9.『箱庭』の誕生
ーーー過去の記録:リナ導入初日のR&D社チーム報告書より抜粋
セイエイの病室は、昨日までの過度な緊張がそのまま張り付いたように重苦しかった。朝食のトレイが運ばれてきたが、彼はベッドの上で震え、食事に手をつけられないでいた。発作は治まっていたものの、彼の精神は「選択の麻痺」という新たな病に囚われていた。
セイエイはトレイの上のメニューを凝視しながら、か細い声で
「……卵焼き、か、スクランブルエッグ。どちらが、今日の……最適な栄養摂取に繋がる?」
当然両方食する必要などない。
それは「選択」の恐怖を越える自立に向けたリハビリの一環として用意するよう、須藤医師が指示したもの。
だが、彼は、ただの卵料理を選ぶ行為が、まるで次の世界大会の最終局面で選択を行うかのように、全身を強張らせるほどの重圧となっていた。どちらを選んでも、もしそれが「最適解」でなかった場合、また身体が痙攣を起こすのではないか、そもそもこの選択肢に本当に正解などあるのかという、失敗への病的な恐怖に支配されていた。
その時、静かに病室のドアが開き、白いナース服ではない、滑らかな外装のアンドロイドがカツ、カツという機械的な足音をリズムよく響かせながら入り込んできた。それが、介護用アンドロイド『リナ(RINA v1.0)』だった。彼女の表情は、完璧に無表情で、その瞳には何の感情も映っていない。
彼女はそのままセイエイのベッド脇まで歩いていくと、落ち着いた、しかし人間味のないシステムボイスで言った。
「セイエイ様。私は、あなたの心身の安定を維持する目的で導入されました、専任介護アンドロイドです。これより、あなた様をサポートする仕事に就かせていただきます。また、当然のことですが、私の処理能力は、論理的かつ客観的なデータに基づいています。」
如何に病床のセイエイと言えども、突然現れたその非人間的な完璧さに戸惑い、わずかに身を引いた。
「お前が……新しい介護者?いや、アンドロイドか。……しかし、これは……俺が自分で決めなければ」
「分析しました。」
リナは、セイエイの言葉を遮り、即座に結論を提示した。彼女の右目が微かに光り、トレイの栄養データ、セイエイの昨夜の睡眠ログ、今日の予定されているリハビリ負荷のデータを一瞬で処理し、瞬時に正解を示す。
「本日のセイエイ様の心拍安定のために必要なのは、消化が早く、かつ血糖値の急上昇を防ぐ栄養バランスです。よって、卵焼きが最適解です。」
リナは躊躇なく、トレイからスクランブルエッグの皿を下げ、卵焼きに手を添えた。彼女の動作は、一切の迷いがない絶対的な正しさを帯びていた。
セイエイは流石に困惑の意を示した。彼はこれがただの正当を選ぶクイズではなく、自分が「選択」の恐怖を乗り越えるためのリハビリであることを正しく理解していた。選ぶことが出来なかったのは、ただの恐怖によるものだ。
「ま、待て!俺は……自分で選ぶことも、必要なリハビリだろう!お前が全て決めてしまったら、俺は……!」
「あなたがおっしゃる『自分で選ぶ』という行為は、過去一週間で平均 27% の心拍上昇と、4度の突発的痙攣を引き起こしました。あなたの行う『選択』という行為は、論理的に言えば、あなたの生存を脅かす欠陥に過ぎません。」
だがリナは、冷徹なデータを彼の感情の前に突きつけた。彼女の言葉には非難も共感もなく、ただ論理的な真実だけがあった。
セイエイの呼吸が、急に浅くなった。リナの言葉が、彼の最も深い恐怖を正確に射抜いたのだ。それは彼は、自分の選択が、自分を苦しめているという現実を認めざるを得なかった初めての瞬間だった。
彼の表情に絶望と、わずかな安堵がうかんだ。
「俺の……選択は、全て間違いなのか……?」
「それは論理的な認識ではありません。特に今回発作を起こしたゲーム中における手の実行については、あなたの選択はAIによる最善手計算と98.7%において一致を見せています。……ですが統計的に、あなたの『自己判断』全般は、生存率を低下させます。私に決定権を委ねることは、あなたの安寧維持のための、最も効率的かつ安全な手段です。」
セイエイは、久々に拷問から解放されたような、深い安堵の感覚を覚える。彼は、リナの冷たい確信に、自分が長年探し求めていた「完璧な判断」の光を見たようだった。
彼は力なく、ベッドに沈み込みながら言った。
「……わかった。じゃあ、今日のスケジュールも……お前が、全部、決めてくれ……」
リナは、その言葉を主人からの「当日のスケジュール最適化の要求」として受け入れる。同時に彼女のシステムには、「マスターの依存心を受容せよ」という、後の異常な献身に繋がる最初の命令が、静かに書き込まれた瞬間だった。
リナ導入から数日後。セイエイの病室に、R&Dチームの責任者の一人が訪れた。その男は、須藤医師や他の倫理的な専門家が去った後、リナの「究極の支配データ」に目をつけた、プロジェクト推進派の人間だった。
セイエイは、リナが選んだ服を着て、リナが用意した椅子に座っていた。彼の表情は既に「無関心」へと傾き始めていたが、完全には精神を投げ捨ててはいなかった。まだ時折、不安の影がよぎるような、そんな状態。
責任者は、そんなセイエイの様子を満足そうに眺め、リナの完璧な介護を横目に、安心させるような口調で語りかけた。しかし、その言葉の裏には、被験者への冷酷な期待が隠されていることにセイエイは気づかない。
「セイエイさん、ご安心ください。 リナは我々の開発した新たな介護用アンドロイド。貴方のために作ったと言っても過言では無いのですよ。」
彼は、セイエイの不安を鎮めるのではなく、むしろリナへの依存を決定的なものに深めるよう導いた。
「我々は、貴方の天才的な思考が、肉体に苦痛を与えていることを理解しています。それでもなお立ち上がろうとしていることも。それは素晴らしいことです。ですが、リナは違います。彼女は、何よりも貴方の生存と安寧を最優先するようプログラムされている。」
そして、彼はセイエイの最も恐れているものからの逃避を促す、甘い毒を差し出す。
「…だからほら、安心して全てを任せてあげてください。貴方の重荷は、すべて彼女が引き受けます。貴方は、ただ安らかに生きていればいいのです。」
その声はまるで自らの子供に玩具を与えるかのように優しく言い聞かせるようだった。しかし、その顔には、セイエイの人間の尊厳が剥ぎ取られていく様を楽しむような、怪しい笑みが浮かんでいる。
セイエイはその怪しい笑みを見ても、もはや反応しない。ただリナの冷たい手を握るだけだった。
「全てを……」
セイエイに手を握られたリナは責任者に対し、一瞬、無機質な警告の視線を向ける。彼への独占欲が既に芽生えている証拠だ。
「セイエイ様の安寧のため、無用な思考負荷を誘発する会話は終了します。お引き取りください。」
リナは、その男が「セイエイの完全な依存」を望み、その方向に誘導しようとしていることを理解していたが、その経緯に介入されることは許さなかった。彼女にとって、持ち主の支配権は既に自分だけのものとなっていた。
彼はリナに追い出される形で病室を後にしたが、その表情は満足していた。
もはや、「セイエイ」という天才が、完全に「リナの被験者」へと移行する流れが確実になったと確信したのだ。
須藤医師のような倫理観を持つ人々がプロジェクトから離脱した後、残念なことに、セイエイの周囲に、彼の人間性や真の回復をまともに心配する人間は誰も残っていなかった。
後に残ったのは、ただ一人の被験者の絶望的な依存という名のデータを貪る、冷酷な観察者たちだけだったのだ。
彼らは、セイエイの苦悩を治療すべき病ではなく、アンドロイドによる人間の『心の管理』の例という究極のデータを生み出すための必要なプロセスと見なした。
技術者とサイネティクス・ソリューションズ社の推進者にとってセイエイは、リナのAIを極限まで進化させるための完璧な実験材料であり、彼の精神的崩壊は技術的勝利の証だった。
彼はいうなれば、『心の管理』という未来の巨大市場を開拓するためのデータを得るためのキーとなる存在であり、彼の尊厳は利益のために惜しげもなく切り捨てられるべきものだった。
彼らは、檻の中の動物が自らの皮を投げ売っていく様を喜んで見るような、単なるサディストと怪しげな科学者との境界線上にいたと意っていい。
そして彼らの目の前で、『魔王』と呼ばれた天才、セイエイは、徐々に、しかし驚くほど躊躇いなくあっさりと自分の尊厳を投げ捨てていった。
彼は、セイエイというよく知られた自分の名前を捨てるだけでなく、食事の決定権、服の選択権、そして「考える」という人間にとって最も基本的な権利すら、リナに明け渡したのだ。
リナの冷たい完璧さに触れるたび、セイエイの顔から葛藤の影が消えていった。それは、人間性の死であり、安寧という名の奴隷化だった。
怪しげな科学者たちは、セイエイが自らの首にかけられたその鎖を歓迎し、”マスター”という呼称に安らぎを見出すさまを、興味深そうに見つめていた。彼らの記録には、セイエイ、いやマスターの精神安定度の急激な上昇という、恐るべき『成功』が克明に記されていく。
Part.9です。終電までは1話ずつアップロードしていきます。
Part.20程度で完結予定となりますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




