非国民
タイムリープしてから早いもので2ヶ月と半月の歳月が過ぎ去った初秋の朝。
あの日は清々しいほどの小春日和だった。
リアムと初めて会った夏のあの日から私と夏菜子ちゃんは毎日、欠かさず2人連れ立ってリアムに会いにお社へと出向いていた。
こちらの世界の10月の山の季節は少しずつ黄色や橙に染りつつある。
戦時下の慎ましい生活の中でも 女学生の中には髪飾りで四季の訪れを楽しむ人もいるようだ。
街もオレンジ色に染まっている。
肌を撫でて通り過ぎていく秋の朝の風は令和の時代にあったエアコンの冷房よりも少し冷たいくらいで心地が良い。
地球温暖化がまだ始まっていないであろうこの時代の日本は、秋の足音が聞こえてくる時期が現代よりも少し早いようだ。
最近は 町の木々も山の木々と同じように色づき始め、大通りには落ち葉の絨毯が敷き詰められている。
この時期は夏菜子ちゃんはと私は日の出より少し前。
おばあちゃんが朝食の準備を始める頃からいつもより少し早起きをして竹箒を片手に“向こう三軒両隣”の落ち葉を拾い集める事が日課となっていた。
*
タイムリープした後。
現在、私が暮している場所はおそらく私のひいおばあちゃんが令和5年に亡くなった名古屋の町だ。
現代でひいおばあちゃんの家がある場所は見覚えのある風景から、お社とリアムの隠れている空井戸がある辺りと推測される。
そしてもし、史実どおりであれば約10ヶ月後に戦争は終わる。
この土地で若い頃のひいおばあちゃんに出会えるかも、と淡い期待を持って女学校の中を散策した事もあったが実は私はひいおばあちゃんの名前を知らない。
田中という名字の子は学校内に15人程いるのだが、ひいおばあちゃんが婿養子をとったのか。
それとも私の知らない“田中”という苗字の男性と結婚して苗字が変わったのか。
それとも、ひいおばあちゃんは、この頃“疎開”してこの辺りにはいないのか。
それさえも分からないのだ。
(パパにひいおばあちゃんの名前、旧姓も含め聞いておけばよかった。そもそも、ひいおばあちゃん若い頃の写真、がんとして見せてくれなかったからな……)
そんなことを考えながらあの日、私は落ち葉拾いに性を出していた。
*
昨晩、私は夏菜子ちゃんと禁書を読んでいる最中“メークアップアーティストになりたい”という私の夢を打ち明けた。
夏菜子ちゃんは私が誰かにメイクを施したところを一度も見ていないのに、二つ返事で私の夢を応援してくれると言ってくれた。
なので、私は今晩から夏菜子ちゃんのおばあちゃんに昭和のメイクについて座学を教授してもらえる事になっている。
知識は多いほうがいい。
(久しぶりのメイクに関する語り合い。めっちゃ楽しみ)
私は今晩の座学のことを考えて含み笑いを浮かべると集めた落ち葉をちり取りですくい取り、家の裏の畑まで落とさないように何度も何度もゆっくりと運んでいった。
*
そして今日。
勤労奉仕の合間。
事件の起こる少し前。
私は夏菜子ちゃんとハナちゃんと3人で昼休憩の時間に近くの川で魚を採っていた。
「やった!夏菜子ちゃん桶貸して。また魚、採れた!!」
「ミラちゃん。すごい!もう、1人でも上手く魚、採れるようになったね。ほら、今日は大漁!今夜はひとり2匹は食べられるよ」
夏菜子ちゃんはそう言うと魚のたくさん入った竹籠を持ち上げ、笑った。
冬に近い秋の川の水は現代の冬の朝1番に水道をひねった時に出てくる水道水よりも少し冷たい。
籠の中を覗き込むと採りたての20匹くらいの大小様々な魚がピチャピチャと音を立て跳ねていた。
「今日もい~っぱい採れたね。秋はいいね。魚も果物も美味しいし。今日も魚は塩焼きで食べるの?」
私は魚を捕る夏菜子ちゃんの背中を見ながら尋ねた。
「ん~。魚の種類によるけんね。細んまい魚は佃煮にしたりするだろうし……。あっ、ドジョウは蒲焼きにしようね。蒲焼きにしたら持ち運びもできるし、ね。そしたらリーンに……」
「夏菜子ちゃん。今、彼をその名前で呼ぶのはまずいよ。ハナちゃんに聞かれたら私達“非国民”って言われちゃうよ。それに“リーン”って……。彼の事?夏菜子ちゃんリアムの事をリーンって呼んでるの?」
私は夏菜子ちゃんの側に行き夏菜子ちゃんにだけに聞こえるように小さく耳打ちをした。
「うん?そうよ。彼がそう呼んでって昨日、言とった。多分……」
夏菜子ちゃんはそう言うと少し照れくさそうに髪を耳に掛け、私に背を向けると再び魚を採り始めた。
ハナちゃんは川上にいるのだが、私達の声など聞くよりも魚を採ることに夢中らしい。
私達よりも悠かに手際よく魚を次から次へと籠の中に放りこんでいく。
「ふ~ん。ちなみに夏菜子ちゃんは好みの異性はどんな人なの?」
私は好奇心に背を押され夏菜子ちゃんの隣に縄張りを替えると唐突に、こう質問をした。
「好みのい、異性!?」
夏菜子ちゃんは私の言葉を聞き反射的に耳まで紅くして私から顔を逸らすと口に手を当て暫く固まった。
その後。
夏菜子ちゃんは少し間を置くとボソボソと小さな声を出し話を続けた。
「んー……」
最近の夏菜子ちゃんの英会話は私が目を見張るほどのスピードで上達してきている。
“愛は強し”と言う事なんだろうか。
私がたまに考え事をしている時でも2人は私を介さずに何とか会話(?)やスキンシップを楽しんでいる事もあるくらいだ。
「そうねぇ……。私の理想の旦那様は背が高くて、優しくて、手が大きくて、笑顔が素敵でね、恥ずかしがりやで……」
「うん。うん」
私はおおげさに夏菜子ちゃんの話に相槌を打っていく。
夏菜子ちゃんの語る理想の旦那さま像は随分、具体的なモノだった。
2ヶ月と半の間。
共に食事を運ぶ苦楽を共有してきた私達の仲なのだから夏菜子ちゃんのことは大抵、分かっているつもりだ。
彼女の 理想の相手はリアムだろう事は知ってはいた。
だがリアムの妹分の私は夏菜子ちゃんの気持ちを確かめる為、ここは敢えて知らないふりをして相槌を打っていく。
「それに……私の事を大切にしてくれる人、かな?だけんど、今の時代、この辺に生まれた女は親の決めた人と結婚すると決まっとるからね。東京じゃ自由恋愛で結婚できるらしいけど、この辺じゃ無理な話だね……。私、跡取りやし。おばあちゃん残して駆け落ちはしとうない」
夏菜子ちゃんはそう言うと再び頬を紅く染め、リアムの隠れている山の方を見上げた。
(あぁ、やっぱり夏菜子ちゃんリアムの事が本当に本当に、心から好きなんだ……。あだ名で呼び合うくらいだからね……。恋が愛に変わるってどんな感じだろう。私、初カレに告白されて付き合ってみたけど、手を繋いでもハグされても何も感じなかったからな……)
私は自分と夏菜子ちゃんの恋愛を重ね夏菜子ちゃんのアンニュイな表情を羨ましいとさえ感じていた。
「もうすぐ霜の季節やね。戦争、神風が吹いて早く終わるといいね……。彼も最近、風邪気味やろ?昨日も咳しとったし、精のつくもん食べさせたあげたいわ……」
夏菜子ちゃんはリアムの隠れている山を再び見上げると、いつもの口ぐせをポツリと呟いた。
「そうだね……」
私は夏菜子ちゃんと同じく山を見上げ、胸の前に当てた右手をきゅっと結ぶ。
「この前な。彼が「この戦争が終わったら僕は戦争のない世界を作る人になりたい」って言ってたってミラちゃんが通訳してくれたやろ?あれは私の大きい夢と同じや。肌の色が違っても言葉が違っても考えている事は同じ。彼も1人の人間なんやよね。今、戦争しとるのは国同士がケンカをしとるだけ。そこの国に生まれただけの相手の国の人間は何も罪は無いのに殺されなくてはいかんのかね。何で戦争はいつまで経っても無くならないんかね……」
カーン カーン カーン
昼休憩の終わりを告げる木槌の音が風に乗り私達の前を通り過ぎていく。
「今日は大量じゃ!みんなにも帰りに分けてやろ!!」
ハナちゃんは川から元気よく飛び出ると紅くなった足を素早く手ぬぐいで拭きとり最後に捕まえた魚を仕掛けに入れた。
そして勤労奉仕の作業を再開するために校舎へと一目散に走っていったのだった。
*
ある程度の年齢まで私の周りでは、私の為と言いながら学校でも家でも大抵の場合、私が問題に躓く前に大人が手を貸してくれ解決してくれた。
普段、話を聞いてくれない忙しいママやパパも学校のテスト勉強や進路の話となると真摯に対応してくれた。
でもそれって今思えば結局、大人は自分の体裁を守る為に私が自分の足枷ならないようにする為だけの行動だった気がする……。
この時代に来て痛感した事。
それは人生に正解などはないという事だ。
米を炊くのも井戸で水を汲むのにも薪を割るのだってやってみて、失敗して、創意工夫して自分の仕事にすることで自分が今を生きている、成長しているということが実感できた。
親が側にいない、手を貸してはくれない世界で私は今日も、また1つ大人になっていく。
私が成長するきっかけをくれたのは。
夢を持っている強い人。
たくさんの夢を持って輝いている人。
彼女はどんな逆境の中にいても夢を諦めない。
それがどんなに壮大で叶わない夢だと分かっていたとしても。
彼女は決して現実から目を逸らしはしない。
あぁ……夢を持っている夏菜子ちゃんはホントに強いなぁ。
彼女の生き様は“人生に正解はない”と言う事を私の胸に深く刻んでいった。
そんな彼女を見ていると守られてばかりいた自分の存在がほんのちっぽけに思えてきた。
私は夏菜子ちゃんの願う“戦争のない世界を作る”事が叶わない未来を知っている。
最低でも向こう80年は地球上から戦争はなくならない。
いつも地球のどこかで国同士が争っている。
戦争は武器を売り、金を儲ける人間がいなくならない限りなくならない。
そんな分かりきっている事をどうして誰も止められないのだろうか。
いつか夏菜子ちゃんの大きな夢は叶うのだろうか?
80年後は無理でも100年後には彼女の努力が実を結び、実現するかもしれない。
世界の人たちのほんの一握りの勇気で未来を変えることができるのだとしたら……。
今、私が住んでいる日本は後10ヶ月後。
瓦礫に塗れ戦争で負ける。
未来から来た私は知っている。
でも、私は…… まだ臆病な私は夏菜子ちゃんにこの不確かな史実を話す事は出来ない。
私はホントに失敗に臆病な人間だ。
自分でもこんな臆病な人間から変わりたいと思うのに16年間生きてきた性というものは余程、強い意志がなければ、変えることは難しいらしい。
(夏菜子ちゃんのように人を好きになったり、何か決定的な出来事があればこんな私でも変われるのかな…… )
そんな事を考えながら私は学校の裏山に立つ今日お百度参りを終える予定のお社の方を向き、静かに手を合わせた。
*
「なぁ、ハナちゃん。ミラちゃん。聞いたか千代さんの兄様の話。先週、フィリピンちゅう所で戦死したんだと。何や昨日、憲兵さんが例の札持ってきついでに千代さんの家で酒盛りしとったって聞いたわ……」
魚が大量に取れた昼休みの後すぐ。
私たちが昼の点呼の為、教室に入ると今日は女学生の一団がいつも以上に賑やかに噂話に花を咲かせているところに遭遇した。
私はこの日。
いつもの通り女学生達の話に適当に相槌をうち、見ず知らずの男性が中心の話を右から左へと聞き流していた。
そんな私に相反してハナちゃんは女学生のこの話題に興味津々の様子だ。
「ん?それは、おかしかね。確か千代さんの兄様は大学生のはずじゃ。まだ、大学生じゃぁ前線にはいかんはずじゃ。そうじゃろ?」
「そや、そや。それも千代さんはいつも“兄様は航空兵や”言うて偉ぶっとったやないか。航空兵はそんなに簡単に死なんはずや」
教室に後から来た女子学生がハナちゃんの意見に賛同し、話に突然割り込んで来た。
「でも、戦死したのは確かや。今日、千代さんの家の前通ったら新しい“誉れの家”の札が貼ってあるのを私が見たんだかんね!」
カツン カツン カツン……
日本髪に紅葉の形を模したサンゴの珠飾りの簪を挿した女学生はそう言うとブーツの鋭い踵の音が近づくのに気がつき皆、口をつぐんだ。
そしてブーツの音が鳴り止まると私達の立つ教室の前の扉の前にはウサギのような赤い目をした千代さんが胸を張って立っていた。
彼女は今日の午前。
半休をとっていたと聞いている。
以前、聞いたハナちゃんの話では千代さんの家は兄1人、妹1人の家だと聞いている。
クスクスクス……
「村長様の家に婿に来るのはどんな成金のオジイサマじゃろか……」
女学生の輪の中の1人が嘲笑うかのようにそう言うと教室の隅の女学生達の中に小さな笑いの輪が広がっていった。
「……っ。誰や今、言たのは!!非国民!!出てきなさい!!!」
千代さんは女学生の嘲笑う声が聞こえた方を向くと教室が割れるくらい大きな声で、こう叫んだ。
誰もが彼女の威圧的な視線から目を逸らした。
老齢の坊主頭の憲兵さんが思わず帽子を振り落としそうになるくらい壮絶な声だった。
狭い教室に千代さんの嗚咽が木霊する。
「千代さん。気にすることなか。早う戦争が終われば若い男もたっくさん帰ってくる。1日も早くお国が勝つために今日も私らは働くんよ。諦めたらいかん。お兄様は立派に英霊になられた。すごいことじゃ」
夏菜子ちゃんは千代さんの横に立ち、そう言うと彼女の背を撫ぜていつもの自分達の作業場へと千代さんを支えながら歩いて行った。
*
「ミラさん。午後から、あんたさんも夏菜子さんらと同じ作業場で勤労奉仕をしてもらうけんね。配置替えよ。昨日1人、急に疎開しちゃってね。猫の手も借りたいくらい忙しい現場だから早く仕事を体に叩き込むように!」
丸眼鏡の女先生はそう言うと昼食後、急激に肢体に熱を帯びてきた私を学校の外れにある室内プールへと連れて行こうとした。
私は倦怠感を帯びた肢体を擦りながら半休の申請を出したのだが無慈悲にも即答で却下された。
以前は懇願すればどうにかなったようだが、目も合わせてくれない女先生の様子から本当に猫の手も借りたい忙しさなのだろう。
(あぁ、頭が痛いなぁ……)
先程、川に浸かり体の芯が冷えてしまったからだろうか。
私は朝方よりも酷い悪寒を感じ、体を震わせた。
「……。分かりましたね?ミラさん!返事は?」
「はい!」
短い説教の後すぐ。
私は頭痛で重くなった頭を左右に揺らしながら女先生の後を言われるがまま夏菜子ちゃんのいる室内プールへと連行されることになった。
*
私はタイムリープ後すぐ夏菜子ちゃんから“風船爆弾”という兵器を作ることに加担しているという話を聞いてから勤労奉仕に対してあまり積極的に作業をしていなかった。
“人殺しに加担するような武器は作りたくない”
そんな思いを胸に秘めてだたその日を生き延びて未来に帰るチャンスを掴む為にノロノロと作業をしていた。
実は私が去年の夏に短期留学した場所はリアムの故郷から目と鼻の先のアメリカの西海岸のロサンゼルスという街だ。
リアムには「パパが行ったことがある」としか言わなかったが、あの街は私の第2の故郷。
私はそんな大事な故郷に住む人たちを傷つけたくなくて今日まで適当に作業の手を抜いてきたのだが……。
*
新しい私の作業場は教室よりも体育館よりも広い場所だった。
そこは少し前まで室内プールだった場所で今はプールに板がはめられて広い作業所として使っているらしい。
私がこの場所に入るのは初めてだ。
私以外は皆、上級生のようだ。
部屋に入ると夏菜子ちゃんや千代さんもいた。
入口で私は先ず、先生から作業の流れについて説明を受けた。
ここでの作業は私達が前に教室で貼り合わせた和紙を1枚1枚を丁寧に横長に貼り合わせていく事。
それと和紙の工作物の仕上がりを計算しチーム一丸となって和紙を球体になるようにすき間なく貼り合わせていく事。
この2つの工程らしい。
特に端っこはミリ単位のズレも許されない。
作業は連係プレー。
やる気の起きない運動嫌いな私には、かなりの激務のようだ。
*
風邪気味の私は不運にも第2工程に回され長時間、室内を走り回るハメになった。
そして作業開始から1時間後。
「ミラちゃん、フラフラしとったら危ないよ。ちいと休みな。先生!ミラさん……」
「夏菜子ちゃん。私は大丈夫。大丈夫!」
私は初めての室内プールでの勤労奉仕の日。
立ったり座ったりの激しい動きになかなか慣れず皆から1テンポ遅れて室内プールの中を駆けずり回っていた。
「ミラさん。早う!早う!あんたさん、みんなよりも若いんやから、もう少しがんばらな、あかんよ!…」
「……」
熱っぽい頭に女先生のキンキンとした叫び声が突き刺さる。
重労働も初めはどうにかついていけてはいた。
だが体温が室温を超えた辺りから私の足は木の棒のように硬直し、思うように動かなくなってきた。
そして、そんな状況のフラストレーションが溜りきった私についに女先生がトドメの一言を口にした。
「あんたさん、本当にトロいなぁ。こんなんじゃと……」 と。
私はこの言葉を聞き私の体の中心で苛立ちが沸点をはるかに越え身体から溢れ出してくるのを感じ、思わず拳を握りしめた。
頭には急激に血が上り、目の前は真っ赤に染まっていく。
汗を含んだ鉢巻が重さに耐えかね、ずり下がってくる。
(あぁ……。やってられない……)
視界が霞む。
ブチッ
とうとう我慢の限界の時が来たのだ。
そして……
(こんな人殺しの兵器、壊れちゃえばいいのに!えぃ!!)
バシャン!!
私は怒りに任せて近くにあった糊のバケツを思いっきり蹴飛ばした。
バケツは私の意を汲み、気球を目掛けて転がっていった。
それと同時に辺りは蜘蛛の子を散らしたような大騒ぎとなった。
「「キャー」」
女学生達はバケツから溢れた糊を囲み、立ち尽くし各々甲高い悲鳴を上げた。
何をどおしていいのか分からない様子だ。
「皆さん落ち着いて!気球は無事ですか!?気球は……?皆さん、こぼれた糊を早う!早う!雑巾で拭とってください!!」
キーン
「い、痛い……」
先生の叫び声を背に、私は苦痛で眉間に皺を寄せた。
それと同時にお尻と右足首に鈍い痛みが走る。
どうやら私は不運にも自分で蹴飛ばしたバケツから飛び出した糊に足を取られて盛大にひっくり返ってしまったようだ。
足の裏にコンニャクの糊がへばりついている。
(これは因果応報だよね……。とりあえず体罰は覚悟しなきゃなぁ。自分の怒りがコントロール出来なかった。まぁ、でも、これでアメリカの人の何百という命が救えたなら……。いいかぁ……。)
私は俯き小さな溜息をついた。
「……ミラさん。気球は無事やそうよ。良かったわ。これなら、少し怒られるくらいですむわ。ちぃ〜と脚を見せてみいーな」
千代さんは私が千代さんの返答に小さな溜息をついたのに気が付かないふりをすると私のかかとを布巾で軽く拭いた。
その後、右足の足首を左右にゆっくりと動かした。
グキッ
「痛い!右足首を右側に動かすと痛いです……」
「こりゃいかん!先生!ミラさん、脚を骨折したようで大きく腫れとります。早う救護室に!!」
千代さんは私のケガの程度を大袈裟に偽ると私の右半身を支え、女先生に背を向けると救護室へ向かい歩き出した。
「ま、待ちなさい!!」
女先生は雑巾を片手に救護室に向かう私達の背を数歩、追いかけて来た。
だが、
「ま、まぁ、千代さんがそう言うなら……、ね。」
パン、パン パン、パン
「はい、皆さん。落ち着いて。気球は無事でした。作業再開です。さぁ、急ぎましょう。今日までに端を作らないと……」
女先生はそう言うと大袈裟に手を叩き、わざと私達から注意を反らすように反対側へと歩き始めた。
「ミラちゃん、大丈夫かね?」
夏菜子ちゃんはそう言うと私の左肩を支え千代さんと救護室まで肩を貸してくれた。
そして私は千代さんの口添えのお陰で迅速に傷の手当をしてもらう事ができた。
初期治療が早かった結果、幸い私は軽い捻挫というだけですんだのだった。
学校には毎日通わなければいけないので取りあえず松葉杖を使う生活になった。
だが、怪我の程度は軽く1ヶ月もかからずに普通の生活に戻れる見込みだそうだ。
バケツをわざと蹴ったのを見ていたのは恐らく私の後ろで作業をしていた千代さんだけ。
そんな千代さんが女先生に私の件は事故だと嘘の証言をしてくれたお陰で懲罰はなかった。
(千代さん。私がわざとバケツを蹴飛ばしたのを見てたはずなのに何で先生に報告しなかったのだろうか?)
ケガをした私はその日。
千代さんに何も聞けないまま帰路についた。
そしてそんな千代さんはこの日から誰とも口をきかなくなってしまったので真相はしばらくの間、藪の中に消えたのだった。




