夏目と樋口
「――以上、新入生代表、中森麗音」
パチパチ、と若干まばらな拍手をバックに新入生の挨拶が終わる。
高校生になったという自覚はまだない。ピカピカの学ランが少し恥ずかしい。
「おい、樋口」前の羽柴が振り返りながら言う。「あの代表って外部生か? 俺、見たこと無いんだけど」
「ん、」俺は面倒くさそうに応える。「ああ、だろう」
この学園は幼等部からのエスカレーター方式だ。まあ、幼等部からずっといる人間は少数派だが、小等部、中等部からの生徒が高等部では九割方を占める。
新入生代表になれるということは、入学試験でトップの成績だったということだ。
俺たちもクラス分けのために受けたあのテストでトップをとるということは相当に優秀なやつだと想像できる。
「気になるの?」新入生代表の女子をそんな風に見ていると、隣からそんな声が上がった。幼馴染の夏目月夜だ。
「ん、ああ、まあな」
とん、と返す。口をついた言葉。本当でも噓でもない。
「ふぅん」夏目が目を細める。「樋口くん昔は髪長いコのが好きだって言ってたのに」
長い髪を掻き揚げ意地悪く微笑む夏目に、俺はちらりと目を向け、
「そういう意味で言ったんじゃねえよ」
「そう?」
「そうだ」
くすくすと夏目が笑う。
そんな俺たちの様子を見て、羽柴は大げさに喚く。
「いいなあー。お前らは仲良くって。俺も月夜ちゃんみたいな女友達が欲しいなぁ」
羽柴が言うと、夏目は一瞬目を大きく開いたがすぐに真顔に戻って、「やだなあ、羽柴くんとも友達だよ」と言って笑った。
※※※
「でさ、実際どうなのお前」
ベッドに横になっていると唐突に羽柴が言った。
俺と羽柴は中学のときから寮の同室だ。
「何が?」
「だから月夜ちゃんのことだよ」
「はあ?」
二段ベッドの上の段から羽柴が顔を覗かせる。蛍光灯が逆光になって羽柴が真っ黒に見える。
「だってあんなに良いコでさ、可愛くて、お前とも仲良いじゃん。付き合っちゃえばいいのに」
羽柴がのたまう。
「馬鹿かお前。仲いいだけで付き合ってたら俺には何人恋人がいるんだっての」
「おうおう、さすが『女子と友達になる天才』様だ。確かにお前には女友達が一杯いるもんな。恋人がいたことはないけど」
からからと彼女いない暦=年齢の羽柴が笑う。
「うるせえ」
俺は羽柴から顔を背けて毛布を被る。
……夏目、か。
※※※
目が合った。夏目と。
すぐに目を逸らしたが気付かれただろうか。
危ない。羽柴に言われてから妙に夏目のことを意識してしまう。
確かに。確かに羽柴の言うように夏目は可愛い。間違いなく。それだけは、うん、間違いない。
気がつくと夏目を見ている。彼女の後姿を、いつの間にか、追ってしまっている。
これは、きっと、恋、とは違うと思う。
じゃあ、何か? と聞かれたら、それはそれで非常に困る。
恥ずかしいことだが、俺は、この気持ちの名前を知らない。
知らないふり、では、きっと、ない。
※※※
ある昼休み。
「本当に恥ずかしい奴ね」
「…………」
夏目を見ていることに気付かれた。
夏目に、ではなく、その友人の武者小路みのり、に。
「好きなの? 好きなんでしょ、月夜のこと。好きならいいなよ。好きって。告白しちゃいなよ。好き好き大好きって。そんなにチラチラ見てないでさぁ」
「…………」
俺は瞬時に教室中の様子を見回し夏目本人がいないことを確認する。
「あ、そうだ! 私が言ったげようか。樋口があんたのこと好きだって、て月夜に」
バカ、と言おうとした時に横から声が。
「止めなさい」
見ると徳光春日がどんと胸を張り立ち姿をピシリと決めて立っていた。
「武者小路みのり、そんな根も葉もない噂をクラスに流すのは止めなさい」
面倒くさいやつが一人増えた。
徳光は右手を大きく振り上げ言う。
「樋口一が好きなのは」
「好きなのは?」武者小路が徳光の言葉を繰り返す。
ビシッ、と音が鳴るほどに鋭く一人を指さした。
「市田織子よ!!」
おお、というどよめきがクラスメートの口から漏れ出した。
指された当の本人は「ふぇ!」とビックリしたような声を上げて、おろおろ、としていた。
「織子ね。うーん。それなら確かに納得。可愛いもんね。悔しいくらいに」
「でしょ? そう思うでしょ? それにね、証拠もあるのよ」
春日は携帯型の録音機を取り出した。そこから出ているイヤホンを武者小路と徳光は片耳ずつはめた。
「これが、証拠? …………うわぁー、あいつこんなこと言ってんの」
「そうそう。特にあいつの寮の部屋盗聴するとね、ルームメイトの羽柴日吉と、いっつも市田織子の話してるんだから」
おい。
「うわあ、ヤラシイ」
「ヤラシイでしょ」
おいおいおい。
「それにね、ひどいのはね。胸の大きさとか、顔の可愛さとかだけならまだしも、フトモモとか、お尻の話とかもしてるのよ。体操着姿の市田織子がしゃがんだ時の姿が良い、とかってね」
「うわあー。流石にそれは…………」
おい、おいおいおいおいおい!!
「でも身の程知らずね。学園一のアイドルを、だなんて」
「ねえ、」
きゃあきゃあと騒ぐ二人のやり取り。
唖然とした俺は声が出せない。
と。
「え、何? 樋口くんって市田さんが好きなの?」
その声は。
俺はまるで石になってしまったかのように動かない、自分の首を、ゆっくりと、何とか後ろに回す。
振り向くと、いつの間にか夏目が、そこにいた。購買の袋を片手に提げて。
俺は、
俺は。
「ああ、」
と言って、頷くことしか出来なかった。
※※※
それからだ。俺が市田に気がある、ということがクラスメート共通の認識となったのは。
この一件は、どこをどう間違えたのか、俺が急に昼休みに告白をし始めたという風に周りには解釈され、人生初の告白(?)は市田の『教室を泣きながら飛び出る攻撃』によって失敗に終わったのであった。
男子は数えて七十二人目の敗北者となった俺を、手を叩いて祝福し。
女子は市田を泣かせた男となった俺の頭を叩く。
確かに市田にはそれなりの、男子生徒なりの興味と言うものがある。だから百パーセントのデマだとは言わない。
けど、この仕打ちは……。
一体、俺は何か悪いことでもしたというのだろうか。
※※※
「やっぱり市田さんが好き?」
唐突に夏目が言う。
「……え?」
夏目に屋上に呼び出され来てみれば、突然、夏目が切り出した。
もしや、と思わない男がいるのだろうか。
これは、と俺は思った。
「あのね、驚かないで聞いてね。実は……」
そっと後ろから封筒を出す夏目。
キタ、と思った。
「これ……」夏目が差し出す。
俺は若干震える手でそれを受け取る。
初めてだ。こんな経験初めてだ。
中から便箋を取り出す。
丸い字が見える。
これは、
「後輩の女の子からなんだけど」
ベタな展開だ、と我ながら泣いた。
※※※
「あのね、樋口くんはさ、明日の後夜祭、予定とかって……、もうある?」
「後夜祭? いや、別に何も無いけど」
「じゃあさ、明日のキャンプファイアーの時間、ここに来てくれない?」
「ここ? 図書室?」
「うん、ダメ?」
「ん、分かった来るよ、ちゃんと」
文化祭中、俺は後夜祭の約束をした。
夏目と。
※※※
夏目の手を取った。
温かい。
キャンプファイアーが煌煌と燃え上がる。
夏目のスカートが揺れる。
足が動く。
踊りなんて分からない。
夏目を抱きとめる。
胸が張り裂けそうだ。
髪がキレイだ。瞳がキレイだ。頬が、唇が、すべてが。
はあ、とその唇から息が漏れる。
初めて感じた、愛おしい。
そして分かった。
ああ、俺は、夏目月夜が好きだ。
愛しているんだ。
この胸一杯に抱きしめたい。
「…………はじめ……」
懐かしい響きだ。
「夏目……」
返す。
「……『つくよ』」夏目が言った。
「…………」
「ねえ、はじめ、私も、私のことも『つくよ』って、あの頃みたいに呼んで」
「…………」
「私、思うんだ。子供のときみたいに、あの頃みたいに、好き、って言葉をさ、まるでため息をつくかのように、そんな具合に簡単に言えたら、どんなに、それはどんなに素敵なことなんだろうに、って」
「……つくよ」
「はじめ」
「つくよ」
ぎゅっとその身体を抱きとめた。
もし、幸せに温度があるのだとしたら、きっと、俺はそれを感じた。