台風一過
季節外れの台風が運んできた強い吹き戻しの風が私たち家族の中にある深い悲しみを全部、吹き飛ばしていってくれそうな風の強い日。
どこまでも続くような青く澄み渡った空を見据えながら私は不機嫌な表情で眉間に皺を寄せるパパと2人。
酷熱の中、長い長い一本坂に掛けられた古い石段を登っていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ、パパ !階段登るペース早すぎ……」
私は額に汗をかきながら息も絶え絶えに4、5段先を登るパパの背に、こう声を掛けた。
すると、
「はぁ〜。ミラ。ほら、言わんこっちゃない。高校生が たかが50段しかない石段を登りきるくらいで愚痴るなんて。情けない……。まだ10段ばかし登っただけじゃないか?だから先月、入学式の前に「ミラは体力ないんだから高校でもテニス続けなさい!」ってママが言とったがや!!現役体育教師の言う事を聞かないからバチが当ったんだぞ!因果応報や。文句言わんで早う足動かしん」
そう言うとパパは首に巻いた水色のスポーツタオルで額から溢れ出す汗を拭き取った。
パパの今日の装いは白い長袖のワイシャツに黒の喪服に黒のネクタイ。
対して私は衣替えしたばかりの夏の制服。
襟元にはモスグリーンのスカーフ。
それと足元には制服のスカートに合うようにセレクトしてきた下ろしたてのブラックのローファーと黒のロングソックス。
腰まで伸ばした髪は染色したことがないので黒のまま。
今日は簡単にオーガンジーの黒い飾りのないシュシュで1つにまとめている。
それとスカーフと同じ色のチェックのスカートは可愛く膝上47センチでキープ。
これは“カワイイ”が大好きな私の1番のこだわりポイントだ。
私の通う都立の進学校は制服が全国でも指折りにカワイイことで有名。
偏差値は70超えとかなり高いので受験勉強には力を入れなければいけなかった。
制服目当てで入学しただけの私には地獄のような受験勉強から解放されたばかりの今、この制服を着て出掛けられる事が何にも勝る幸せで休日でも意味も無く常に制服を着用している。
今日は父方のひいおばあちゃんの葬儀のため制服、着用が必須なのだが……。
私はお気に入りの制服の胸ポケットにつけられた桜の校章のプリントを握りしめると石段の終着点を見据え、気合を入れ直すと「受験の時よりはマシ」と自分に言い聞かせ喝を入れた。
そして灼熱の照りつける太陽の下。
私は一段また一段とガタガタ揺れる不安定な石段を慎重に登っていくことに決めたのだった。
*
私の通う都立高校は偏差値70超えの超進学校だ。
周りの同級生は制服の着こなし等には目もくれず入学早々、赤本を借りに進路指導室へ我先にと駆け込んだり、掲示板に貼られた模試や検定の日程表をスマホの待ち受けにしたりして士気を高める人も多くいた。
高校デビューに夢中になっていた私は進路に関しては完全に出遅れた形になってしまっている。
カワイイ制服が着たくて入学しただけの私には周りの同級生達のように将来の具体的なビジョンとか人生の目標なんてものはない。
ただ入学式の時に隣の席になった親友のアキからナチュラルメイクを教えてもらって以降“メイク”は特別に興味を持った。
アキと2人で過ごす化粧品の甘い香りに包まれている時は嫌なことを全部、頭から消してくれる。
私にとって至福の時間だ。
*
親友のアキは顔も頭も性格もトップクラス。
いわゆる一軍女子だ。
ミルクティーベージュのロングヘア。
いつも季節に合ったピアスをつけていて、背は並み居る男子達よりも頭1個分以上高い。
街を一緒に歩いていても皆が振り返り3度見する様なモデル体型の美少女だ。
私の通う学校は校則はかなりルーズなので、勉強さえ出来れば顔にピアスをつけるくらいの事がなければ怒られはしない。
ネイルもメイクも染髪も……。
勉強さえきちんとしていれば、周りの大人は誰も何も言っては来ない。
だから私は毎朝、中学の頃よりも1時間早起きして英語の教材を聞き流しながら大好きなナチュラルメイクの研究に心血を注ぐのだが、パパにはこの努力は無用の長物に見えるようだ。
顔を合わせれば「化粧なんかしてる暇があったら勉強しろ!」とばかり言ってくる。
最近、私もアキみたいに髪をオシャレに染めてみたいと思うのだが頭の硬い両親は髪を染める事だけは何を言っても許可が下りない。
なので今の私の精一杯のヘアアレンジ
は黒髪をストレートパーマをかけるだけなのだ。
「……ったく。何が“輝択部”だ。まだお前たち高校生にはメイクなんか必要ないだろうに。変な部活作りおって。はぁ〜、お前が新幹線の中で突然「学校の友達に名古屋限定のデパコス買う約束してきた!」言うから名駅で寄り道して、こんなにも暑い時間帯に坂を登るハメになったんだかんな!ひいおばあさんの葬儀の前に家を掃除せにゃいかんのに、まったく…」
パパはそう言うと左腕に嵌められたロレックスの青い文字盤を目を細めて見た。
パパの言う“輝択部”というのは私の通う進学校に先月、新設された各学年の一軍女子だけを集めた学校にも認可された部活の名前だ。
部長はアキ。
副部長は私。
部員は全校生徒600人の男女比1:1の学校の中で各学年5人くらいいる。
顧問の先生だってちゃんといるれっきとした部活なのだ。
アキは将来、自分がプロデュースしたコスメブランドを立ち上げるという夢があるらしい。
だから入学早々にこの部活を立ち上げてカワイイ女の子達を集め新作コスメのテースティングをしてみたり、スマホを駆使しマーケティングをしていたりして未来のスポンサーを探すのに忙しいらしかった。
だからだろうか。
アキはカワイイのに勉強と部活動の様子をSNSで配信するのに忙しく今は彼氏がいない。
今日、名古屋に行くと言ったら「名駅限定のコスメをお土産に」と長すぎるリスト。
それと軍資金を渡された。
そんなアキの土産を買う為に初めて行ったデパコスコーナーをパパと彷徨っていたら商売上手なコスメコンシェルジュのお姉さんに捕まり、フルメイクをされたので予定よりも到着が2時間近く遅れた。
だから今、パパはおかんむりなのだ……。
*
「あ〜、それにしても今日は暑いな」
「炎天下。28℃か……まだ5月下旬なのに……」
私は背中に張り付いたパンパンに膨らんだリュックサックの肩紐をずらしながら、スマートウォッチの温度計に目をやった。
東京から名古屋へ。
2泊3日の短いお泊りとはいえ16歳の私には何かと入り用で、旅行の時は毎度登山に行くような大荷物になる。
(……肌のキメを整える為の化粧水と乳液、日焼け止め。あ、それと2日分の着替えとベースメイクセットとヘアアイロンとアキへのお土産の山。あとはあとは……。あ、アキに誕生日プレゼントで貰ったリップのパレット。忌引きの間に出される課題を終わらせる為のタブレットも。重い。重い!考えるだけで肩痛い……)
私は階段の中腹で立ち止まるとスマホのミラーで崩れかけた前髪を整えながらそんな小さな愚痴を心の中で呟いた。
そして鏡に映る空と同じ青い自分の瞳をじっと見つめる。
「ねぇ、パパ。毎度、鏡を見る度に思うことだけど何で私の瞳だけ家族の中で青いの?なんか知ってる?……」
「!だからいつも知らんと言うとるがや!!」
私は不機嫌なパパが頭ごなしに怒鳴るのをやり過ごしながらパパの背中越しに眉をひそめ口を結んだ。
「はぁ〜ぁ」
そして額に溢れ出す汗をハンカチで拭きとると小さな溜息をつき、重い足を一歩、また一歩。
前へ前へと進めて行くことに決めたのだった。
*
私は4年前に小学生を卒業して何の困難に道を阻まれることなく中学生になった。
クラスメイトの大半が中学受験に追われる最中。
私はママに言われるがままテニスに打ち込んだ。
人生で1番輝けると言われている時間のほとんど全てを親の言う通り躓くこともなく生き、短い人生の4分の1は受験勉強に受験勉強をしてあっという間に終わってしまった……。
そんな辛い受験勉強の終わり。
私は中学3年生で初恋と失恋を同時に経験した。
みんなが羨むようなサッカー部のイケメンすぎる初カレに文化祭のイベントで突然告白されクリスマス当日の朝に突然、別れようと言われた。
家族以外の人と初めて過ごしたクリスマスは小学校からの親友ユキと一緒に部室で彼氏の為に作ったホールケーキを2人で大泣きしながら完食した事が思い出となった。
初カレが私と付き合った理由はそもそも「顔が可愛かったから」だけらしいから彼に私とは対照的な色白で快活な二股をしていた彼女がいたと分っても私は彼を責めたり、後を追おうとは思わなかった。
ただケーキを作る時間を無駄に取らされた事だけは本当に許せなかった。
私はこの出来事から教科書に載ってない事の方が人生では役に立つという事を学んだ。
*
“メイクはたった一塗りでその人の1日を幸せにし、そして人生も変える力があるんよ”
石段の中腹で口癖のように言っていた名古屋の亡くなったひいおばあちゃんの言葉が脳裏を過ぎった瞬間。
その言葉は私の胸を激しく揺らし、頬に伝った一筋の涙は汗に混じって制服のセーラの上へと静かに消えていった。
*
どれくらいの石段を登ってきたことだろうか。
振り返れば長い石段から下には名古屋のビル群が色鮮やかな看板をほこらしげに掲げ、建ち並んでいる姿が小さくなって見て取れた。
そう私が今、突っ立っているのは長い長い一本坂にかけられた石段のちょうど終盤辺り。
ゴールまではあと少しだ。
「頑張れ!!ミラ。ほら、ゴールまであと3段だ!ほら、1段〜、2段〜。さぁラスト!!」
照りつける日差しの下。
疲労を増幅させるようなパパの大き過ぎる声援を背に私は何とかひいおばあちゃんの家の門扉へと続く長い長い石段を登りきってみせた。
汗が滝のように溢れ出す。
そして、
「ふ~、やっと着いた。あっ、ひいおばあちゃん家の赤松さん。“やっとかめ”……です」
私は坂を登りきると ひいおばあちゃんの家の赤い郵便ポストの隣に伸びた樹齢70年程の赤松の幹に手を着き、2年ぶりの再開の言葉を囁いた。
「ミラ……。お前、いくら“ひいおばあちゃんっ子”だったからってJKが“やっとかめ”って……ババ臭い」
取り出したハンカチで吹き出した汗を拭いていた私はパパの心無い言葉に嘗てない程に苛立ちを感じパパの背を睨みつけた。
そして、
「パパだって東京にいる時によく名古屋弁喋るくせに」
「パパは名古屋育ちだ〜で〜」
「……」
パパがそう言った後、 汗で崩れたデパコスの高級な化粧品の香りを頬に溜め私はしばらく押し黙ってみる。
だがパパは私の嫌みにも怒っている事にも完全に気がつていない様子だ。
ガチャ ガチャ カッチャン……
「さ!ひいおばあちゃんが戻って来るまで後3時間。急ぐぞ!!」
パパはそう言うと低い門扉の内鍵に手を伸ばし、外側から門扉の鍵を開けた。
そしてスタスタと慣れた様子で母屋の入口へと続く石畳の上を歩いて行った。
*
ひいおばあちゃんの家は長い長い一本坂の上の高台ある昭和中期に建てられた瑠璃色の三河瓦が特徴的な典型的な古民家だ。
猫の額程の小さな庭には庭には大きすぎる屋敷神様が一柱、祀られている。
お社の隣には何にも入っていない1メートル四方の四角い空井戸。
高台の南側に建つひいおばあちゃんの家を先頭に高台の北側には、白壁の新しいマンションや西洋風のオシャレな一軒家が所狭しと建ち並んでいる。
「ほら、ミラ。外水栓で手を洗っといで。そんで葬儀屋さんが来る前に家の中を2人で手分けして掃除せんとな……」
パパはそう言うとワイシャツの袖で額から吹き出てくる汗を何度も何度も拭いとった。
ジャラ ジャラ
ガラガラ ガラガラ ガタン ガガガ……
そしてポケットから古びた真鍮製の星型のキーホルダーの付いたカギで玄関の鍵を開け、引き戸を開けようと手を伸ばした。
ガガガガガ……
だが扉は建付けが悪いらしく、なかなか上手く開かない様子でパパは力任せに少しずつ少しずつ引き開けていく。
「くっ」
ガタンッ
「お、お!開いた!!あ……あぁ。うっ……」
扉を開けた後パパは眉間にシワを寄せ、小さな短い悲鳴をひとつあげた。
そして背中を丸めるとひいおばあちゃんの家の建付けの悪い敷居を跨ぎ、手で口を抑えながらトボトボと中へ入って行ったのだった。
*
バシャ バシャ バシャ ……
「……暑っ。陽射しが眩しい。肌がやける!!今日、まだ5月じゃん!?何でこんなに暑いのかな!?」
私はパパに言われた通り外水栓で手を洗い終えると、大きな独り言を言いながらひいおばあちゃんが住んでいた半2階建ての古民家を庭から見上げてみた。
「それにしても、ひいおばあちゃん何でジイジとバアバと街で同居しなかったのかな?こんな所で死ぬまでひとり暮らしって……。孤独死、辛すぎる……」
そう言うと私は縁側に座り、細い柱にゆっくりと体をもたげた。
「先祖様がこの辺りの地主だったか何だか知らないけど、今じゃこの家以外の坂の上の先祖様の土地、全部売っちゃったんだから、こんな不便な高台に住まなくても……」
私はそんな小さなひとりごとを言いながら、坂の上に建つ新築の屋根に飾られた白い風見鶏がクルクルとよく回るのを見上げた。
「ひいおばあちゃん、周りが家族ばかりでひとり暮らしで本当は寂しかったんじゃないのかな?」
縁側に座る私はひいおばあちゃん顔を思い出し、目に涙を溜めると台風の吹き戻しの風に体を押されながら再びひいおばあちゃんの家の庭をぐるりと見回した。
ひいおばあちゃんの家は南側と玄関先以外、見渡す限り背の高い木々に囲まれている。
この辺りには、ひいおばあちゃん以外の古民家は見当たらない。
ひいおばあちゃんの母家の南側には家には不似合いな程、大きなお社がある。
そのお社の前には大きな鳥居。
お社は東側の入り口以外、四方を高い木々に覆われている。
私はそんなお社にいるという屋敷神様に、ひいおばあちゃんに連れられて幼い頃1度だけお参りした事がある。
赤い鳥居の向こうにいる屋敷神様の両脇には耳の角の取れた古びた糸目の石のキツネ様が2体、向かい合っていたと記憶している。
幼い私は初めてキツネ様の顔を見た時。
キツネ様のニヒルに笑う顔が怖くて、ひいおばあちゃんの腰あたりに顔を押し付けて盛大に泣いた。
だけど、そんな時。
私の記憶の中に生きるひいばあちゃんは幼い私の頭をしわくちゃな手で優しく撫ぜてケラケラと笑った。
そして、しわがれた優しい声で私に、こう言った。
「ミラちゃん、私はね昔。あなたと同じ名前の青い瞳をした女の子の友達がいたんよ……」 と。
そう言うと記憶の中のひいおばあちゃんは再び優しく私の頭を撫ぜた。
(ん?あれ?おっかしいなぁ。ひいおばちゃんはその後何って言ってたんだっけ?……)
私はそんなことを考えながら、ひいおばあちゃんが最後の時を過ごしたという井戸の前にかがむと井戸の端に生えた雑草を見つめ、ひいおばあちゃんの言っていた事をもう一度思い出してみようと試みた。
だが、やはり最後の記憶だけが抜け落ちてしまっている。
どうやら、あの日。
まだ幼かった私は赤い鳥居の向こう側にひいおばあちゃんとの大切な思い出を置き忘れてきてしまったようだ。
(こんな風にひいおばあちゃんが突然いなくなった悲しみも忘れることができたらのなら、どんなに楽なんだろう……。ひいおばあちゃん、一目でいい。会いたいよ……)
そんなことを考えながら私は再び溢れ出した涙をハンカチで手早く拭き取る。
そして、おもむろにリュックから新品の軍手を取り出し庭へと飛び出した。
パパに情けない泣き顔は見られたくない。
「ひいおばあちゃん、待っててね。今キレイにするから……」
私は青い空に向かい、こう呟くとひいおばあちゃんが最期にやり残したであろう庭の草むしりをお通夜の前に急ぎ終わらせる事にしたのだった。




