はじまり
起きて、と俺を呼ぶ声が聞こえる。
暗い闇の中で俺は両膝を抱えている。無音が響くその中で、その優しい声だけが俺を包む。
自分が何をしているのか、さっきまでなにをしていたのか、どこにいるのか、今何時なのか、俺には分からない、思い出せない。
ここは夢の中なのだろうか。闇特有の冷たさも今は感じない。柔らかい。柔らかく俺を包むこの闇は、死へと続く黄泉への道ではなくて、きっと命の産まれる子宮の中のそれに似ているのだろう。
起きて、もう一度、今度はさっきよりも大きな声で聞える。
聞き覚えのある声、誰の声だ。俺は考える。
ああ、夏目か。ふわふわとした頭で、そう、思った。
そうだ、夏目の声だ。俺は理解した。
はっきりと思い出した、闇の中で。
俺は学園祭の後夜祭に出てそこで夏目と一緒にいて、そして――。
※※※
ハッとそこで闇が晴れる。闇が晴れたその先も夜闇であることには変わりなかったが、月明かりに照らされていて先ほどまでの真の闇では決してなかった。
薄っすらと月に光る白色のシーツが俺の居場所を教えてくれる。
ここは、保健室だ。
認識した途端に鼻につくエタノールの匂い。固いベッドの軋む感触。
自分がなぜここにいるのかは分からない。まだ頭が上手く回らない。随分深く眠りについていたのか体中が痛い。頭が重たい。
俺はゆっくりとベッドを抜け出し、冷たい床に足をつける。上履きは見つからない、どこに脱いだっけ。そう思ってから俺にはこのベッドに潜り込んだ記憶が無いことを思い出して、少し肌寒くなる。
とすとす、と靴下のまま俺は歩き出す。明かりをつけに入り口まで、とことこ、と。足が上手く動かない。足の長さが変わってしまったかのようにふらふらと、ふらふらと、思ったタイミングで地面が足に着かずに、ぱたぱたと下手なダンスのように足が踊る。
まるで自分の身体が自分のそれでないような感じで。
電気をつける。眩しい。目が痛い。
明るい蛍光灯の光が保健室の白い品々に反射して俺の両目に飛び込んでくる。薄っすら滲んだ視界がだんだんとはっきり輪郭を帯び始める。
シーツのよれたベッド。薬品棚。体重計。洗面台。それと――。
俺の視界の端に人影が見えたような気がした。
「あぁ、」
俺の漏らしたと思われる声は、俺の頭を襲う鈍痛と、その人影に対する何ともいえないもやもやとした気持ちも働いてか、か細く、自分で思っていたよりもずっと弱く響いて、真っ白な壁の中に溶けて消えた。
人影は、同じクラスの、夏目月夜のものだった。
「夏目、」
俺が彼女の名前を呼ぶと同時に、目の前の夏目も口を開く。
俺の声が夏目の声に搔き消された。
「おい、夏目」
まただ。俺たちの声が重なる。
「俺たちどうしてここに」
夏目の声で、俺の話そうとした言葉が、俺の喉から、聞こえて。
「夏目……?」
俺が不思議に思うと、目の前の夏目も不思議そうな顔をする。俺が夏目の方に向かって歩くと、夏目もゆっくりと俺の方に向かってくる。俺が夏目の方に右手を伸ばすと、夏目は左手を俺の方に指し伸ばす、けれど。
俺の指が夏目の指に触れる直前、何かが俺の指に当たる。固くて冷たい壁のようなものが俺と目の前の夏目の間を阻む。
「なんだ、これ」
俺と、夏目がまったく同じ言葉を、まったく同じタイミングで呟き、俺は右手のひらを開き、まったく同じ動作で開かれた夏目の左手に添える。
ああ、知ってる。この感覚。誰でも小さいとき、一度は不思議に思ったことがあるだろう。どうして左右が反転するのか。
「か、鏡……?」
俺が呟いた。女子のように高い声で。
目の前の鏡に映る夏目も今俺が恐らくしているであろう、驚き顔で俺の方を見ている。
ふと、俺はまた違った違和感に目線を下げる。
胸が二つに、そっと、盛り上がっている。
無意識にそれを触れる。指が吸い込まれていくように柔らかい。
その先に見えるのはスカート。
何故だか分からないが少し膨らんだ胸の先には女子の制服のスカート、そこから伸びる俺のものとは到底思えない、白くて細い足。
髪に、頬に、鼻に、手を当てると鏡に映る夏目も同じように動き、そして。
※※※
「樋口くん……?」
いきなりの声に、びくり、とした俺と鏡の中の夏目。どこかで聞いたことのあるような男の声。
ゆっくりと声の方に顔を動かすと、俺の目に、鏡の中に探したものが映った。
俺、だ。
そこに立っているのは俺だ。
俺はもう半ば何が起こったのか頭の片隅で理解しながら、それでも右手を伸ばす。すると目の前の俺はその手を右手で掴み握る。
「樋口くんでしょ」
俺じゃない俺が言う。
俺は、口を開いて、でも「そうだ」と言う言葉がどうしても言えなくて、口を閉じて口の中で幾つもの言葉を噛み砕いて、代わりに言った。
「お前は……、夏目か」
俺の口から飛び出る夏目の声。
「うん」
目の前の俺にしか見えない夏目は俺の声で頷いた。