37 彼は舞台上にて。
学祭第三日目。現在時刻はわからない。
ヤバい。
ヤバいヤバい。
ヤバいヤバいヤバい。
かなりマズイ。
俺は自分史上最大最高にパニックになっていた。
ずっと座り続けているものだから何となく腰の具合が悪くなり、血行を良くしようと何の気なしに背筋を伸ばそうとしたら、あろうことかバランスを崩して後ろにひっくり返った。
背中と後頭部を床にしたたかに打ちつけた。天井の照明の光がまっすぐに目に入り、気が遠くなるような錯覚に陥る。
これは完全に、俺のミスだ。
舞台の前方で演技していた声が一瞬止まる。台本にないことなのだ。だが間髪置かずに再開してくれた。ありがたい。俺は、俺はどうする。
頭の中が白熱する。それは受け身もなく頭を強打したからではなく、焦りと怖れに腹の中が冷え背筋が凍った。どうする。どうしたらいい。
このままじゃあ、間違いなく舞台は台無しになる。今日までの全てが泡になる。何のためにここまで練習してきた。俺は。皆は。
真庭は。
真庭が立ててきた舞台だ。俺なんかのせいで失敗していいはずがない。
真庭に恥をかかせていいはずがない。
だがどうする。それならどうする。
考えろ。
考えろ考えろ考えろ。
とにかく起きろ。
身を起して、
脚立に戻って、
絵を再開しろ。
もとの台本に乗りなおさなければ。
だが慌ててバタバタと戻ってはいけない。
あくまでも予定通りの体裁は保て。
自然に、
ゆっくりと、
だが迅速に・・・・
とりあえず上半身だけ起き上がり、頭を掻こうとして右手が未だに刷毛を握っていることに気づいて、左手で後頭部をわしゃわしゃと掻く。
次、次は。
と、小走りにヒロイン役の前島さんがやってきた。これも台本にない。前島さんは俺の横にしゃがんで台詞を、
『ねえ、何してるの?』
見れば、前島さんの顔には緊張が浮かんでいる。
これは完全にアドリブなのだ。
前島さんの向こう、舞台袖の幕の裏で白いものがぶんぶん振られているのが見えた。
真庭だ。
スケッチブックを掲げている。
そこには黒字で極太に、
FIGHT!!
と書いてあった。
・・・・・・・・。
俺は前島さんに視線を戻し、
『いや・・・・ひっくり返った』
我ながらどうしようもない言葉が出た。予定外に登場して俺に声をかけたところまでは真庭の指示だったとしても、その先の俺とのやり取りは前島さんもアドリブだ。会話である以上は相手の言葉に合わせて展開しなければならない。だのに、なんだこの腑抜けた台詞は。そのまんまじゃないか。
前島さんは、あはは、と笑った。
『うん、見てたよ。だから来たんだもん。派手にひっくり返ったねえ』
『ああ・・・・うん』
俺は今度は刷毛を手から離して、右手で頭を掻いた。前島さんは絵に顔を向ける。
『だいぶ出来てきたね・・・・何を描いてるのかは分かんないんだけど。それはまだ教えてもらえないのかな?』
俺も壁絵へ目を向けた。
そして思わず、おお・・・・と声を漏らしてしまった。
『どうしたの?』
『あ、いや・・・・離れて見たの、初めてでさ。しかし、これはまた我ながら・・・・』
『我ながら?』
『混沌としてるな』
目がチカチカしそうだ。俺はこんなものを描いていたのか。前島さんは笑った。
『そんなんでちゃんと完成するの? もしかして、実は自分でも何を描いてるんだかわかってないとか?』
『いや、そんなことはないさ』
俺は床や膝に手をつきながらゆっくりと立ち上がった。服を軽くはたいて埃を落とし、床に投げ出されたままの刷毛を拾う。そして、しゃがんだまま俺を見上げている前島さんに笑いかけて、
『自分が何を描いてるのかくらい、ちゃんとわかってるさ。なに、もうすぐ完成するよ。完成したら見に来いよ。一人目の感想をくれ』
そう言いながら、手を差し伸べる。
『うん・・・・わかった。そうする』
前島さんは俺の出した手を取って立ち上がり、一歩後ろに下がった。
『それじゃあ、絶対完成させてね。その時もう一度ここにくるから。・・・・がんばってね』
おう、と応えて俺は脚立の上に座り、前島さんは舞台袖へ戻っていく。
アドリブ終了。乗り切ることができたかどうかは分からない。
今度こそ台本通りの役者たちが登場し、次の場面を展開する。その台詞を背に聞きながら、俺は再び色を壁に叩きつける。
未だ焦燥のこびりついた頭を冷やしながら、心持ち刷毛の動きを速める。
他人の心配してる場合じゃなかったな、と苦笑がもれた。
わかっている、とさっきは行ったが、正直なところ、脚立から転げ落ちるまでこの絵の意味は俺には台詞以上の事は何もわかっていなかった。
でも、一歩引いた位置からこの絵の全体を見た今は、何かがわかってきた気がする。
雑多塗りなら絵心を必要しないから、だと思っていた。そんなんじゃない。この絵には、きっと、ちゃんとした意味がある。
俺が描いている絵の意味。
真庭が描こうとしている絵の意味。
びっ、と横に一線を入れて、今度は転げないように注意しながら背を反らして天井を見上げる。電灯の光を浴びながら、目を閉じる。きっと、この絵の意味するところは、真庭が表したかった意味は・・・・
とにかく、このまま無事に劇が終わったら、皆に謝らないとな。
土下座かな。




