36 彼は嘆息する。
学祭第三日目。現在時刻15:32。これでだいたい半分くらいか。
篠原は舞台上で、着々と白い壁を塗り潰していく。色に統一性はなくて、さまざまな色が重ねられていく。今、壁は中央から放射状に塗られており、白字は全体の半分以下になっていた。
不思議な光景だった。きっと他の人たちもそう思っているだろう。舞台の手前では他の役者たちがいろんな役に扮し、笑えるかけ合いや本来的な意味で劇的な展開を見せる後ろで、篠原は延々と、壁を塗り続けている。ときどきペンキ缶を持って舞台の横に出て、違う色を持ってくるくらいであとはずっとそんな調子だ。まるで舞台の前後で時間の流れが違うみたいな。まるで篠原自身が背景であるかのような。しかも篠原は終始観客に背を向け続けている。演劇としてはそれはどうかとも思えるけど・・・・
頻繁に、劇の一番初めにいた女の子が現れて篠原に話しかける。それに、篠原はぼそぼそと応えるのだけど、それはまるで『篠原』だった。他の人たちもそうなんだけど、皆が皆、台詞や身振りが自然だった。まあ身振りは心持ち大きくなってはいるけど、『演じている』という感じはしなかった。台詞も、マイクを仕込んであるから声を張る必要がないためかもしれないが、普段話しているノリとトーンと変わらない抑揚だった。
また、あの白いワンピースの女の子が現れた。刷毛を動かし続ける篠原に話しかける。
『あ、また書いてるんだね』
『ん、まあな』
『いつ完成させるの?お祭りまでもう時間あんまりないけど』
『さあな。塗り終わったら完成だ』
『っていうかこれ、何を描いてるの?下書きも何にもないし』
篠原は刷毛を動かすのを一度止めた。だがすぐに再開し、
『さてな。あんたには何を書いてるように見える?』
『何っていうか・・・・ぐちゃぐちゃ色を重ねてるだけに見える』
『それじゃあ、そうなんじゃないか』
投げやりともいえる台詞。こんな感じで、篠原の台詞は意外と多い。
しかもも今回は、さらに篠原が女の子の方へ首を巡らせて話しかけた。
『そう言うあんたこそ、何をするつもりなんだ?何もしないでフラフラしてるだけみたいだが』
『私?私は・・・・』
女の子は天井を仰いだ。
『私には、何ができるんだろうね?』
応えようのない問いに、篠原はさあなと肩をすくめて塗りを再開した。
篠原が絵描きだとして、他の登場人物たちにもそれぞれにピエロや商人なんかの『何か』がある中で、この女の子だけが奇妙だった。篠原の台詞通り、何もせずにふらふらと歩き回るだけなのだったが、篠原以外の登場人物たちは女の子をまるっきり無視して動く。まるで見えてすらいないかのように・・・・
もしかしてこの女の子は、そういう役なのだろうか。
何がきっかけか、ふっと我に返ったところで、俺は舞台に真剣に見入っていたことに気付いた。左右隣を窺えば、遠江さんも宮野もじっと舞台を見つめている。
この舞台には、不思議と人を引き込む力があった。
・・・・やっぱ凄いよ、篠原。
クラスの危機に引っ張り込んで、さんざん手伝ってもらった俺が言うのもなんだけど、あれだけ忙しかった中でしっかりとこれだけのことができるお前は、やっぱ裏方で満足してたらダメだろう。
表に出ろ。
上に立てとは言わないから、せめて表に出てこい。
影の中に引っ込もうとするな。
次篠原に会ったときは、俺はそう言おうと決めた。
まぶしいような思いで、舞台上の篠原の背を眺める。
例え立とうと思ったって、そんな簡単には立てないところにお前はいるんだよ。お前はそんなこと全く思っちゃいないんだろうが。でもな、俺にはよくわかるんだよ。
立ちたくたって、そこには立てない、俺には。
失礼な話かもしれないが、篠原が超人じみて何でもできる奴でなかったと俺は思っている。何だかんだ言って、まあ何かと不器用だしな、篠原は。
超人じみて有能な相手を見ると、俺はどうしても自分と比べてしまう。たいていのことはそれなりにできても、どうしたって中途半端にしかならない、なれない俺は、自分よりずっと先を、上を行く相手と、自分を比べずにいられない。そうして自己嫌悪にさいなまれる俺だから、もし篠原がそういう奴だったら、俺は篠原と仲良くなったりはできなかっただろう。
ま、そんな凄い奴は滅多にいないんだけどな。滅多にいないんだけど・・・・たまにいるからなあ。
がんばれ篠原。俺は少し猫背の背中にエールを送る。
そんな篠原は、ふとした拍子に座っていた脚立から後ろ向きにひっくり返った。




