婚約者と仲秋
リーデシア=アルミアは侯爵令嬢である。ウェーブがかった栗色の髪に琥珀の瞳を持ち、穏やかに微笑む姿は花の精霊のようだと言われている。
そんな彼女には幼馴染みで騎士の婚約者がいた。侯爵子息のアルフレッド=リグタードである。
初対面でプロポーズをかまし見事婚約した二人は大変仲睦まじく、いまだ式を挙げてはいないものの、既に同居を始めている進み具合である。
季節は仲秋、秋中頃。肌寒さを感じ始める時期。
リーデシアは暖炉の前のロッキングチェアに座り、読書に勤しんでいた。文字に目を通しページを捲る。ブランケットを肩に羽織っていたが、肌寒さを感じて腕を擦った。
本を閉じて脇に設置されたサイドテーブルに置く。暖炉に火をくべようか迷っていると、玄関の方がにわかに騒がしくなった。
ぱっと顔を輝かせたリーデシアはいそいそとカーディガンを着直して早歩きで部屋を出た。プリーツ加工のロングスカートが歩く度にふわりと風に揺れる。栗色の長い髪がスキップするリズムと同じタイミングで跳ねていた。
壁からひょこりと顔を出し玄関先を見ると、予想した通りの人物が馬車から降りてくる所だった。
「お帰りなさい、アル!」
レディとして品を失わない程度に駆け寄りながら、明るい声を出す少女にアルフレッドは満面の笑みを浮かべた。
「ただいま、リディ。今日も君は可愛いな」
「まあ、ありがとうアル。出掛ける前にも聞いたわよ」
「そうか? 君はいつだって可愛くて、毎秒愛しさが募ってしまうから。何度伝えても言い足りないな」
「そう言われると照れてしまうわ、私の素敵な婚約者様」
「リディ……抱き締めていいか?」
返答を聞く前に抱き締めてきた少年に、少女はきゃあきゃあと楽しそうにはしゃいでいた。
朝も見たやり取りに使用人達はもはや何も言わず、黙々と次期当主の荷物を屋敷に運んでいく。
最初期は微笑ましいと思いながら見守っていたのたが、いくらなんでも毎日毎朝毎晩繰り返されるといい加減慣れてくる。鬱陶しいと思わないところはさすが侯爵家の専属使用人といったところか。彼ら彼女らはスルースキルのプロフェッショナルであった。
リーデシアの友人であるハンナはアルフレッドの顔を見ただけで「うわッ、鬱陶しッ」と漏れてしまうので、侯爵家の使用人達は非常に練度が高かった。
夕食を終え湯浴みも済み、所変わってアルフレッドの自室にて。
二人はまったりとした時間を楽しんでいた。婚約者を膝に乗せて髪をすいていた少年は、少女の長い髪を三つ編みにしながら尋ねる。
「今日は何をして過ごしていたんだ?」
リーデシアは少年を振り仰ぐ。おっとりとした微笑みを浮かべる少女の姿が、アルフレッドの瞳に写っていた。くたりと胸に凭れかかりながら、彼女は一日を振り替える。
今日は本を読んでいた。約一月後に開催される収穫祭について書かれた民俗学の書籍。成り立ちや現在の変遷を訥々と語りながら、ふと思い出したことを口に出す。
「それで、少し肌寒くて暖炉に火をくべようかと思ったの。でもまだ仲秋で、火をつけるには早いでしょう」
リーデシアは無意識に腕を擦った。今はアルフレッドがいるためあまり寒くはないのだが、一人でいると秋冷えする。
我慢出来ないほどではないし、着込めば何ら問題はない。ないのだが、風を冷たく感じる度に思うのだ。ここに彼がいればいいのにと。背に当たる体温が心地良かった。
日中は騎士団の訓練で出掛けてしまうアルフレッド。常に気にかけ心を配ってくれる彼を困らせたくはなかった。
我が儘を言ってはいけないとわかっているのだが、こうして触れ合うともっと体温を分かち合いたいと願ってしまう。寒い日に一人でいると特に人肌が恋しくなり、その思いが募った。
少女がほうと溜め息をつき目を閉じる。穏やかな時間と規則正しい鼓動が眠気を誘った。
彼の手を掴み、握る。少し離して指先で掌を撫でた。ひくりと動いた右手に、リーデシアは静かに笑う。
掌を合わせればその大きさの違いに驚いた。剣だこができ、ごつごつしている。指の長さだけでなく太さまで違った。指を一本一本絡めて握り込もうとしたが、指の間が限界まで広がり、少年の手の甲にまで指先が届かなかった。
「……大きいのね、とっても。昔はあまり変わらなかったのに」
思わず漏れた一人言。言葉尻は懐かしげで、流れた月日を愛おしむかのようだった。
少年の華奢だった掌を思い浮かべる。白く傷一つなかった両手。どこに行くときも、部屋で寛いでいるときも、二人でいるときはいつだって握っていた。離れないようにずっと。
閉じかけていた瞼を持ち上げる。見上げた少年の眼差しが優しくて、彼女は安心しながら眠りに落ちていった。
完全に脱力した婚約者をベッドに寝かせたアルフレッドは、一旦彼女から離れた。ベッドから降りると両手で顔を覆い、長く深く息を吐き出した。
顔が熱い。耳が熱い。握られた掌が一段と熱かった。離れた瞬間から鼓動が速くなっている。彼女の眠りを妨げないように精神の安定に徹していたが、もう限界だった。
小さかった。柔らかかった。彼女と掌を重ねて、その暖かさに泣きそうだった。
騎士として魔物を屠り、時には敵を切り殺したこともある。彼女の白く綺麗な両手と違って、己の手はとうに汚れている。
頬に触れるのは平気だ。髪に触れるのも平気だ。けれど掌に触れることだけは、微かに躊躇ってしまう。思わず比べてしまうから。
彼女の小さな手と、大きくなった自分の手。
彼女を守れるくらい強くなった。彼女を守るために騎士になった。そこに後悔はない。
彼女に心配させまいと傷跡こそ残らないように気を付けてはいるものの、お世辞にも綺麗とは言えないだろう。果たしてこの手は彼女に誇れるものだろうか。
思い出す、初めて戦いに赴いた日を。
思い出す、初めて戦場に立った記憶を。
轟音と焦燥、ざわめきと狂騒。剣戟の響く丘の上で、刃が合わさり甲高い音がこだました。
一人仲間が消えた。一人敵を斬った。どこかで仲間が死んだ。目の前で敵が死んだ。硝煙の匂いが漂い、瞬間視界が白く染められる。一瞬音を消した聴覚に、悲鳴と歓声が滑り込む。
赤く染まった皮手袋。銀の鎧は傷だらけ。片手に握った剣は脂で汚れて切れ味が悪い。切り裂くような斬撃はなく、断ち切るように圧し潰す。骨の砕ける衝撃が、手を通し脳に届いた。
君を守ると誓った。君の住む国を守りたかった。
優しい君よ、愛しい君よ。可憐で清楚で麗しく、素直で綺麗な君ならば。国を守ったこの俺を、人を殺したこの俺を。今まで通りの優しさで、果たして愛してくれるだろうか。
愛してくれるのだろう、きっと。
それでも彼は話せずにいる。
彼女には何も知らないまま、綺麗なままで笑っていてほしかった。自分のために泣いてほしくはなかった。
アルフレッドにとっての温もりは、彼女をおいて他にないのだから。
眠る少女を盗み見る。穏やかで落ち着いた寝息に、少年は決意を新たにした。
――例え何があろうとも、彼女だけは守り抜くと。