留守番
ギーギー……
「ミラ。井戸の前の草むしりご苦労さん。手を洗ったら、こっちに来て土間の掃除と畳上げるの手伝ってくれんかね」
汗だくのワイシャツを袖捲りした喪服姿のパパは庭で草むしりをしていた私の後ろに、こう声を掛けてきた。
ネクタイは胸ポケットに押し込まれて頭がはみ出している。
それと同時に主がいなくなった古民家の木製の雨戸を力任せに戸袋へと押しこむ嫌な音が辺りに響き渡った。
ギーギー ギーギー ガタンッ
「はぁ~」
私はパパとのムダな口論を避けるため“了解”の溜息をつくと、すぐに地面に手を着き立ち上がった。
ひいおばあちゃんの家の玄関続きの土間への入り口は井戸から十数歩程の場所にある。
広さは畳一畳半程だ。
「懐かしいな。土間入るの久しぶ……っう。ヤバ。えっな、何!?この匂い……」
土間に入ると数日間、主のいなかった部屋の中は絶妙にガビ臭く土間続きの台所からは腐りかけたタマネギが異臭を発していた。
鼻の奥に張り付く嫌な臭い。
「ミラ、ほれ箒!」
しかめっ面で腐りかけたタマネギを見上げる私にパパは竹箒をさっと手渡し私を嗜めるように、こう言い放った。
「ひいおばあちゃんへの最期の奉公だ。世話になった分しっかり働きなさい」
そう言うとパパは私に背を向け“松下電器”と白字で書かれた赤い掃除機を使い仏間を畳の目に沿って無言で掃除機をかけ始めた。
*
あの日はとにかく暑い日だった。
私はあの後すぐパパに倣い無言で猫の額ほどしかない土間から庭へと土ぼこりを掃いていった。
そんな最中。
パパは私の後ろを通り抜け腐った野菜達を庭の北側にあるコンポストの中へと放り込んでいった。
普段から大して運動をしていないからか。
それとも家の中が異常に蒸し暑いからかは分からない。
パパと2人で畳を普段敷きの“祝儀敷き”から葬式用の“不祝儀敷き”に並び替えた後。
その辺りから動くたびに私の体からは汗が吹き出てきて止まらなくなってきた。
あの日はそんな蒸し暑い1日だった。
掃除の後に私とパパが希望を持って開けた、まだ新しい冷蔵庫の中には飲料水が2本だけ入っていた。
暑さに負けた私達はそのペットボトルの中身を一気に飲み干した。
そして縁側に座り名古屋の凸凹した白い街並みを見下ろしながら台風の吹き戻しの風に身を委ね、どちらから言い出す訳でもなく小休憩をとることにしたのだった。
*
「……」
「……ねぇ、パパ。“台風の吹き戻しの風”って案外、生暖かいんだね。エアコンはつけないの?」
普段あまり家にいないパパとの2人っきりの沈黙に耐えかねた私は勇気を振り絞り髪を整えると、こう話を切り出した。
パパは私の言葉に眉間にシワを寄せ暫く考え込むと何か思い出したようにニッと笑い、こう返事をした。
「エアコン?そんなもん、この家のは1年も前に壊れたきりだ!!」
そう言うと自慢げにナゾの腕組みを始めた。
「は!?エアコン1年も前から壊れてるの!?じゃぁ、ひいおばあちゃん去年の猛暑どうしてたっていうの?去年の夏は10年に1度の猛暑だってニュースでも言ってたよね?」
あまりにもパパの他人行儀な発言に苛立ちを覚えた私は思わず理性を忘れ反論をした。
「ひいおばあちゃん、もう98歳の超後期高齢者だったんだよ。それなのに、冷房もない家で1人で暮らせって……」
手から滲み出た汗を握り締めながら俯き私はパパを横目で睨みつける。
「……。俺は知らん。それに「今年は10年に1度、100年に一度の猛暑」とかは毎年言っとるじゃないか。ひいおばあさんが言うには「ここは山の上だからそんなに暑くない!」って、おじいちゃんが手配したエアコンの業者をがんとして受け入れなかったんだと。まぁ、年寄りになると体温調節も難しいらしいからな。だから井戸の前で熱中症で倒れてそのまま……ズズッ」
パパはそう言うと小さく鼻をすすった。
パパもひいおばあちゃんには小さい頃から可愛がられていたようだから、ひいおばあちゃんがお別れも言わずに旅立って行った事が悲しくない筈はないだろう。
(少し言い過ぎたかな……)
そんな風に考え私がだんまりを決め込んでいると暫くの沈黙の後、パパはこんな風に話を続けた。
「この頃は昔と比べて暑くなる時期が早くなってきたからな。“地球温暖化”だからしょうがないけどな。5月なのこうも暑くちゃなぁ……。せめて見守りカメラくらい引き入れてくれたらなぁ……。あ、そうだ。思い出した。坊さんが来る前に扇風機は出さんといかなんな。坊さんももういい歳だが、まだひいおばあちゃんとこに行くのは早いでな……」
プツン
そう言うとパパは骨董品の掃除機のプラグを勢いよく抜いた。
そして私に泣き顔を見られまいとわざと忙しそうな手振りをして縁側の向こうの納戸の中へとバタバタという足音と共に消えていった。
*
パパの後ろ姿が見えなくなった後。
私は「エアコンが壊れた」と言うパパの言葉に半信半疑な思いで縁側から家の中の天井をぐるりと一周見回した。
パパの言う通りこの家には“仏間”にエアコンが1台あるだけのようだった。
念のため家の周りも歩いて回ったが古民家には西側に錆びついたエアコンの室外機が1台しか見当たらなかった。
仏間のエアコンは私が知る限り、この家の中で唯一の即効性の高い冷房器具だ。
なので、エアコンが壊れたという話が本当ならばパパ言った骨董品の扇風機1台以外、今この家に冷房器具がないという話はウソでもないのかもしれない。
(今夜、パパやジイジと同じ部屋で暑い中“寝ずの晩”は嫌だなぁ。2人とも結局寝ちゃうだろうし、イビキうるさいし……。かと言って2階は更に暑そうだしな……)
そんなことを考えながら私はエアコンの生存を確認すべく重い腰を上げ、サウナのように蒸し暑くなっているであろう家の中へと入っていくことにした。
*
ひいおばあちゃんの家は戦後すぐに建てられた昭和中期の典型的な造りの古民家だ。
木造の家の中は所々、軋む杉板を張り合わせた短い廊下が1階の全ての部屋と繫がっている。
屋敷の南西にあるひいおばあちゃんの部屋はもとより土間と廊下以外この家の全ての部屋は畳張りだ。
ひいおばあちゃんとの思い出を1つ1つ噛み締めながら私は短い廊下を通りひいおばあちゃんの寝室の前までゆっくりと歩いて行った。
そして懐かしい匂いの杉の戸の前で立ち止まり深呼吸すると、ひいおばあちゃんとの想い出が詰まった寝室の扉をゆっくりと開けることに決めた。
*
ガチン ガチャン ガチャン……
「あぁ、やっぱりダメかぁ……」
私は部屋に入るとサウナのように蒸し暑くなったひいおばあちゃんの部屋の窓を開け放ち換気をしながら仏間のエアコンの動作確認を試みた。
この家の唯一のエアコンは、昭和製。
ひもを引っ張りエンジンをかける仕組みだ。
だが、今ここにあるエアコンからは羽を回す機械音はするものの風が吹き出てくる様子は一切ない。
仏間にも微かだが、ひいおばあちゃんの服と同じナフタリンの甘い匂いが漂い始める。
懐かしい優しい陽だまりのようなひいおばあちゃんの匂いだ。
エアコン復活の希望を捨てた私は仏壇の前に置かれた背の低い本棚があるのを見つけ足を止めた。
本棚の中を覗くと棚の中にはひいおばあちゃんの住む日本家屋には不似合いな英語で書かれた絵本が背の高い順にキレイに並べられてあった。
ひいおばあちゃんは元美容師だ。
ひいおばあちゃんが美容師を志した時世は太平洋戦争の真っ只中。
戦後は必死で働いて女手1つでジイジを育てたと聞いている。
ひいおばあちゃんのひとり息子の英語教師だったジイジは女学校出のひいおばあちゃんから英語を習ったと常々言っていた。
だから戦時下を生き延びたひいおばあちゃんが英語を話す事ができた事は私も知っている。
本棚には絵本の隣に日焼けしたエンジ色の分厚い英和辞典があったが、何万回も読まれたようにページの端が擦り切れてしまっている。
「ひいおばあちゃん、独学で英語を勉強したんだな……。たくさん辞書引いたのかなぁ。ボロボロだ……。あ!この本。ひいおばあちゃんの1番好きだった絵本だ」
私は本棚から1冊の日焼けしたクリーム色の背表紙の絵本を取り出した。
大きさは手を広げたくらい小さい。
日焼けした背表紙の文字は残念ながら消えてしまっていてタイトルを読むことはできない。
最後のページに書いてある出版年月日は昭和30年と書かれてあった。
(私、いつも夏休みはこの部屋に来て「ひいおばあちゃん絵本読んで!」ってお盆の準備で忙しいひいおばあちゃんを困らせてばかりいたっけ……)
そんなことを考えながら私は、ひいおばあちゃんのお気に入りだった線香の香りの染み付いた絵本をゆっくりと開いてみることにした。
「ひいおばあちゃん。去年の夏は私カリフォルニアに留学したり受験勉強してて、こっちに遊びに来られなくてごめんね。でも……、お別れも言わずに行くなんてひどいよ……」
私はハンカチで溢れ出す涙をひとしきり拭うと絵本を膝の上に乗せ、仏壇の前に置かれたひいおばあちゃんの写真に手を合わせた。
そして絵本を開くと仏様の前で「アメリカには絶対に行けない」と言っていたコンニャク嫌いだったひいおばあちゃんに向けて、ひいおばあちゃんが教えてくれたカタカナ英語の発音で絵本を読み聞かせをしてみる事にした。
*
あれから、どれくらいの時間が過ぎただろうか。
Wi-Fiの飛んでいないこの家で私は今しがたパパから留守を預かった。
「あ〜あ。月末だからギガが少ない。これじゃぁ、アキと話せない……。課題も終わっちゃったし、究極に暇だ……」
私は有り余る暇を持て余し暇潰しがてら仏間をしらみ潰しに見て回る事に決め、小言の後すぐに重い腰を上げた。
何か掘り出し物があるかもしれない。
そんな期待を胸に秘めながら……。
ひいおばあちゃんの家には半2階に客間が2間。
1階には、ひいおばあちゃんの寝室とトイレ、お勝手、納戸。
そして家の中で1番広い15畳の仏間がある。
ひいおばあちゃんが病院の霊安室から家へ戻って来るまで残り時間は1時間半くらい。
私は再び仏間に入ると仏壇の右上にある欄間の上に飾られた白黒の先祖の遺影を見上げながら正座をしてみることにした。
(……えっと、1番左端の人は確か江戸生まれの元・薬屋のひいおばあちゃんのおばあちゃん。こっちに向かって手振ってる遺影だ。その隣はひいおばあちゃんのお母さん。で、その隣はひいおばあちゃんのお父さんだったよね。それにしても…右側の2人の写真はまだ若いなぁ。30代くらいで亡くなったって言ってたっけ?セピア色だ。そして……あれ?な、なくない!?)
私は遺影の右端の男性の横にある黄ばんだ壁紙の前で思わず目を留め、固まった。
(おかしい……。私の“ひいおじいちゃん”って人の遺影だけがない。ママの実家にはひいおじいちゃんの遺影がちゃんとあるのに!?何で??あ、戦時中だったから?それとも若い時に離婚したから?……)
私はあると思っていた遺影がないと知った瞬間。
私の体の中の遺伝子はある1つの直感を感じとった。
そう言えば私はひいおばあさんの旦那さんであるひいおじいちゃんを見たことも家族から話を聞いたこともない。
彼は私が生まれた時から既にいない存在だった。
(何だろう。この嫌な感じ……)
そして気がつけば私の手からは尋常じゃない量の汗が滲み出してお気に入りの制服のスカートにシミを広げていた。
*
私は太陽の光に当たると黒から青へと変色する不思議な瞳を持って生まれた。
色変わりする瞳は遺伝なのか。
それとも突然変異なのかは「ジイジやバアバも理由を知らない」とパパやママから聞いている。
(もしかしたら、亡くなったひいおばあちゃんだけは私の色変わりする瞳の秘密を知っていた!?)
仏壇に置かれたひいおばあちゃんの遺影を見る為に私は勢いよく振り返る。
そして自分の愚行に思わず長い溜息をつき、独り言をこぼした。
「はぁ〜。死人に口なし、だよね……」
私の感じた本能的な直感は余りにも現実離れしていて“日本を出て海外に行った事がない”と話していたひいおばあちゃんの話からは想像できない、おかしな妄想だった。
もし、ひいおじいちゃんが異国の人だったらなんて。
そもそも、ひいおばあさんの一人息子であるジイジが生まれたのは1945年の夏の終わり。
その頃、青い瞳の異国の人がこんな田舎にいるはずがない。
(もし、ひいおじいちゃんが異国の人で青い瞳をした人だったらなんて……。な〜んて妄想、バカげてる。 だってひいおばあちゃんの若い頃はアメリカやヨーロッパと日本は戦争をしてたんだから……。でも、もしひいおじいちゃんが異国の人なら私の青く色変わりする瞳を持って生まれた理由は遺伝とかで簡単に説明つくんだけどな……)
私はそんなおかしな妄想を抱きながら長い長い線香に火を点けた。
部屋中が線香の甘い白檀の香りに包まれていく。
(そんなはず、ないよね?ねぇ、ひいおばあちゃん……)
私は顔も知らないひいおばあちゃんの旦那さんだった人に想いを馳せながら手にした白馬の描かれた絵本の1ページに目を落とした。
ひいおばあちゃんのお気に入りだった絵本の中の1番擦り切れていたページには金色の髪に青い瞳をした軍服姿の若い男性が描かれていた。
*
「あー、暑い……。今日はホント蒸し暑い。そしてお通夜の時間までやる事なさ過ぎてホント眠い。課題終わっちゃったし。パパは買い出しに街まで行っちゃったし……。ノリで留守を預かったけど少し昼寝しちゃおうかな……」
ひいおばあちゃんの鏡台で崩れたメイクを直した後。
私は家に残された唯一の冷房器具、扇風機をひいおばあさんのベッドに寝っ転がりながら試しに点けてみることにした。
防塵カバーを外し清掃した扇風機はちゃんと稼働するようだ。
柔らかい布団の上で懐かしいひいおばあさんの匂いに包まれて思わず安堵のため息が出てきた。
「あぁ……良かった。この絶妙に生暖かい風。まさに地獄に仏。これで昼寝ができる……」
私は扇風機の風向きを調節してベッドに寝転ぶと法事用の紫色の座布団を枕にしてゆっくりと目を閉じた。
生暖かい風は優しく頬を撫ぜては外へと通り過ぎていく。
「扇風機、もっと、がんばれー!」
あまりの気だるさに私は扇風機に無意味なエールを送る。
寝室から見た空井戸の前に咲いた2輪の桔梗が風に揺れ、寄り添ったり離れたりしている。
私はそんな風に来週末に提出期限の迫った名前を書いただけの“進路希望調査表”をなびかせてみた。
「進路、か……。まずは将来の夢を決めることが先だよね。英語とメイクが好きだから“好き”を活かした仕事がいいなって漠然とした希望はあるんだけど……」
そんな小さなひとりごとを言いながら私は調査表を胸の上に乗せた。
「公務員のママに「メイクに関わる仕事したい!」なんてハッキリしない進路を提示しても反対されるだけだろうし、パパも何だかんだ頭硬いしなぁ……。ひとりっ子は損だなぁ!アキみたいに大家族の末っ子なら好きな勝手な事やれるんだろうけど」
紙の端を折り曲げながら私は愚痴を続ける。
「私はまだ16歳。高校受験を終えたばかりなんだからね。これだ!って言える“きっかけ”に巡り会えてないのに将来の職業とか進路なんか一択に決められないよ!!あ〜、現実逃避したい。ねぇ、ひいおばあちゃん。ひいおばあさんは何で美容師になったの?いつ夢を決めたの?周りには反対されなかった?ねぇ、ひいおばあちゃん応えて……よ……」
チャリン……
私は生暖かい風の下。
ひとりごとから程なくして、歩き疲れていたからだろうか。
私の視界は突然、真っ白になり仰向けの体には急に力が入らなくなっていった。
胸には、ひいおばあちゃんの家の鍵と白紙の進路希望調査表を乗せたまま……。
あの日。
不用意にもベッドで居眠りをしてしまった私は、あの近くて遠い世界へとタイムリープして人生を変える出会いをするなどということは夢にも思っていないのであった。




