてしまった。
ーー次の日、俺は左足を引きずりながら登校した。
待ち行く人や事情を知らない高校の人たちは、珍しい動物を見るような目で見てきた。
校門で立っている先生達には心配されたが、俺は必死の作り笑顔で「大丈夫です」と答えた。
「ふう……」
教室に入り自分の席に座る。歩いている時も地獄だけど、この座るときも地獄なのである。学校で使っているのは木の椅子。これが自らの体重で、裏太ももがプレスされるのだ。
微動するだけで痛みが走るという、まさに立っても座っても地獄。
「よお神谷。今日は何か銃で撃たれたような感じで登校してたけど、何かあったのか?」
席について少ししていると、俺の前に座っている友田が聞いてきた。
「ああ……。部活で肉離れしてな」
「肉離れ!?おいおい、それは大丈夫なのか?」
「まあまあ……かな」
友田の言葉に、答えが見当たらず適当に返した。悪気のない友田の言葉が、的確に俺の胸に突き刺さる。
悪気がないからこそ、感情に任せて怒ることもできない。もう高校2年生だし、感情に揺り動かされるほど子供でもないだろう。
「歩くのに不便だったら言えよ?肩ぐらいは貸すからな」
「おう、サンキュー」
感謝の気持ちが全くない空っぽのお礼を言ったところで、担任の音場が入ってきて朝のHRが始まった。
ーーそれから俺は肉離れを治す日々が始まった。と言っても、結局は安静にするということ以外はやることがない。
放課後、部活に行く前に学校近くの接骨院に行って電気治療を受ける。湿布を貼って、剥がれないようにその上に包帯を巻く。
ひょこひょこと、なるべく痛みを感じない歩き方で学校へ戻る。グラウンドを見ると、既に部活は始まっていた。
「お疲れー」
「あ、神谷先輩……」
俺は石の階段で座っている後輩ーー住谷に声をかける。住谷は俺と同じ種目である400mで、よく一緒に練習をしていた。
「今日のメニューは?」
「このあと300が2本です。自分はそのあとに200もやろうと思います」
何となく、住谷のテンションがいつもより低いような気がする。俺の左足と顔をチラチラと見て、何かを言いたそうな顔をしている。
「せ、先輩」
「ん?」
「タイムを計ってもらえませんか?」
「いいよ」
住谷の頼みごとを何の迷いもなく聞き入れようと、俺は陸上部が荷物を置くようにしてあるベンチまでストップウォッチを取りに行こうとした。
「っ!?」
その瞬間、太股に激痛が走る。電気治療をして痛みが和らいだので完全に油断をしていた。
立ち上がろうとした瞬間、ハムストリングの筋肉に衝動を与えてしまった。思わず左手で抑えると、後ろにいた住谷が泣きそうな顔をしていた。
「す、すみません先輩!!俺、いつもみたいに頼んじゃって……」
「い、いや……別にそこまで謝らなくても」
「大丈夫です。マネージャーに頼むので、先輩はとにかく安静にしてください」
「お、おう……」
深々と頭を下げたあと目を軽くこすって、住谷は行ってしまった。そして、俺の胸には罪悪感だけが残っていた。
うちの部活は全部で15人。男女合わせて15人なので、かなり人数が少ない。それに加えて二年はたったの4人。さらに二年の男子は俺一人という状況で、他の高校と比べれば明らかに力不足だった。
それでも、皆必死になって練習に取り組んでいる。まだまだ実力不足だけど、小さな目標を達成して少しずつ自己ベストを更新している。
「……そんな中俺が肉離れか。示しがつかねえな」
「なーにぶつぶつ言ってるの?」
「……何だ美優か」
後ろから声をかけてきたのは、同じ二年の水町美優。幼なじみの美優は幼稚園から、この高校まですっと一緒だった。中学の時も同じ陸上部で、高校ではこの陸上部の部長をつとめている。
「何だってことないでしょ」
「……」
「皆のところにいかないの?ちょうど走り込みが終わったから、ベンチにいるよ。皆心配してたし、顔を見せてあげたら?」
美優の言葉に心が揺らいだ瞬間だった。さっきの住谷の顔が頭に浮かぶ。
「……行かない」
――理由は言わない。いや、言えなかった。
「どうして?」
しかし、美優も引いたりはしない。今さら俺に気を使うような心もないのだろう。踏み込んで欲しくないところまでも、容赦なく踏み込んでくる。
「……」
だから俺は黙秘した。美優も馬鹿ではないし、俺のことはよく分かっている。黙るということは、これ以上言いたくないということだ。
「……分かった。もし帰るなら顧問には言っておくから」
そして、美優も何かを察したようで俺の後ろから姿を消す。
「はあ……」
再び一人になった俺は、安心したような寂しいようなため息を吐き出す。
「言えるわけねえじゃん……」
皆のところに行かない理由が、“俺なんてこの部活に不要だ”って思われそうだからなんて。
住谷の言葉を聞いてから、頭に浮かんでしまったこの考え。
――“先輩はとにかく安静にしてください”
住谷はよくできた後輩だ。誰よりも気を使うことができて、練習も手を抜かず真剣にやる。真面目な優等生タイプかと思えば、皆を笑わせるムードメーカーでもある。
そんな住谷だからこその言葉なのだろうけど、何となく寂しさを感じずにはいられなかった。
「……帰るか」
これ以上皆が走っているところを見ていたら涙が出てきそうで、俺は帰ることにした。
極力誰にも気づかれないよう、一人でこっそりと。
◆◆◆
――肉離れをしてから時が経つのが早くなったような気がした。
3月は殆ど授業もなく、午前中に終わることが多い。午後からは部活ということになるけれど、俺は半分も参加しなかった。
接骨院には毎日通っている。けど、それは『怪我を治したい』という気持ちよりも『怪我を治さないといけない』という義務的な気持ちに近かった。
「先輩お疲れっす」
「お、おう。お疲れ」
部室に行けば後輩がいる。それは普通のことだった。いたのは駿河だった。こいつは走り幅跳びと三段跳びを専門としているので、一緒に練習することはない。
「そう言えば先輩、俺も中学の時に肉離れしたことあるんですよ」
制服からジャージに着替えているところで、急に駿河が話を切り出す。駿河は中学も陸上部だったらしく、そこでも走り幅跳びをやっていたらしい。
「まあ俺のは軽度のだったので、1ヶ月で治ったんですけどね」
「そ、そうか……」
返す言葉が見つからず、喉に詰まらせながら苦し紛れに返す。
「その時俺は“絶対治して帰ってくる!”っていう気持ちだったんですよ。大会の雰囲気を味わったばかりだったので」
駿河は嬉しそうに目をキラキラと輝かせながら話す。でも、俺の心には薔薇のようにトゲを帯びた話にしか感じない。
「――それで先輩。先輩はどんな気持ちで怪我を治してるんですか?」
「えっ?」
後半からは話なんて頭に入ってきていなかった。でも、駿河が俺に質問をしてきているのは分かった。
「……!!」
何か言葉を返そうと口を開くが、全く声がでなかった。頭では答えは出ているけど、それを馬鹿正直に答えることができるわけなかった。
「……先輩」
そして、何かを悟ったような顔をした駿河がさらに言葉を続ける。
「怪我を治して何をするのか、何のために怪我を治すのか考えた方がいいですよ」
「……」
返す言葉が浮かばなかった。本当なら強く否定して、自分の考えを言うべきなのだろうけど、言葉がでなかった。
「じゃあ俺は先に行ってますね。もし来ないのなら、適当に誤魔化しておきます」
「……おう」
そう言って、俺の隣を通りすぎた駿河が部室から出ていった。小走りでグラウンドへ向かう音が耳に響き、俺は呆然と立ち尽くしていた。
駿河の言葉が消えない。ずっと頭の中でぐるぐると回っていて、呪いのように消えることがない。
「何のために治す……」
――『風邪を引いたら学校を休んで治す』とはわけが違う。それとは違うことは理解している。
でも、俺が肉離れを治す理由はそれと酷似していた。
本当に治したい理由は決まっているのに、でもそれは叶わない。だから俺は義務的な気持ちで肉離れを治そうとしている。
「帰ろう……」
そして俺は今日も家に帰る。部活に行かず、ただ接骨院な行った事実だけ残して帰る。
◆◆◆
「あれ?今日も直人来てないの?」
全体でアップが終わったところでグラウンドを見渡すけど、直人の姿がなかった。
「さっき部室で見ましたけど、顔色が悪かったですよ」
すると、近くで聞いていた駿河君が応えてくれた。
「そうなの?」
「もしかしたら帰ったかもしれないですね」
「ふーん……」
改めてグラウンドを見渡すけど、やっぱり直人の姿は見えない。あの特徴的な歩き方をしている直人なら一瞬で見つけられる。でも、元々居ない者を探すことは出来ない。
「水町先輩は神谷先輩をどう思ってるんですか?」
「ええ!?ど、どうって?」
「肉離れをしてから神谷先輩暗くなったじゃないですか。まあ、暗くなるのは分かるんですけど……ちょっと暗くなりすぎているような気がします」
「暗く……確かにそうかもね。でも、何にも出来ないのよ。今余計なこと言って追い詰めても逆効果だろうし、せめてやるならもう少し時間が経ってからかな」
「何かやろうとしてるんですか?」
「直人には内緒よ?」
「分かってますよ」
小休止と言う名の雑談を終えた後、直ぐに練習を再開した。ここから先は種目別の練習になる。私は100mの選手で、今日はSDの練習をしようと思っていた。
「水町先輩、私雷管取ってきますね」
「あ、基子ちゃん。よろしくね」
私がスタブロ(スターティングブロックの略)を、直線コースのスタート位置まで運ぶ。いつもなら直人にやらせるけど、最近は私が運ぶことが多い。
後輩の男子は跳躍と投擲が殆どで、唯一の短距離専門は直人と同じ400mを走る住谷君だけだ。彼は今日も走り込みをやるみたいで、SDをやるのは短距離の女の子だけだ。
「陸上部トラック走りまーす!!」
丁度直線コースまで運び終えたところで、住谷君の声がグラウンド中へ響く。それを聞いたサッカー部や野球部は、人一人走れる分だけのスペースを空ける。
そうして、ストップウォッチを片手に持ちながら住谷君がトラックを走る。「ファイト!」という声があちらこちらで聞こえてくるけど、どんなに聞いても直人の声だけが聞こえてこない。
「…今も一人で走ってる」
以前は直人と二人で走っていたのに、今は住谷君一人で走っている。はっきり言って、直人は住谷君の目標だった。毎日のように一緒に走って、その度に住谷君は負けて…でも、追いつこうという気持ちは強く持って走っているのは誰が見ても分かっていた。
「先輩?」
「え?ああ、ごめんごめん。じゃあやろうか」
思わず見入ってしまい、後輩から心配されてしまった。急いでスタブロに歩数を合わせる。でも、何をしててでもやっぱり気になってしまう。
――ほんの数週間前まではあったはずの光景が、今はもう見ることが出来ない。
直人がいる部活は、もう戻ってこないのかもしれない。
「――ただいま…」
「あれ?もう帰ってきたの?今日は部活じゃなかった?」
家に帰ると、丁度取り込んだ洗濯物を運んでいる母の姿があった。
「どうせ走れないし…行かなくても変わらないよ」
「そう。じゃあ暫くジャージは持って行かない?」
母の問いかけに一瞬答えに迷う。でも……
「…うん」
俺の口は勝手に動いて、気づけば頷いていた。
「……」
自室に入って直ぐにふさぎ込む。自分の部屋には部活で使うものが多すぎる。
毎日のように使っていたスパイク、憧れの陸上選手のポスター。机には『毎日筋トレ』と書かれた紙が堂々と貼ってある。
嫌でも思い出させる。自分がどれだけ陸上が・・・部活が好きだったのか。
「直人ー。そういえばこの間、美優ちゃんが来たわよ。“走らなくても、練習には顔出して欲しい”だっていつまでもいじけてないで、ちゃんと部活いきなさいよ」
その時、洗濯物を抱えながら母が部屋に入ってきた。
「行ってどうするんだよ…俺は走れないんだよ」
「あんたいい加減ふて腐れるの止めなさいよ。あんなに練習頑張ってきたのに、たった一回の怪我で投げ出して良いの?」
「それは…」
――良くない。
たったそれだけを言うだけなのに、言葉が喉に引っかかって言うことが出来なかった。まだ俺には怪我を治して再び走るという未来が見えていなかった。
「もうどうでもいいよ」
治っても以前のようには走れない。記録も落ちていれば、筋肉も落ちる。そもそも走ったらまた肉離れを起こすのではないかという恐怖が、よみがえってくる。
「そう。あんたがいいなら良いけど、美優ちゃんとか顧問の先生には自分から説明しなさいよ」
呆れたように母は言い、部屋から出て行った。
そして俺はポケットに入れておいたスマホを取り出し、SNSで美優にメッセージを一言送った。
「さて…」
流れるように電話帳を開き、顧問に連絡をする。
「あ、もしもし。神谷です。すみません、ちょっと相談があって…」
◆◆◆
「――えっ?」
部活帰り。後輩たちが先に帰って、部室で一人まったりしているところでスマホに一件のメッセージが届いた。
わざわざアプリを開かなくても、メッセージが見える設定になってしまっていて誰から送られてきたのか、どんな内容なのかが丸分かりだった。
「嘘でしょ…」
それでも私はアプリを開いて、今送られてきたメッセージを開く。『naoto kamiya 』という人から送られてきたメッセージ。
それは――
――“ごめん。このまま引退する”
「どうして!!」
思わず持っていたスマホを壁に投げつける。画面にヒビが入り、メッセージを表示している画面が割れる。頭を抱えて、怒りの感情が頂点に達すると同時に一筋の涙が頬を伝った。
――翌日。
私は直人を問い詰めようと、いつもより早く登校した。あいつは1組で私は3組。とりあえず1組を覗いてみ
たけど、直人の姿はなかった。まだ登校していないようだ。
「あれ?水町ちゃん?1組に何かよう?」
「あ、友田君。直人ってまだ来てないよね?」
「直人?あいつは最近遅刻ギリギリに来るぞ。日に日に顔色が悪くなって、性格も暗くなってきてるから心配でな。ちゃんと部活行ってるのか?」
友田君の話を聞いて、直人はまだ部活を引退するということは公には言っていないということが分かった。直人のことだから、面倒なことは嫌って噂が回るのを待っているのだろう。
部活を引退するということもまだ私くらいにしか言ってないのかもしれない。
「ん?あれ、直人じゃねえか?」
「えっ?ああー!」
教室の入り口で話していたら直人が私がいることに気がつかないまま歩いてきている。
「おーい直人…あれ?水町ちゃん?」
友田君が声をかける前に、私は無意識に直人の方に向かっていた。
「…直人」
「んーって美優!?何でここにいるんだ!?」
「ちょっと話があるんだけど」
「えっ?」
私は直人の返事も聞かずに、人が居なそうな端っこの階段へ連れて行った。
「昨日のこれどういうこと?」
壁側に直人を立たせ、昨日送ってきたメッセージを見せる。すると直人は申し訳なさそうな顔をした後、直ぐに冷めたような目をして言った。
「どうもこうも、そのメッセージの通りだよ。俺はこのまま引退する。どうせ残っても大会には出られない…それなら、このまま続けても同じことだ」
「大会に出ることだけが全てじゃないでしょ!だって、あんなにも楽しんで部活をやってじゃない」
「それは…」
ここまで問い詰めても煮え切らないような答えしか返さない直人。そんな態度に憤りを覚えた私はいつもより強い口調で言ってしまった。
「これまで頑張ってきたのも全て無駄にするの?毎日遅くまで練習して、高いスパイクも買ってもらって、そこまでしてきて……いや、してきてもらったのにそんな簡単に投げ出しちゃうの?」
「……じゃあどうすればいんだよ」
「えっ?」
心底苦しそうな声で直人は言った。そして……
「じゃあどうすればいんだよ!俺の足はもう治っても大会に間に合わないんだよ!大会に出ることが全てじゃないなんて、そんなのただの綺麗事だろうが!
今までやってきた全てを無駄にする?怪我した時点で全て無駄にしたようなもんだろうが。部活を続けようが辞めようが、そんなの変わりねえだろ!」
「ぜ、全然違うわよ!今の直人はただ怪我から逃げてるだけじゃない!」
「逃げて何が悪い!お前に分かるか?俺の今の気持ちが。最後の大会に出ることすらもう叶わない俺の気持ちが。最後の最後で走れないで終わるこの気持ちが!お前に分かるのか!」
「……」
「別に新記録が出なくてもいい……。最下位でもいい……。でも、最後の最後はせめて走って終わらせたかった。けど、それはもう叶わない。だから俺はもう辞める」
そう言って直人は行ってしまった。きっと、これが本音だったんだろう。今まで胸に秘めていた本音。私は……ここで始めて直人の本音を聞いた。
そして、直人の姿が見えなくなったところで小さくつぶやく。
「あんたが走って終わらせたいなら、走って終わらせてあげるわよ」
私は直ぐにある人物に連絡し、とある計画を立てることにした。
――そして直人は本当に引退してしまった。“一身上の都合”という一点張りで、詳しい事情も話さず黙って去ってしまった。
それから皆は直人のことを気にしないよう、気にとめないように練習を取り組んでいたけれどそんなことは出来なかった。
そんな時、私は部活を始める前にある皆に提案をした。
「ねえ皆、一つ提案があるんだけど乗ってくれない?」
◆◆◆
――部活を引退した俺は、とりあえず怪我が治るまでは接骨院に通っていた。毎日30分の電気治療を受け、湿布が切れていたら湿布をもらうだけ。一週間に一回だけレントゲンを撮ってもらう以外は変わり映えのしない、ただの治療の日々が続く。
「……」
肉離れしていから随分と経ち、痛みは大分引いてきた。ただ歩くだけなら普通にできるようになったし、座ったり立ったりする時も痛みは感じない。
痛みを感じないと怪我が治ったのではないかと勘違いしそうになるけれど、あのとき肉離れを起こした脳に響くような痛みがよみがえって走ることはできない。
「もう俺は一生走れないかもな」
家までの帰り道、いつもより長い診察を終えて夕日を背中に浴びながらつぶやいた。
――部活を辞めた俺は、バイトもせずただ時の流れに身を任せていた。
結局、大会の応援に顔を出すことも出来ず夏休みも特にこれといった出来事はない。休みが明ければ体育祭や文化祭があったけど、それもなぜかいつもより色褪せて見えてしまった。
全てが色褪せて見える理由は分かっているのに、それを自分で解決しようとはしなかった。
「……」
「あっ、神谷先輩」
「えっ?」
トボトボと歩いて帰っていたら急に声をかけられた。後ろを振り返ると、そこには後輩の駿河の姿があった。
「駿河か。久しぶりだな」
「お久しぶりです先輩。どうですか?肉離れは?」
「お、おう。もう随分と経つからな。治ったんじゃないか?」
駿河は以前と変わらない態度で接してくる。かえってこっちが動揺してしまうほど自然に接してくるので、思わず後ろに数歩下がる。
「先輩、今度走りましょうよ。さすがにもう治ってますよね?」
「は、走りか……。いや止めておくよ。あれから走ってないし、もう走り方も忘れちまったし」
「でも走りたいと思ってますよね?体育祭もうらやましそうに、部活動対抗リレー見てたじゃないですか」
「うっ……!」
どうやら駿河には筒抜けだったらしい。いや、きっと俺が部活を辞める前から勘づいていたのだろう。そんな駿河には隠し事をする気も起こらず、素直に答えた。
「…走りたいよ。やっぱり。むしろ、部活をやってたときよりもその思いが強くなった」
部活を辞めてもスパイクはとっておいてある。何なら新品同様と思えるほど手入れが行き届いている。休日や学校から家に帰っても、“走りたい”という衝動があるけれど、やはり肉離れしたときの痛みがフラッシュバックしてしまうのだ。
「神谷先輩」
「なんだ?」
「なんでもないです。じゃあ俺はこれで失礼しますね」
「え?あ、おい――」
引き留めようとするも、駿河は走って行ってしまった。さすがは現役陸上部。鞄を持っていても軽やかなに走って、姿を消してしまった。
「なんだったんだ?」
結局、駿河が声をかけてきた理由がよく分からなかった。でも、なぜか俺の胸は少しだけ軽くなったような気がした。
「走りたいか……」
あの日、美優に問い詰められた時に言えることができれば良かったと思うと、再び胸が傷んだ。
◆◆◆
ーー気づけばもう卒業を迎える時期になっていた。
部活を辞めてからは美優とは疎遠になっていて、あれから一度も口もきかなった。
その時、ポケットに入れていたスマホが振動する。
ーー“卒業式の日、競技場に来なさい”
「はあ?」
振動の招待はメッセージの受信で、発信者は美優だった。最後にやり取りをしたのが去年の3月になっていて、それからずっと疎遠になっていたのに約1年ぶりのメッセージはたったその一言だった。
何の意図があるのかと、首をかしげながらもどこか心が踊っている自分がいた。
そして、卒業式の日。肩苦しい空気とつまらない来賓の人の話。あくびが出てしまうほど退屈な祝辞の時間に耐え、その後の記念撮影などもほどほどに俺は競技場に急いだ。
学校近くのバス停でバスに乗り、約30分の場所にある陸上競技場。他の外部活が練習試合なのでグラウンドを占領していたときは、よく行って走っていた。
「……懐かしいな」
バスから見えていた景色も、競技場独特の空気も懐かしくて思わず涙が溢れそうになる。
そして、競技場の入り口には後輩たちが既に待っていた。
「神谷先輩。待ってましたよ」
「えっ?」
「ほら早くこれに着替えて、これ履いて、さっさとアップに行ってください」
後輩から投げられたのはユニフォームと、競技場用のスパイク。強く背中を押されて、約1年ぶりにトラックに足を踏み入れる。
「……」
土とは全く異なる感触。より反発をもらうことができる、ゴムのトラック。俺はこれまで何度もここで走ってきた。
記録がでなくて辛かったときも、新記録がでて喜んだ日も、どんな時もここで走ってきた。
「先輩、アップが終わったらスターラインに立ってください。俺たちと100m勝負しましょう」
「え、ちょっと待ってくれよ」
「ーー走りたいんでしょ?めちゃくちゃ」
「……」
これまで何度も言われた言葉。俺は今まで、この次に返すべき言葉が喉に詰まってでてこなかった。
けれど、
「ああ。走りたい」
この日は迷うことなく、その言葉がでてきた。
そして俺はスタートラインに立つ。
『On your marks』
「「お願いします」」
一例をして、さっき合わせたスタブロに足をかける。集中力を高め、100m前のゴールを一度確認する。
『セット』
「……」
ーーパンッ!!
「ーー!!」
雷菅の音が響き渡ると共に、一斉にスタートする。いきなり体を起き上がらせてはいけない。
徐々に上がり、加速を得る。
体を起こしたら、早く地面に足をつくとこを意識して足を動かす。
ーーそして
「はあ!はあ!」
ものの10秒ちょっとほどで100mが終わってしまう。この10秒間に、自分の全てを出しきる。それが100mだ。
約1年ぶりに全力で走った。
「直人」
「えっ?」
膝に手をついて、激しい呼吸をする俺に声をかけてきたのは美優だった。とても嬉しそうに笑って、擦ってしまったのか、目が赤くなっている。
「楽しかった?」
「……最高だよ」
差し出された拳に拳を合わせる。すると美優はより一層の笑顔を見せた。
「ねえ直人。私のスマホ、直人のせいで画面割れたから弁償してね」
「はあ!?いやいや、俺知らねえよ」
「いいから直してね!じゃないと許さないから」
いつも通りの美優の態度に、俺は安心する。
そして心の中でそっと、“ありがとう”と言った。
読んでいただいてありがとうございます。