2人だけの秘密
「ミラちゃん、お前さん適性語、分かるんかね?」
タイムスリープして2日目。
異人さんと出会った日の夜。
私は夏菜子ちゃんとおそろいの木綿の浴衣を着て鏡台の前に座り、夜の肌のメンテナンスをしていた。
この日、 私達は2人とも顔にはヤギの乳に浸した薄く切ったキュウリの輪切りを張り付けていた。
この時代は西洋風の化粧はご法度。
きゅうりパックは現代で言う日本式ナイトパックのようなものらしい。
この時代、女性のメイクと言えば皆一昔前に流行った“おしろい”を練った物を“身だしなみ”として携帯していると昨晩、夏菜子ちゃんから聞いた。
洗顔は氷砂糖を溶かしたぬるま湯で顔を洗うと肌に良いとされているらしかったが、この時代の砂糖は貴重な糖質。
地主の孫であるお金持ちの夏菜子ちゃんでも洗顔は井戸水で顔を洗うだけ。
日焼けした肌が美しく、自然美が1番。
そんな風に言われている時代だ。
戦時下においては男性が命を懸けて戦地で戦っているのだから、内地の女性も同じくらいの我慢を強いられるのはしょうがない事なのかもしれない。
だが、夏菜子ちゃんも年頃の女性。
保湿メインのキュウリの顔パックだけは毎晩かかさず実践しているらしい。
明日、突然に戦争が終わってもすぐにお嫁に行けるように……と淡い期待を秘めながら。
そんな顔パックの最中。
夏菜子ちゃんは“離れ”に並べた自分の布団の中に隠れながら小さな声で夕方の異人さんの一件を、こう問いかけてきたのだった。
夏菜子ちゃんは今日も私と同じ部屋で寝る気、満々らしい。
縁側を頭に並べられた布団の中から覗く淡い月の光に照らされた夏菜子ちゃんの双眼は、低い声色とは裏腹に怒っていると言うよりも寧ろ好奇心に輝いているかのように見える。
(敵性語……か。恐らく英語のことだよね。そうだよね。ここがもし戦時中の日本だったら英語は敵国の言葉。今、英語が話せる人はスパイと思われてもしかたないよね……)
私は静かに俯くと浴衣の袖を引っ張って体を強張らせた。
そして少し間を置き、こう返事をした。
「私スパイでは、ないよ」と。
真剣な夏菜子ちゃんの目を見ながら私がやっと口にした一言。
今の私にはこの言葉を絞り出すことが精一杯だった。
私は未だに昨日、平和な未来から戦時中にタイムリープして来た事実を自分でも受け止めきれていない。
結局、今日もお社の扉に手を掛けたものの何も変化は起きなかった。
残念ながら私は本当に元の世界に戻る術がなくなってしまったようだ。
(これから、どうしよう……)
死と隣合わせの侘しい生活。
そんな世界に神様になんの前触れもなく置き去りにされた私は、返事に続く言葉を選びかねて暫く口を開けないでいた。
すると夏菜子ちゃんは私の隣に座りハニカムように笑うと、こう話を切り出してくれた。
「そんな深刻な顔しなさんな。私、ミラちゃんのことスパイ?じゃないって信じとる。とりあえず悪い人じゃないって信じてる!憲兵さんには言わんから安心して!」
夏菜子ちゃんはそう言うと夜風で冷たくなった私の拳を握った。
「私のお父ちゃんもなここだけの話、少しだけ米国の言葉がしゃべれるんよ。昔、横浜で奉公しとってな。そん時に覚えたんだと。なぁ、ミラちゃんは混血児なんか?お父ちゃんは横浜には混血児が住む“孤児院”っていう大きな家あるって言ってたが、ミラちゃんは東京の孤児院の出身か?」
夏菜子ちゃんはそう言うと内下駄を履き、外に出ると私の前にしゃがみ込んだ。
「ミラちゃんの瞳……。太陽の光の下だと青く見えるもんね。お父ちゃんかお母ちゃんが異人さんだったなら敵性語の言葉が話せるのも不思議な事ではないし?」
夏菜子ちゃんは、私が押し黙っている間にもマシンガンのように次から次へと私を質問攻めにしてきた。
私の返答なんかはどうでもいいと言わんばかりに。
そんな夏菜子ちゃんの様子に私は戸惑った。
そして、
「え〜っと。……夏菜子ちゃん!夏菜子ちゃん!落ち着いて。え〜っと、ね。質問には1つずつ応えるからね。ね?えっと、実は……実はね私。自分でも自分がなんで青い瞳で生まれたか分かってないんだよ!」
私がそう言うと夏菜子ちゃんは驚いて少し気の毒そうに目をそらした。
その直後から夏菜子ちゃんは私の話に静かに耳を傾けてくれるようになった。
とりあえず、私は夏菜子ちゃんに自分は日本人の両親の間に生まれた生粋の日本人であること。
両親は今も健在だということ。
私の暮らしていた街では、みんな小学生から英語を勉強するということなどを話をした。
夏菜子ちゃんは私の話に初め半信半疑のように頷いていただけだった。
だが、話の最後の方は何となく納得したように深く頷くようになっていった。
「そうなんだ。あんね、ミラちゃん。お前さん今日、ハナちゃんに「勤労奉仕で何作っとるか?」って聞いたよね?」
夏菜子ちゃんはそう言うと辺りを見渡し私の耳に手をあて小さな声で、こう話を続けた。
「私もハナちゃんから厠で聞かれたのよ。ハナちゃんには私が知っとる事は秘密やよ。「知らん」って言ってしもうたから……」
そう言うと夏菜子ちゃんは私の耳に口をさらに近づけ話を続ける。
「あんね、実は私。本当は何を造っているか知ってるんだ。“気球爆弾”っていう大きな風船爆弾。要は気球に爆弾を積んで米国まで偏西風にのせて届けるんだと。前に先生達がプールで話してるのを立ち聞きしてしもうて……」
夏菜子ちゃんはそう言うと右手の拳を固く結んだ。
私を見つめる目は真剣そのものだ。
「ミラちゃん。昨日も話したんやけど私のお父ちゃんはな今、戦争に行っとるんよ。今は“満州”ってとこにおるらしいけど、手紙を書くたびにお父ちゃんの配属先が変わるんだわ。最近は手紙がな墨で所々、文字が消されとることもあるんよ。だけど、この前もお父ちゃんの手紙に書いてあった。もう少しの辛抱だってね。欲しがりません!勝つまでは!!ってね……」
夏菜子ちゃんはそう言うと小さくガッツポーズを作り浴衣の袖で溢れ出す涙を拭いた。
「夏菜子ちゃん……」
私の心は夏菜子ちゃんの心に共鳴して熱を帯びはじめる。
目頭は熱くなり、呼吸するのも苦しい。
「わ、私は湿っぽいのは嫌いじゃ……。さぁ、ミラちゃんのヒミツを聞いたからには次は私のヒミツも話さんとな」
ガタン ガタン……
そう言うと夏菜子ちゃんは突然、部屋の真ん中に敷いてある半畳の畳を持ち上げた。
私も夏菜子ちゃんに倣い浴衣の袖で涙を拭くと畳の下を恐る恐る覗き込む。
すると、床下の真ん中には小さな防空壕のような穴が掘ってあるのが目に入ってきた。
その穴の真ん中には厚い木で設えたクリーム色の木箱が1つだけ置いてあった。
「よいしょっ」
夏菜子ちゃんはそう言うと木箱の蓋をゆっくりと持ち上げた。
「ミラちゃん。これな私の宝箱じゃ!」
夏菜子ちゃんはそう言うと木箱から一冊のまだ新しい雑誌を取り出した。
そして“パーマメントの仕方”という記事が書かれたページを優しく開いてみせる。
「実はな、私の通っていた三河の女学校では数年前まで月に2回、英語の授業があったんよ。ハローとかセンキューとかくらいしか習わんかったけど」
夏菜子ちゃんは、そう言うと固くなった掌で黄ばんだ本の表紙を優しく撫ぜた。
「この本はな、担任の女先生が学校を離れる時に私にくれた宝物なんよ。私はな、昨日はハッキリと言えんかったけんど、戦争が終わったら、美容師になりたいと思っとるんよ!これが私の3つ目の大きな夢じゃ!」
そう言うと夏菜子ちゃんは私の拳を強く握り続ざまに、こう話を続けた。
「だけど、独学じゃなかなか進まん。敵性語も多くて内容はさっぱり分らんし……。辞書は燃されてしもうたからな。だからな、ミラちゃん。私に敵性語を教えてぇな。私、こんな時代でも“自分の心が動くままに夢を持って生きていきたい”んよ!」
夏菜子ちゃんは私の耳元で小さな声でそう言うと私の拳をさらに強く握り私の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。
彼女の黒曜石のような黒い瞳は一点の曇りもなく澄んでいて、こんな時代に生まれても夢に胸を踊らせ明るい未来を見据えている。
そんな希望に満ちた瞳をしていた。
対して私は物が溢れ、選択肢の多い時代に生まれたからだろうか。
それとも、ひとりっ子として親の顔色を伺いながら生きてきた性か。
この年になっても胸を張って夢という夢を語ることが正直、怖い。
自己主張することも、自分で決めた事で失敗する事も怖いと考えてしまう臆病な人間だ。
後々、大人に「だから言ったのに」と言われるのが嫌で今までの人生、親の敷いたレールの上を外れないように親に言われるがまま生きてきた。
他人が作った人生の教科書の模範解答の正解ばかりを選んで生きてきた。
そんな私は周りに支えられ、いつの間にか16才になり制服を目当てにして今の高校に入ったから他のクラスメイト達のように将来の夢や具体的な人生目標が持てなかった。
高校に入学して夢を追い輝いて生きるアキと出会い、一緒に部活を立ち上げてアキの影に隠れ、自分もと粋がって勝ち組になったような気になっていた。
これからの人生、順調に有名大学に進学して親と気の合う男性と結婚して子どもを産んで……。
今のまま波風立てず、親の敷いたレールの上を歩き続ければ私は人並み以上に幸せな人生を終えるだろう。
だけど、今の夏菜子ちゃんの希望に満ちた目を見ていたら、戦時下で明日の命も分からない中で生き抜いてやろう、夢を叶えてやろうとしている人間の瞳を見ていたら、人生に正解なんてないという事実を痛いほど突きつけられた気がした。
正解は自分で作るんだ。
私が選んだ道こそが正解なんだ。
と、彼女の月夜に輝く双眼が今、それを私に教えてくれた。
私も彼女のようになりたい。
生きたい。
好きな事を好きって口に出して言いたい。
心が動くような夢を描いていきたい……。
この時の私は彼女の双眼に映る自分自身を見ながら本気でそう思った。
そして、 こんなに夏菜子ちゃんの真っ直ぐな思いを突き放す事はできない。
そんな風に考えた私は夏菜子ちゃんに、こう返事をした。
「うん。いいよ。でもね、夏菜子ちゃん。私もまだ英語、勉強している最中だから全部は分からないのよ」
「うん。うん。分かる言葉だけでいいから。ありがとう、ミラちゃん!」
彼女は私の返答を聞くと少し強めのハグをしてきた。
「……じゃあ、ミラちゃん。まずはこれや。本に書いてある敵性語は後でいい。さっきミラちゃんが言ってた“スパイ”って何?……」
夏菜子ちゃんは私が英語を教える事を了承した後。
自分の顔にのせていたきゅうりパックを投げ捨てるようにして皿の上に置いた。
そして、すぐに自分の布団の中へ私を引きずり込むと明日、異人さんに話す英語を頭に刷り込むように何度も何度も唱えはじめた。
私は夏菜子ちゃんの話す、ひいおばあちゃんに似たカタコトの英語。
それと夏虫の優しい音色を聴きながら長くて短い夜を過ごした。
あの夜。
私は夏菜子ちゃんの言った“自分の心が動くままに生きる”という言葉が脳裏に貼り付いて離れなかった。
夏菜子ちゃんは自分の意志で誇りを持って勤労奉仕に励んでいるように見える。
だとしたら夏菜子ちゃんは勤労奉仕で風船爆弾という人殺しの道具を作る事に抵抗がないという事なのだろうか。
では、なぜ今日、異人さんに会った時、食べ物を与えたのだろうか。
あのまま憲兵に彼を突き出していたら敵兵を確実に1人、捕まえる事ができたはずなのに……。
夏菜子ちゃんは異人さんに会った時、何を考えていたのだろうか?
私が帰り道に見た夏菜子ちゃんの横顔はまるで彼に恋をしたかのように見えたんだけど……。
戦時下を生き延びなければならない洗脳された教育を受けた人達の人生の正解は、皆同じ方向を向いてばかりではないのかもしれない……。
そんな歴史だと思っていた遠くて近い過去を私は迷いながら振り返ることも許されず前へと進んでいかなくてはいけないという現実の矛盾に胸が熱くなり、あの夜。
中々寝つくことができなかった。




