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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

氷の王子に嫌われた侍女ですが、婚約披露の夜に世界ごと凍らせて溺愛されました

作者: 奇譚端
掲載日:2025/12/07

 

 一年中花が咲き乱れる常春の国、カンタレラ王国。

 その王城の最奥、選ばれた者しか立ち入れない聖域に、庭園「アマローネ」はあった。

 そこは、呼吸をするだけで肺が焼けるほど、濃厚で甘ったるい芳香に満たされている。

 その、吐き気を催すほどに完璧な「作り物」の中心で、この国の第一王女メリゼが、銀の鈴を転がすような笑い声をあげていた。


 その笑みは誰もが陶酔するほど愛らしい。

 ――なのに、ルミにはふと、扇子の陰でその美貌がひどく退屈そうに歪んだように見えた。


 満開の花も、舞い踊る蝶も、ひざまずく人々の微笑みさえも。

 メリゼ王女の瞳は、それらすべてを食べ飽きた砂糖菓子のように眺めている……そんな錯覚が、ルミの背筋に冷たいものを走らせた。


 だが次の瞬間には、何事もなかったかのように完璧な微笑みが戻り、メリゼは向かいの男へ甘えるような声を投げかけた。


「ねえ、ヴェルト様。わたくし、あの空の色が気に入りませんわ。もっと淡い紫にしてくださらない?」

「……ああ。魔術師団に命じ、幻惑の結界を張らせよう」


 メリゼの向かいに座るのは、北の大国・ヴォルフラム帝国の第一王子、ヴェルト。

 月光を織り込んだような銀色の髪に、絶対零度を宿したごとき灰色の瞳。その美貌は「生ける氷の彫像」と称され、誰一人としてその心に触れることのできない孤高の存在として知られている。

 彼もまた、この国の「甘い毒」に侵され、美しいだけの傀儡になり果てている――誰もがそう思っていた。


 その場に控える侍女の一人、ルミにとって、この空間は美しい地獄だった。

 彼女は、貧乏男爵家の娘だ。この煌びやかな世界においては路傍の石ころにも等しい。

 だが、ルミは主人のカップに紅茶を注ぎながら、奥歯を噛み締めて立っていた。

 王女メリゼの周囲には、常に人の思考を強制的に「王女への愛」へと書き換える圧力が渦巻いている。周囲の人間がうっとりとした虚ろな眼差しで王女を崇拝する中、ルミだけはその圧力に抗い続けていた。


(私は、人形じゃない。この心だけは、誰にも渡さない)


 恐怖で膝が笑いそうになるのを、侍女としての小さな矜持だけで支えていた。


 ふと、ルミの視線が下がったとき、ヴェルトの膝元が見えた。

 純白の礼装の生地を握りしめる彼の手。その指先が、真っ白になるほど強く食い込み、小刻みに痙攣している。

 鉄仮面のような無表情の下で、彼の手だけが悲鳴を上げている。その違和感は、完璧な絵画に垂れた一滴の墨汁のように、ルミの胸に奇妙な染みを残した。


 陶器が触れ合う硬質な音が響く。ヴェルトが顔を上げ、ルミと視線がぶつかった。

 灰色の瞳と、茶色の瞳が交錯する。

 ルミの喉が、引きつった音を立てた。

 彼の瞳孔が極限まで収縮し、まるで深淵のような暗い色が彼女を射抜いていたからだ。それは殺意か、軽蔑か、それとも――。


「……メリゼ。その侍女を、視界から消してくれないか」


 地を這うような低い声。

 ルミは、心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような心地がした。


(ああ、まただ……)


 今日に始まったことではない。

 彼がこの国に滞在してからというもの、廊下ですれ違えば氷のような視線で睨まれ、掃除をしていれば「邪魔だ」と遠ざけられる。この数ヶ月、ルミはずっと彼に徹底して拒絶され続けてきた。

 やはり、不快なのだ。他国の王族の目に、自分のような地味な人間は「汚れ」として映るのだ。


「あら、ルミのこと? 地味で目障りですものね。ええ、下がらせますわ」

「……感謝する」


 ルミは唇を噛み締め、涙を堪えて深く淑女の礼をした。

「申し訳ございません。直ちに下がります」

 震える声でそう告げ、ルミは逃げるようにその場を辞した。背を向けた彼女には、ヴェルトが内臓を絞られるような、重く苦しい吐息を漏らしたことなど知る由もなかった。


 逃げるようにして王城の回廊へ出たルミは、誰にも見られないよう、早足で歩き続けた。

 惨めだった。悔しかった。けれど、それ以上に胸が痛かった。

 涙をごまかすために顔を伏せ、角を曲がろうとした時だ。


「待ちなさい、ルミ」


 背後から、鈴を転がすような甘い声がかけられた。

 ルミが驚いて振り返ると、そこには主である王女メリゼが立っていた。彼女は侍従たちを下がらせ、心配そうに眉を下げてルミに歩み寄ってくる。


「メリゼ様……? お茶の席はいかがなされたのですか?」

「貴女が泣いているような気がして、追いかけてきたの。……ヴェルト様が酷いことを言ってごめんなさいね。あの方は北国育ちで、心が氷のように冷たいのよ」


 メリゼが、ルミの手を取る。

 その瞬間、ルミの背筋にゾクリと悪寒が走った。

 柔らかく温かい手。けれど、肌に吸い付くような奇妙な湿り気がある。まるで、蜜壺に落ちた羽虫が絡め取られるような、生理的な不快感。


「でも、私は違うわ。貴女の働きぶり、ちゃんと見ているもの。地味だけれど、私の大切な玩具ドール……いいえ、侍女ですものね」

「っ……もったいないお言葉です」


 ルミは反射的に頭を下げたが、本能が警鐘を鳴らしていた。

 目が笑っていない。

 慈愛に満ちた言葉を吐きながら、その瞳の奥には、所有物を品定めするような昏い光が宿っている。

 彼女の「優しさ」は、拒絶よりもずっと恐ろしい、逃げ場のない檻のようだった。


「今日はもうお休みなさい。……夜会の準備で忙しくなるけれど、貴女の顔を見ると安心するから、夜には必ず顔を見せてちょうだいね?」

「はい……ありがとうございます、メリゼ様」


 ルミはどうにか震えを押し殺し、作り笑いを浮かべた。そうしなければ、この甘ったるい空気に押し潰されそうだったからだ。

 メリゼは満足そうに微笑むと、甘い香りを残して庭園へと戻っていった。

 残されたルミは、触れられた手をスカートでごしごしと拭った。洗っても落ちないような、べとりとした不快感がまとわりついている。


 怖い。

 ヴェルト様の冷徹さも怖いが、メリゼ様の優しさは、もっと根源的な何かを侵食してくるようで恐ろしい。

 早く厨房の隅にある自分の部屋へ戻ろう。

 ルミが再び歩き出し、人気のない回廊へ入った、その時である。


 突如として、肌を刺すような冷気が回廊を満たした。

 吐く息が白く染まり、窓ガラスには霜の模様が音を立てて広がっていく。

 異常な事態にルミが足を止めると、前方の影から一人の男が現れた。


「ヴェ、ヴェルト様……!?」


 先ほど庭園にいたはずの彼が、なぜここに。

 彼は無言でルミに歩み寄ってくる。一歩踏み出すごとに、その足元から床石が凍てついていく。

 ルミは後ずさろうとしたが、足が動かない。いつの間にか彼女の靴底は、氷によって床に縫い止められていた。

 ルミが絶望に目を閉じた時、彼は「動くな」と切羽詰まった声を絞り出した。

 退路を塞ぐように壁から氷の棘が出現し、氷の檻となってルミを囲い込んだ。


 目の前には、整いすぎた美貌。その瞳は、庭園で見せた無感情なものではなく、ドロドロとした熱い狂気を孕んでいた。


「あ、あの、殿下……? 私、なにか粗相を……」

「黙っていろ。……声を、聞かせないでくれ」


 ヴェルトは苦しげに顔を歪めると、氷の檻越しに、震える手を伸ばした。ルミの頬に触れるか触れないかの距離で、その指が止まる。

 まるで、触れれば壊れてしまう芸術品を前にしたかのように、痛々しいほど躊躇いがちに。


「触れたい……。だが、今触れれば、私は自制を保てない」

「で、殿下?」

「ルミ。……なぜ、君なんだ」


 彼はうわ言のように呟く。

「この狂った円環の中で、なぜ君だけが……。ああ、くそ。あと数時間の辛抱だ。今夜の夜会ですべてが終わる。そうすれば、もう二度と君を離さない」


 ルミには、彼の言葉の意味が何一つ理解できなかった。

 ただ、目の前の彼が、今にも泣き出しそうな顔をしていることだけが分かった。

 どうして。どうして私なんかに、そんな顔を見せるのですか。貴方は私を「目障り」だと言い、ずっと避けてきたではありませんか。

 さっきのメリゼ様の、まとわりつくような不気味な優しさとは違う。

 切実で、張り裂けそうなほど純粋な瞳。


 ルミが何かを問いかける前に、彼はギリッと奥歯を噛み締め、踵を返した。


「夜会には出るな。メリゼに何を言われても、絶対に厨房の奥から出てくるな」


 それだけを言い残し、彼は宙に舞う氷の結晶を残して去っていった。

 取り残されたルミの頬には、幻のような冷気の余韻だけが残っていた。


 夜の帳が下りる頃。

 カンタレラ王城の大広間は、メリゼ王女の婚約披露パーティーのために煌びやかに飾り付けられていた。

 ルミはヴェルトの不可解な言いつけを守ろうとしたが、「夜には必ず顔を見せて」という王女の言葉と、「人手が足りない」と血相を変えた給仕長の剣幕に抗えず、結局、会場の隅に立たされることになった。


 数百人の貴族たちは皆、一様に同じ角度で微笑み、同じタイミングで瞬きをし、メリゼ王女を見つめている。

 ここは人間が祝う場所ではない。精巧に作られた人形劇の舞台だ。


「皆様! 今宵は我が国の『象徴』たる私の婚約を祝っていただき、感謝しますわ!」


 メリゼが高らかに宣言する。

 その隣には、純白の礼装を纏ったヴェルトが立っている。彼は彫像のように動かない。その顔色は青白く、まるで死人のようだった。


「さあ、ヴェルト様。誓いの口づけを」


 メリゼが彼に白魚のような腕を絡ませる。

 ルミは目を逸らそうとした。その時である。


 耳鳴りではない。世界に亀裂が入るような、硬質で不吉な音が響いた。

 その瞬間、メリゼの隣に立っていたはずの「ヴェルト」が、サラサラと音を立てて氷の塵へと崩れ落ちた。

 それは、精巧に作られた氷の人形だったのだ。


 どよめきが起きるよりも早く、大広間の重厚な扉が、内側からではなく空間ごと吹き飛んだ。

 火薬ではない。大気が凍結し、その体積膨張に耐えきれずに破砕したのだ。

 悲鳴すら凍りつく暴風雪が広間を蹂躙し、舞い散るダイヤモンドダストの中、一つの影がゆらりと現れた。


 本物の、ヴェルト王子。

 だが、彼の右半身はすでに人としての機能を失っていた。右腕から右足にかけて、肉体が半透明の青い結晶へと置換されている。


「誓いなど、ドブに捨てろ。魔女め」


 彼が足を踏み出すだけで、真紅の絨毯が波打つように凍りつき、氷の茨となって貴族たちの足を拘束した。

 メリゼが目を見開き、金切り声を上げる。

「ヴェ、ヴェルト様!? 何を仰っていますの? 貴方の心は、私が書き換えたはずですもの!」

「運命、だと?」


 ヴェルトが冷酷に笑う。その笑顔は、あまりにも美しく、あまりにも恐ろしかった。

「ああ、愛していたさ。『一度目の人生』ではな」


 ルミは盆を取り落とした。

 彼は血塗れの剣――否、彼自身の血液を凍らせて生成した紅玉の氷剣をメリゼに突きつけた。


「一度目の私は、貴様の『魅了』に屈し、人形として生きた。そして……私の唯一の光であった、侍女ルミを処刑台に送った。だから私は、己の魂と寿命を代償に禁術を使った。時間を戻したんだ。ルミを救うために!」


 自分の名前が出たことに、ルミは硬直した。

 私を、救う?

 彼の右半身を蝕む氷の輝きが、それが尋常ならざる魔術の代償であることを物語っている。彼は、あの体で、時間を超えてきたというのか。


 不釣り合いな笑い声が響いた。

 壊れた楽器のような、耳障りな高笑い。

 メリゼだ。彼女は氷の剣を突きつけられながら、扇子で口元を隠し、瞳だけでヴェルトを――そして絶望するルミを嘲笑った。


「違うわ。全然、違う。……『一度目』? ふふ、なんて可愛い勘違い」

「なに……?」

「正確にはね――これで『四十九度目』よ?」


 ルミの思考が停止した。


「毒殺、断頭台、流れ矢、事故死……貴方が何度やり直しても、その侍女は必ず死ぬ。世界そのものが、そう決めているんだから」


 メリゼが扇子を閉じる。

「貴方が時間を戻すたび、私はその記憶を引き継いで楽しんでいたの。必死ねぇ。滑稽ねぇ。自分の命を削って時間を戻し、そのたびに愛する女が死ぬ様を見せつけられる気分はどう?」


 ルミはその場に崩れ落ちた。

 嘘だ。嘘だと言って欲しい。

 さっき、庭園で不気味なほど優しく微笑んでくれた王女様。その優しさの裏にあったのは、人の命を弄ぶ、底なしの悪意だったのだ。


 四十九回。ヴェルト様は、四十九回も、私の死を見たというのか。

 あの昼間の、泣きそうな顔。震えていた指先。

 そして、これまで幾度となく向けられた冷徹な拒絶。

 何も知らない私が、彼を「冷たい人」だと思って涙を流している間、彼はたった一人で、終わりのない地獄を繰り返していたのだ。


「もう諦めなさいな。次もまた、私が楽しく殺してあげるから」

 メリゼの言葉に、会場の空気が絶望で埋め尽くされる。


 だが、ヴェルトは揺らがなかった。

 その瞳には、絶望など微塵もない。あるのは、星をも凍らせるほどの静謐な殺意のみ。


「……諦める? 私が?」

 ヴェルトが、ゆらりと笑った。

「メリゼ。貴様が記憶を引き継いでいることなど、とっくに気づいていたぞ。だから、今回の私は『時間を戻し』には来なかった」


 ヴェルトが、氷と化した右手を床に突き刺す。


「私は今回、過去に戻る魔力のすべてを『事象の凍結』に使った。時を戻すのではない。貴様の力の源である『因果』そのものを、永遠に凍らせるためにな」


 空間が、断末魔のような軋みを上げる。

 床からせり上がったのは、物理的な氷ではない。「時間の流れ」が結晶化した、概念上の氷柱だ。それがメリゼを取り囲み、彼女の纏う赤黒い瘴気(しょうき)を物理的に「凍結」していく。


「貴様の力の源泉――地下の女神像は、たった今、塵となって氷河の底へ消えた」


 水晶を砕くような澄んだ音が響く。

 ヴェルトの右腕が、肘から先まで砕け散ったのだ。代償は、彼の存在そのもの。

「貴様がこの円環を記憶しているなら、好都合だ。この恐怖を、未来永劫覚えていろ」

「いやぁぁぁぁぁ!! 私の力が、消え……っ!?」


 メリゼが絶叫し、その体から力が抜け、崩れ落ちる。

 勝った。誰もがそう思った。

 だが次の瞬間、沼の底をかき混ぜるような不快な水音が、広間中の人間の鼓膜に粘りついた。


「――消える? 私の力が?」


 低く、地獄の底から響くような声。

 うずくまっていたメリゼの背中が不自然に脈打ち、そのドレスが裂ける。


「違うわ。それは違う。ヴェルト様、貴方は分かっていない」


 メリゼが顔を上げた。

 その瞳は焦点が合わず、どこか遠く、虚空を見つめているようだった。


「私の周りにいるのはね、すべて『人形』なのよ。愛の言葉も、賛辞も、すべてが砂糖菓子みたいに甘ったるくて、中身がないの」


 彼女の視線が、ヴェルトの憎悪に燃える瞳を射抜く。


「でも、貴方だけは違った。私に向けられるその冷たい殺意。絶対零度の拒絶。……ああ、それだけが、この空虚な世界で唯一の『本物』だったのよ!」

「……貴様」

「だから時間を戻したの。貴方が苦しみ、足掻き、私を憎めば憎むほど、私は『生きている』と実感できた! 貴方の氷のような憎悪だけが、私の腐った心を鮮やかに切り裂いてくれたの!」


 メリゼの背中の皮膚が、耐えきれずに裂けた。

 そこから溢れ出したのは、赤黒い汚泥のような濁流だった。


「この執着こそが、私そのものなのよ! 愛して! さもなくば、みんなドロドロに溶けて一つになりましょう!?」


 メリゼの姿はもうない。そこには、目玉が溶け落ち、全身から瘴気を噴き上げる泥の怪物だけがいた。

 昼間、ルミの手を握ったあの「湿り気を帯びた温かさ」の正体は、この腐った執着だったのだ。


 怪物が腕を振るうだけで、ヴェルトの氷の結界が飴細工のように溶解する。

 吹き飛ばされたヴェルトが、壁に叩きつけられる。

 彼はもう、指一本動かせないほどに消耗しきっていた。因果を凍らせる代償で、魂すらも削り取られてしまったのだ。


「ヴェルト様ぁ、捕まえたぁ……」

 怪物が、粘液を滴らせながらヴェルトに迫る。

 終わる。四十九回目にしてようやく掴みかけた希望が、理不尽な悪意に飲み込まれていく。

 ヴェルトの瞳から、光が消えかけた。


「ダメです!!」


 凛とした声が、絶望を切り裂いた。

 怪物の前に立ちはだかったのは、剣も魔法も持たない、ただの侍女。ルミだった。

 足は震えている。けれど、その瞳だけは、怪物を毅然と見据えていた。


「どいて、羽虫。貴女なんて眼中にないのよ」

「どきません! 貴女が彼を傷つけるというなら、私はもう貴女に従わない!」


 ルミが両手を広げる。

 迫りくる汚泥。触れれば精神ごと溶かされる呪いの濁流が、ルミを飲み込もうと殺到する。

 だが。


 触れた瞬間、脳髄を直接犯されるような甘く腐った囁きが響く。

 けれど、ルミの魂はそれを「異物」として弾き出した。

 心にこびりつこうとした「従順な人形であれ」という命令が、彼女の拒絶の意志によって剥がれ落ち、黒い泥は肌の上を滑り落ちて霧散していく。


「な、んですって……!?」

「私は、貴女の人形じゃない。貴女の愛なんて欲しくない!」


 ルミは叫び、泥の海をかき分けて進む。

 人智を超えた呪いであろうと、彼女の魂までは侵せない。


「ヴェルト様!」


 ルミは、崩れ落ちそうになるヴェルトに駆け寄り、その失われた右腕の付け根――砕け散り、暴走しかけている氷の断面を両手で包み込んだ。


「ルミ、離れろ! 私の冷気で君が凍ってしまう……!」

「凍りません! 貴方の冷たさも、痛みも、私が全部受け止めます!」


 ルミは躊躇なく、彼を抱きしめた。

 冷たい。魂が凍りつくような冷気だ。けれど、ルミは決して離さなかった。

 彼女のぬくもりが伝播するにつれ、ヴェルトの魔力に含まれていた昏い憎悪が浄化され、純粋な「守るための力」へと変換されていく。


 ヴェルトの瞳が見開かれる。

 彼女はいつだって、その強さと優しさで、私の凍った心を救ってくれていたのだ。


「……ああ、そうか。君となら」


 ヴェルトの砕けた右腕の断面から、眩い光が溢れ出した。

 それは冷気ではない。もっと根源的な、魂の輝き。

 彼の中にある「四十九回分の愛」が、ルミと共に限界を超えた魔力へと昇華する。


「下がっていてくれ、私の愛しいルミ。……仕上げだ」


 ヴェルトが立ち上がる。

 失われたはずの右腕が、虹色に輝く光の氷となって再生していく。

 ヴェルトがルミの肩を抱き寄せた。ルミの体温が、彼の冷たい身体に流れ込む。二人の魂が溶け合い、一つの巨大な魔法陣を描く。


「二人でなら、行ける気がします。ヴェルト様」

「ああ。行こう。終わらない冬の果てへ」


 二人の声が重なった。

 ヴェルトが、祈るように、けれど絶対の意志を込めて囁く。


「――眠れ。永遠の銀世界に抱かれて」


 その言葉が、世界を書き換える引鉄となった。

 世界が、白に染まる。

 音も、熱も、時間も、悪意も。すべてが優しく、けれど絶対的な「静寂」に包み込まれる。

 怪物が断末魔を上げる暇さえなかった。襲いかかろうとした泥の腕は、空中で美しい氷の彫刻へと変わり、その醜悪な表情さえも、清冽な光の粒の中に封じ込められた。


 やがて、光が収束する。

 瓦礫の山だった大広間は、幻想的な氷の宮殿へと姿を変えていた。

 中央に鎮座するのは、永遠に解けない氷の中に封じられた、かつて王女だった怪物の像。それはもはや恐怖の対象ではなく、愚かな愛の成れの果てを示すモニュメントとして静止していた。


「……終わった、のですか?」


 ルミが恐る恐る顔を上げる。

 彼女を抱きしめていた腕が、ふわりと温かさを取り戻していた。

 ヴェルトの顔から氷が消え、透き通るような肌が戻っている。右腕も、五体満足の状態でそこに在った。


「ああ。終わったよ」


 ヴェルトが微笑む。

 それは「氷の王子」の仮面が完全に砕け散った、一人の青年としての、泣き出しそうなほど優しい笑顔だった。

「君のぬくもりが、私を人間に戻してくれた。……ありがとう、ルミ」


 ルミの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 言葉はいらなかった。二人は吸い寄せられるように唇を重ねる。

 四十九回の死と再生の果てにたどり着いた、最初の口づけ。その熱だけが、永遠の冬の中で唯一、溶けない魔法のように二人を包み込んでいた。


 それから季節は巡り――遠く離れた北の地、ヴォルフラム帝国の王城。

 窓の外には、すべてを白く染め上げる美しい雪景色が広がっている。

 だが、皇帝の執務室の中だけは、春の日差しを煮詰めたような熱気に満ちていた。


「……あの、ヴェルト様? 仕事になりません」


 ルミは困り顔で、自身の腰に回された腕を見下ろした。

 執務机に向かうヴェルトの膝の上。そこが、最近のルミの定位置となっていた。

 かつて「孤高の存在」と恐れられた皇帝は、今や片時も妻を離そうとしない、極度の甘えん坊と化している。


「いいんだ。書類の決済よりも、君の体温を確かめることのほうが国家の重要事項だ」

「そんな法律、聞いたことがありません」

「今作った。皇帝勅令だ」


「閣下。呆れた独裁もそこまでに願います」


 不意に、冷ややかな声が室内の甘い空気を切り裂いた。

 執務室の入り口に立っていたのは、眼鏡をかけた理知的な青年――宰相シグムントだ。彼は山のような書類を抱え、呆れ果てた表情で主君を見下ろしている。


「仕事が滞っております。あと、奥様に見とれて室温を下げるのはやめてください。インクが凍ります」

「シグムント、お前は無粋だな。私は今、四十九回分のルミ不足を補給している最中だぞ」

「存じております。ですが、我々文官の胃に穴が開く前に、その書類にサインをください。……全く、あの『氷の彫像』が、今や砂糖菓子のようになられるとは」


 シグムントはため息をつきつつも、その口元は微かに緩んでいた。

 ルミは恥ずかしさで顔を真っ赤にし、ヴェルトの腕から逃れようとするが、彼はさらに強く抱きしめてくる。


「それに、君はまだ回復期だろう。歩かせて転びでもしたらどうする」

「もう半年も経ちます! それに、ただバルコニーへお花の水やりに行きたいだけなのですが……」

「ダメだ」


 ヴェルトが即答する。


「外気は冷たい。君の柔肌が傷つく。花なら私が『永久凍結』の術式をかけて、枯れないようにしてあるから水やりは不要だ」

「お花が可哀想です!」

「君が風邪を引くほうが、私にとっては世界崩壊レベルの悲劇だ」


 彼は大真面目だった。

 幾度となく繰り返された「死」のトラウマは、彼を史上稀に見る過保護な夫へと変貌させてしまったらしい。

 四十九回分の喪失感を埋めるかのように、彼は一瞬たりともルミを視界から外そうとはしない。もしルミが一人で出歩こうものなら、不安で城内の気温を氷点下まで下げてしまうほどだ。


「もう……困った皇帝陛下ですね」


 ルミはため息をつきつつも、その胸の奥は甘い疼きで満たされていた。

 この拘束の強さは、不安の裏返しだ。彼がどれほど自分を大切に想い、失うことを恐れているか。その切実さが痛いほど伝わってくるから、ルミもまた、彼を拒むことができない。


「ルミ」


 不意に、ヴェルトが顔を上げた。

 至近距離で見る灰色の瞳。そこには、ルミの姿だけが映っている。


「愛している。……言葉にすると陳腐だが、四十九回分の人生をすべて賭けても足りないくらい、君を愛しているんだ」


 その瞳の揺らぎを見て、ルミはそっと彼の手を握り返した。

 かつて失われ、そして二人の愛で再生した右腕。その温もりが、二人が生きてここにいる何よりの証だ。


「知っています。……私も、貴方様以外考えられません。たとえ世界が何度終わろうとも、私は必ず貴方様を見つけます」


 ルミの言葉に、ヴェルトの瞳が潤み、とろけるように細められた。

 彼は愛おしげにルミの頬を撫で、吐息が触れる距離で囁く。


「なら、覚悟してくれ。四十九回目の人生は、もう一秒たりとも君を離さない。……死が二人を分かつまで、いや、死んだ後も魂ごと凍らせて、永遠に側に置くつもりだからね」


「ふふっ。それはまた、ずいぶんと冷たくて、温かい“二度目のプロポーズ”ですね」


 ルミは背伸びをし、愛しい夫の唇を塞いだ。

 甘い、甘い口づけ。

 シグムントが「やれやれ」と肩をすくめて退室する気配がしたが、二人はもう気付かなかった。

 呪いも、時間も、因果さえも超えて手に入れたこの愛は、きっと永遠に溶けることはないだろう。

 窓の外では細氷さいひょうがきらめいているが、二人の周りだけは、永遠に終わらない春が続いていくのだから。

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