鳥居の向こう側の世界
仏間の畳の上でうたた寝をしてからどれくらいの時間が過ぎただろうか。
サウナのような熱気に包まれた空間で私は慌てて目を開いた。
「えっ?何!?さっきよりも更に蒸し暑くなってない!?そして何だか薄暗い……?こんなんじゃ死んじゃうよ。せ、扇風機壊れたとか……?。あ、痛っ!頭、打っちゃった……」
私が目を覚ました場所は陽の入らない納戸のような木の匂いが充満した狭い場所のようだ。
杉の柔らかな木の香りが汗ばんだ体を四方からねっとりと包み込んでくる。
急いで立ち上がろうとした私は膝を曲げたままの姿勢で勢いよく厚い木の板に頭をぶつけたらしい。
あまりの痛みに耐えかねて思わず小さな悲鳴をあげた。
「狭っ。暑っ。痛い……。え?ここどこ!?えっ?うっそー私、気がつかない間に誘拐されたとか!?……」
今の自分の置かれた状況を全く理解することのできないまま両側から木の壁に身体を挟まれた状態の私は身動きが取れず暫く固まった。
数十秒の後。
私は半ば諦め気味に手探りで出口を探しに動き出してみる事に決めた。
ガタン ガタン ガタン
「……っ」
半分くらい探し終えている間に肺に入る空気は次第に口の中で重い鉄の味へと変わっていく。
今の私にまとわりつく空気は早く外へ出ないと気が触れてしまう、そんな嫌な空気へと変わっていった。
ガタンッ
「よいっしょ!あ、明かり!?」
こんな閉鎖的な空間で唯一の救い。
それは体を反転させた時に見えた目の前の壁が木の格子状になっていて僅かだが明かりが中に漏れ入って来ている事くらいだろうか。
私は藁にもすがる思いで明りの差すその壁をゆっくりと前へと押し出してみることにした。
すると、
ガッタン ギー ……
壁に力をかけた瞬間。
格子の間から申し訳程度に入って来ていた光が徐々にその量を増していき壁と壁の間に縦方向に太い光の筋ができた。
どうやら壁だと思っていたものは壁ではなく扉のようだ。
私はその希望の光を頼りに更に強く力を入れ扉を奥へ奥へと押し出してみることにした。
ギー ギー ギー ガタンッ!
「んっ。開いた!な〜んだ。壁だと思ってたのはやっぱり扉だったんだ。とりあえず外に出られて良かった~。あ〜、外も暑いけど、風が心地良い……」
夢のような夢ではないような不思議なフワフワとした感覚の中。
私は辺りを警戒しながら目の前に開け放たれた木の扉から少しずつ頭を外へ出してみることに決めた。
すると、
「えっ!は!?田んぼ?いや緑多すぎでしょ!?ここは……。ここは、どこ!?」
右手で立ち膝をついた体を支えながら私は制服のスカートの裾を左手で掴み下から吹き上げる風で下着が見えてしまわないように踏ん張った。
目の前には緑豊かな山々。
眼下には小さな町とたくさんの田園。
それに見慣れない造りの木造の2階建ての白い建物とオレンジ色のレンガ造りの塔……。
それより向こうには小さく灰色の煙を吐く煙突や工場らしき建物が見て取れた。
外に出てみて分かった事。
それは私が閉じ込められていた空間は観音扉で出来た1メートル四方のお社だったという事。
それと今、私の目の前に広がる景色が昼寝前の夏色の空から夕焼け色のオレンジ色の空に変わっていたという事。
とりあえず、この2つだけだ。
私はかなり長い時間、昼寝をしてしまっていたのだろうか?
不思議なことはいくつかなるが、今1番気になることは耳を劈く蝉の合唱がこんなにも激しい場所は、一体どこなのかということだ。
(ひいおばあちゃんの家ではないという事だけは確かだけど……)
箱の外側の世界はまるで遠くて近い異郷のような場所だ。
私は長い間、開き過ぎて乾きはじめてきた口を閉じる為にゆっくりと口元に力を入れていく。
そして私が口を閉じ終えたのと同じ頃。
突然、私の膝の下辺りから若い女性の低い声が聞こえてきた。
「……お前さん誰ね?何でこんな所から出て来たん?罰当たりな、お人やね。神さんに怒られる前に早う降りて来りん」
寝起きからの突然の出来事に思考を止めていた滑稽な姿であろう私を見上げながら若い女性はあきれたように眉を下げて優しく手招きをした。
女性は艶のある黒髪を後ろで1つの団子に縛り服装は焼けた小麦色の肌に日焼けした白いシャツ。
それに継ぎ接ぎだらけの紺色のスラックスによく似た小花柄のズボンを履いていた。
そして、お供え物だろうか。
見覚えのあるひいおばあちゃんの家にあるお社のキツネ様と同じ顔の石像の隣には小さなまだ新しい丸餅が和紙の上にちょこんと乗せられていた。
心なしか見覚えのある石のキツネ様は私が知っているキツネ様よりもかなり新しいように見える。
黒曜石のような澄んだ双眼をした女性の黒い瞳と目が合った瞬間。
私は今の自分の有り様が急に恥ずかしくなってきた。
そして咄嗟にお社から飛び出して地面に膝をつくと私は女性にこう、話を切り出した。
「えっと……。はじめまして。私は“田中ミラ”と言います。東京からひいおばあちゃんの葬式に参列するために手伝いに来てて。それで……」
私は今の自分の置かれた状況を全く把握していない。
そんな中、自分でも何をどう話をしていいのか分からなくてクルクルと手を空で回しながら自分の素性を女性に説明しようと必死に試みた。
混乱している私を他所に女性は自分の正面に座った私の顔に自分の顔を近づけると私の瞳の中をじっと見つめてきた。
そんな女性の顔は私の鼻先に触れるくらいまで躊躇なく近づいて来る。
彼女の瞳が私の瞳を真っ直ぐに捉えた瞬間。
私には彼女の瞳は爛々と輝いていているように見えた。
そして、
「なんやキレイ……。海みたいな青い瞳じゃ。こんな人に会うのは初めて……」
「……!?」
私は女性の言葉に驚いた。
令和の時代。
青い瞳の人なんてそこら中にいる。
外国人。 ハーフ、クウォーター……。
それにアニメのキャラクターにもたくさんいるので、そんなに珍しくないはずだ。
私が連れてこられたのはかなり閉鎖的な田舎なのだろうか。
とりあえず日本語が通じる場所なのは確定のようだ。
私の瞳に映った女性は好奇心に黒い瞳を再び輝かせるとニヤリと白い前歯を見せて笑い、私に詰寄ってきた。
「なんね!お前さんのその瞳!!不思議な色やね。太陽の光に当たると海みたいなキレイな青色に変わるんかね!不思議やね〜。今、東京ではそんな短い腰布が流行っとるの?だけど、ここいらの田舎でそんな短い腰布履いとったらあかんよ。田舎は何かと物騒じゃき……」
女性は長いひとりごとを名古屋弁を交え一息で言い終えると、自分の言いたい事を全て言い終えて満足したかのように再び笑った。
そして息をつく間もなく踵を返すと小さなベージュの肩掛けカバンに手をかけた。
「そいじゃま、気をつけて家に帰りんよ」
「ありがとうございます。……そ、そうですよね。じゃ、お邪魔しました。私もあんまり留守番をサボってるとパパに怒られるので……」
私はひいおばあちゃんの家に一刻も早く帰る作戦を練る為に 彼女の背中に背を向けると再びお社の扉を開け、中に入ると急いで扉を締めた。
ガタン ガタン バタン シーン……
とりあえずお社の中に入った私はうたた寝をする前と同じ態勢で横になってみる。
箱の中は先程とあいも変わらず茹だるような暑さのままだ。
ガタンッ ガタン ドンッ
「……っ痛。また頭打った~!そして暑い!」
「は!?お前さん、何しとるん?そんなとこなんか入ったらあかんと何度言うたら。そんな罰当たりな事……。あっ!そうなん?……」
女性はそう言うと扉を少し開け、私の右手に握られた萎びたお供え物の干物を見て体を固くした。
彼女の顔は次第に眉が下がり、眉間には深いシワが寄っていく。
何か負の感情を詰め込んだような悲しそうな表情だ。
「……お前さん隣村にある軍人さんの所に行く女狩りから逃げて来た娘なんでしょ?だからそんな短い腰巻き姿しとるのね?禁止されとる化粧もしとるし……かわいそうに……。そやから、こんな狭いところに隠れておったんやね。いつもならあるはずのお餅が今日はなくなっとったんはお前さんが食べたんかね……」
女性は放心状態の私をよそに私の目の前で1人で2人分の短い寸劇を繰りひろげはじめた。
そうかと思うと女性は何かを決断したように大きく頷いて私の右手を握った。
「お前さん、暫く私の家に来りん。仕事は手伝どうてもろうが、家賃はなしじゃ。食事も3食出しちゃる。家に来たら私の余っているモンペをあげるわ。今、私の家は、おばあちゃんと私の2人きりじゃ。おばあちゃんはここらの“地主”じゃけん遠慮はいらんよ。戦争が終わるまで我が家におったらええ」
女性はお社から頭を出した私の右手を再び引くと、こう続けた。
「私の名前は“田中夏菜子”。ミラちゃんだったな?同じ苗字のよしみじゃ。遠慮はいらん。さぁ、日が暮れる前に家に帰ろう」
夏菜子と名乗る女性は一息でそう言うと私の手を取り私の短いスカート姿を誰かに見られないように周りを警戒しながら石段を早足で駆け下りていった。
私も夏菜子ちゃんに言われるがまま彼女に続いて石段を駆け下りていく。
夏菜子ちゃんとの出会いからどれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
彼女との偶然と必然が入り混じったようなみかん色の空の下での出会いから気がつけば辺りは薄墨色の淡い光に包まれる時間帯へと変わっていた。
田んぼの間に点々と建つ小さな荒屋からは魚を焼くような香ばしい匂いが漂ってくる。
夏菜子ちゃんの家までに続いているという人通りのない畦道から時折、見える家々の表札の隣には掌サイズの御札のような紙がしっかりと貼られているのが見てとれた。
「“誉れの…家”?夏菜子ちゃん、あの表札の隣に貼られた御札は何?」
私は先を急ぎながら手を引く夏菜子ちゃんの後ろから、こんなふうに質問をした。
「ん?あぁ、あれは戦死した英霊さんの家に国から送られる札や。ここいらでは、あの札は戦死通知と一緒に送られてくるんよ。ミラちゃんは知らんかね。東京にはないんか?」
私は思わず息をのんだ。
何と返事をしたらいいのか分からない。
時間の流れと共に2人の間に冷たい沈黙が音もなく通り過ぎていく。
(「戦争が終わるまで」?「戦死」?「英霊」!?これってやっぱり…… 。今、私がいるここは戦時中の日本なのかも……。だとしたら私は昼寝をしているうちに時代を遡ってきてしまったということ!?これは……夢?)
「い、痛い。夢じゃない……」
私は夏菜子ちゃんのおばあちゃんの家のある町の大通りに出る途中。
自分の頬を抓り、これが夢ではないという事を痛感した。
今から1番近い戦争は確かちょうど80年前。
終戦日は昭和20年8月15日。
日本はアメリカと戦争をしていて……。
終戦前の1年前からは日本各地に爆弾が落とされるようになってたくさんの人達が亡くなった。
いわゆる空襲でだ。
脳裏に社会科で学んだ曖昧な記憶が蘇えってきた時、私の体には全身に鳥肌が立ってきた。
今は一刻も早く今日の日付を知らなくてはいけない。
「夏菜子ちゃん、今日って何年の何月何日だっけ?」
私は夏菜子ちゃんの汗ばむ硬い掌を握り返しながら、さり気なく今日の日付を聞き出してみる事にした。
「ん?何言っとるの。昭和19年7月18日よ」
夏菜子ちゃんは何の迷いもなく私の質問に即答をした。
嘘ではない様子だ。
(やっぱりそうだ。昭和19年。終戦は昭和20年。史実通りなら確か名古屋には爆弾は12月までは落ちてはこない、とひいおばあちゃんは言ってた気がする。とりあえず、今すぐ死ぬ事はない。よかった……)
私は安堵の長い溜息をついた。
(これが夢でなければ私は昼寝をしている最中に季節を飛び越えたのではなく、時代を遡って過去に来てしまったんだ……。それも昭和の戦時下に……)
そんな事を考えながら私は何か目に見えない恐ろしい得体のしれないモノから隠れるように町へと続く裏道を脇目も振らずに無我夢中で走っていった。
*
お社から15分程、走った後。
私達は一軒の立派な門のある庄屋の裏口の手前で足を止めた。
「ミラちゃん。着いたよ。ここが我が家よ」
ガラガラガラガラ……
夏菜子ちゃんの言葉を聞き私は再び安堵の溜息をつき膝に手を当てた。
久しぶりに全速力で走ったからだろうか。
膝が笑ってしまっている。
それと同時に昼寝前に30分以上かけて手入れした自慢の前髪は汗でベタベタと額に張り付いているのを自覚した。
喉があり得ないぐらいに乾いている。
彼女の家だと言う家の裏口にある門柱には先程、見た紙と同じような大きさで“応徴の家”と書かれた札が張ってあった。
(夏菜子ちゃんさっきおばあちゃんと2人暮しだって言ってたけど、お母さんはどうしたのかな?この札があるという事はお父さんは戦争で亡くなっているのかな?)
私は門の前で立ち止まり思わず札を見上げながら眉をひそめた。
すると夏菜子ちゃんは私の表情から私の心情を直ぐさに読み取ったように敷居を挟み手を引いた。
そして私を門の中へと引き入れると門扉をピシャリと素早く閉める。
「ミラちゃん。“応徴の家”っていうのは“今、家族が戦地でお国の為に戦ってます”っていう意味なんやよ。だから、そんな顔しなさんな。私のお父ちゃんはそう簡単にはくたばらんよ。何せ前の戦争でも生きて帰って来たんだかんね」
夏菜子ちゃんは小さい声で私に耳打ちをすると私の右手を再び握り、建物の脇を急ぎ足で歩き始めた。
私は亡くなったひいおばあちゃんが生きた時代を追体験するような古くて新しいの道具達に囲まれながら再び夏菜子ちゃんの後を追いかけはじめた。
(あ、洗濯板。それにたくさんの薪。あ、あれ社会の資料集で見た事ある。名前何だっけ?あ〜私、本当にタイムリープして昭和19年に来てしまったみたい。どうしよう……。スマホも大好きなメイク道具もない時代。私こんな時代じゃ生きてけないよ……)
私がそんな泣き言を心の中で呟いているうちに、私達は割烹着姿の老婆のいる開け放たれた勝手口の敷居の前に到着した。
「あぁ、お帰り。夏菜子」
「おばあちゃん、ただいま帰りました!友達連れてきたんやけど……」
「友達?ありゃ!?どうしたの?そんな短い腰巻姿で……。化粧もしとるんか!?国で禁止されとるはずやろ。このご時世、西洋の化粧品なんかどこで手に入れたんだか。ま〜とりあえず早く中に入りん」
「えっ!?でもご迷惑じゃぁ……」
「な〜に子どもが何を遠慮しとるんか!夏菜子の友達なんやろ?若い娘が体を冷やしちゃいかん。化粧も憲兵に知られたら大変な事になるんよ。夏菜子、早うモンペ持って来りん」
「は~い」
そう言うと 夏菜子ちゃんのおばあちゃんだと言う人は私の手を引き家の中に私を招き入れて内湯に入れてくれた。
この世界の内湯は大きな樽に暑い湯を入れて体をすすぐだけ。
それでも全身汗だくになった私にとって正に天国だった。
そんな小さな幸福を堪能していた矢先、遠くでけたたましいサイレンの音が聞こえ始めた。
夏菜子ちゃんはそれを“警戒警報”だと言った。
彼女の言葉とほぼ同時に大通りの上を数機の飛行機が走り抜けていくような轟音。
続くように数回の金属が砕け爆発するような重音が遠く、お社の方で何度か弾け、消えた。
私はその音が聞こえなくなるまでの間、恐怖で樽の縁で蹲り耳を塞ぐことしか出来なかった。
「ミラちゃん、夏菜子防空壕へ!!早う!!早う!!」
夏菜子ちゃんは音が鳴り止むと急いで自分の肌襦袢を正し、防空壕のあると言うお勝手に向かう為、羽織を羽織っただけの私の手を取り走り出した。
内湯をしていた場所の近くに大きな穴が掘ってあったので私達は急いでその穴に飛び込んだ。
蓋をした穴は暗く、土のザラザラした匂いが充満していた。
あの日、闇夜に閃光を放ち消えた轟音は私の人生で1番死に近い音に聞こえた。




