一、 沙羅
ほんのちょっとのミステリー要素とファンタジー要素がございます。
私の学校は、五十年以上前から存在する歴史ある学校だ。
だが、おかげで戸は立て付けが悪くなかなか開かないし、壁の塗装もボロボロ、廊下の木はどれもギシギシ悲鳴をあげて今にも崩れ落ちそうである。その上何もなくてもギシリと軋む音が響き渡るのだから生徒達にとっては不気味極まりないだろう。
で、そうなると怪談話はつきもので、よく彼らがこんな話をしている。
「ねえ、知ってる? この学校の、決まった時間にある場所に行くとなんか変なところに繋がって帰って来れなくなるんだってさ。神隠しってやつ」
「それって、三階の音楽室の事?」
「そうそう!」
「あそこ不気味だもんなー。お化けが出るって噂もあるぜ」
「まあやっぱりねって感じ?」
教室に響き渡る下品な笑い声。私はじっと机を睨みつけ、そのこみ上げる不快感を押さえつけていた。
授業の合間の休憩時間というのは私にとって拷問だ。何かするにはあまりに短く、やかましい人達の話し声に耐えるにはあまりに長い。
ここは自らを大人になったと意気がった子ども達の教室。窓はくすみ、黒板も椅子の裏も落書きだらけ。
私の居場所はここじゃない、たしかにあの噂の放課後の音楽室にあった。
鬼門かなんか知らないが、この学校は場所的にこの世ではないどこかに繋がってしまいやすいらしい。
黄昏は昼と夜の境目。そして空間と空間の繋ぎ目である廊下────特にあの生徒達も言っていた、本部棟三階、長い廊下とその先にある音楽室は────午後六時にいるとどこかへ迷いこんでしまうのだそうだ。
夕日は沈まず、学校もいつもの校舎ではなく何故か一階に玄関がない、永遠に袋小路の世界を彷徨う事になる。
と、ここまでが私の知っている怪談だ。
私は誰よりこの話を知っている自信がある。それはそうだ、だってずっと音楽室にいるようなものだから。
話に加わりたいと思わなくもないけれど、誰も彼も私を無視する。
まるで妖怪のように、本来存在していないもののように私を扱う。
ふいに生徒達の姿が一斉にグニャリとなって鬼のような姿に変わっていく。醜い。醜い。これが奴らの正体。どいつもこいつも内側にこんな怪物を飼って、外側だけ小奇麗に取り繕う。これほど醜いものがあるものか。
いつのまにか、かごめかごめをするように私の周りを鬼たちはぐるりと囲む。皆歪んで見える。目尻だけ垂れ下がって、私を嘲笑っている。汚れた黒板が、影が、写真の無数の顔が、皆私を嗤っている。
ふいに、女であるらしい悪魔がぐいと私の髪を強引に引っ張った。彼女の髪の毛の色はドドメ色。
「い、痛ッ……」
「あんたさあ、髪ボサボサだけどちゃんと洗ってるぅ? うわ、くさー」
はっと、目が覚めた。
ここはいつもの午後六時の音楽室。机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。そうしたら思い出したくもない嫌な記憶が蘇ってくる。
────人は嫌い。
私は、だからここが好きなのだ。
過去の記憶を思い出したついでに、初めて音楽室を訪れた時も思い出してみる。
さっきのよりももっともっと前の話。
*
あの日の放課後、私は一人あの廊下へ向かっていた。
この学校には合唱部や吹奏楽部がない。
午後六時に音楽室にいると神隠しに遭う。昔からあるそんな噂のせいかもしれない。
人気がなくなったのを見計らってここまで出てきたから、辺りはしんと静まり返っている。
完全に人がいないわけではないから、時々グラウンドの方から野球部の声が聞こえたり廊下を走る音が時々響いたりする。
西にある窓から淡黄の光が差し込んで私を照らす。長く伸びた影法師はまるで私の心に佇む憂鬱のようだ。片時も私の側を、離れようとはしない。
さて、階段を上がれば音楽室は目と鼻の先だ。人の気配が消え失せた三階。ここはたしかに色々噂されるだけあって、空気が心なしか淀んで重くなっている。
だが、無駄に明るくて騒がしい空気よりもこちらの方がきっと私の肌に合っているのだ。スキップするような足取りで進んだ。
窓は西向きについていてたしかに日は当たっているのにどこか暗い、そんな不思議な場所。私はここが大好きだ。
噂のせいで誰も来ない。ここは私だけの場所。何度も何度も音楽室に行っているけれど、私はたしかにここにいる。
ここは私の居場所。私の世界。
ずっと、ここにいれたらいいのになと思った。
時が止まった世界。この世にとてもよく似ているのにどこか違う、そんな本当に私だけの世界。そんなのがあったら。
*
午後六時。音楽室。
私はどれだけの間こうしてきただろう。
ヴェートーヴェンやモーツァルト、バッハ、シューベルトが見守る中、私は一人ピアノを奏でている。
明かりは窓から差し込む夕日だけで、部屋はほんのり暗かった。
指から奏でられる旋律は、悪意だらけの世界から私を切り離して心地よい孤独感を持った小さな世界を作り出す。
でも、時々思う。
ずっとこうしていたかったはずなのに、時々とても悲しくなるのは何故だろう?
夕暮れに包まれた優しい孤独が、時々こんなにも私を苦しめるのは何故だろう?
モーツァルトの曲を弾きながら思慮に耽っていると、それは何の前触れもなく起こった。
コツ、コツ、コツ。
その音が私の世界に亀裂をつくった。
人の足音。
私は思わず手を止めた。誰か、来る。
突然の来訪者が怖くて、狼狽えても足音は止まらない。こんなの初めてだった。
ガララ。
「あっ……!」
戸が開かれると共に現れたのは、短い髪の少女だった。
私はその場に立ち尽くしたまま、声も出せなかった。
えっと、と少女は戸惑った様子を見せながらも口を開く。
「と……とりあえず電気点けていいですか?」
またも私は頷く。と、同時にパッと明るい光が部屋を満たし、少女の姿が明らかになった。
茶色に染められた髪は短く切られていて活発な感じの女の子。スカートが大分短いけど、この学校のセーラー服だ。
「おんなじくらいの女の子……えっと、一応聞くけど人間、だよね?」
「そ、そういうあなたは……?」
「私? この通り人間だよ」
当然でしょとでも言いたげに、女の子は胸を張ってみせる。私とは、真逆の人種だと思った。
「あなたはずっとここにいたの?」
「ええと、まあ……」
「ふうん」
つまらなさそうに彼女は目を細めた。
「じゃあ、噂はウソだったんだね。ピアノの音が聴こえたからもしかしてと思ったんだけど」
「ピアノの音……?」
「そうそう、放課後に音楽室に行くと変な場所に迷い込んじゃうって。誰もいないはずなのにピアノの音が聞こえたら、もうそこはいつもの音楽室じゃない的な事を聞いていたから……」
「ああ、そう……なの」
怪談というものは内容が少しずつ変わっていくもののようだ。
「で……その噂を信じて、ここに来たって事……なんだね」
「まあねー。ていうか信じたかった? 的な?」
「?」
その瞬間、今まで活発だった彼女の顔にフッと陰が差した。
「だってそうしたら、この世から消えていなくなれるじゃない?」
軽い口調とは裏腹に、とても重みを持った言葉だった。
「本気でそんな事……」
「まあ、噂が本当だったらいいのにな~って程度だったけどさ。友達なんて皆表面だけの付き合いで、裏じゃ悪口ばっか。親はバカな私の話なんか聞いてくれない。頭良くなけりゃ人生どん底だし、人間なんて所詮本音と建前の生き物だし……嫌になるんだよね」
ここまで吐き捨てたところで彼女は、はっとしたように私の方を見た。
元気そうな表の顔に隠された裏の顔に私はびっくりしていたのだ。
「ってなんで初対面のアンタに愚痴ってるんだろ? なんかごめんね、あははっ」
彼女の笑顔を夕日が照らしだして、顔に差した影がより一層濃くなっていく。
「でも最近、愚痴れる相手もいないんだ。だからかな。あんたあんまり喋らないし」
「まあ、そうね……」
たしかにこの子はとてもお喋りだ。さっきから一切沈黙することもなくずっと喋っている。
何故だかわからないけれど、私とこの子はとても良く似ていると思った。だからきっとこの子の声が耳障りに感じないのだ。
「ねえ、そういえば見ない顔だよね。何年生? どこのクラス?」
「私? ええと……」
思わず口ごもってしまう。
「今の質問のどこに迷う要素があるのよっ! ウソなんてつかないでよね!!」
女の子から激しいツッコミ。
「ごっ、ごめん……なさい……えーと、そうそう二年一組だった」
「ホントにぃ?」
「本当だよっ……私は岸谷沙羅。担任は石黒先生だから……私の名前言えばすぐわかるはずだよ」
「石黒……? あぁ、腹黒糞ジジィの事か。まあ見慣れないわけだね、私は三年生だからさ」
「は、腹黒……?」
「うん。皆そう呼んでるよ。すっげー腹黒い笑み浮かべて、怖い話しては皆を怖がらせて楽しんでるから。まったく悪趣味だよな」
「そ、そうなの?」
「何? 沙羅のとこはそう呼ばれてないの?」
誤魔化すように私は笑ってみせた。女の子にとって笑っているように見えるかは微妙だったかもしれないけど……なんせ、石黒先生はずんぐりしたイボカエルのような顔をしていたけれど、頑固で皆を怖がらせるようなイメージはなかったからだ。
と、突然女の子は壁に掛けられた時計を見て叫んだ。
「うわ、私ここに来た時はまだ五時くらいだったと思うんだけど!?」
「……六時だね」
「やっば、そろそろ帰らなきゃ! 沙羅、また明日会おう!」
「明日も来るの?」
「うん、絶対行くから!! だからまた明日!!」
女の子は慌てて音楽室を飛び出して駆け抜けていく。
晩ゴハン抜きはいーやああぁぁぁ!!!
その絶叫は、放課後の学校にこだまして消えていった。
私は一人取り残され、夕闇に溶けて消えていく女の子をずっと戸の向こうから見送っていた。