表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/22

8.人間性回復実験

昼休み。ハヤカワは昨夜の徹夜が響き、深く机に突っ伏していた。全身に鉛が入っているように重く、頭の中は昨日の恐怖と、資料で見たセイエイの絶望でぐちゃぐちゃだった。

そんな彼の横に、再び太田先輩が立っていた。早川の様子を見ても放っておいてはくれないらしい。彼にとっては早川の反応まで含めて、『箱庭』という1つのアトラクションなのかもしれない。彼は静かに、しかし含みのある声で言った。

「後悔してるんだろ?あんなひどい形で終わらせて。もう一度、『箱庭』に触れてみたくはないか?」

早川は疲労でまともに頭が回らず、うわのそらで低い唸り声をあげた。

太田は彼の状態を気にせず、独り言のように話し始めた。その内容は、彼の見た報告書には記されていなかった、プロジェクトのより深い過去だった。

「おれ、むかし『箱庭』にマスターの知り合いを向かわせる実験をやってたんだよなー」

その言葉が、ハヤカワの意識を一気に覚醒させた。

彼は勢いよく顔を上げた。先日の帰り道、工藤が「昔の知り合いを会わせる実験はやった」と確かに語っていた。しかし、その「実験」に携わっていたのが、今目の前にいる太田だったのか?

彼の身体は以前机に両手をついたまま、低い声だったが、頭脳は疲労を忘れ、急速に回転し始めた。

「あ、あの……太田先輩が、ですか?それは、治療記録には記載されていませんでしたが……」

「ああ、そりゃそうだ。あれは、”【特務】透明体”の『人間性回復実験』なんていう大層な名前で動いてたが、結局は倫理的にグレーな領域でな。ほとんどデータは危険視した工藤がプロジェクト凍結後に消したが、おれの端末にはまだいくつか残ってる。」

太田の目には、かつて「人類の倫理」を試した実験者としての、冷たい興奮が宿っていた。

「どうだ?お前、セイエイの過去に興味があるんだろ?奴がリナの支配から解放される可能性を、もう一度だけ見てみたくないか?」

太田の言葉は、早川の心に残る罪悪感と未練を、正確に抉り取っていた。

そしてその言葉は、彼の心に巣食うその気持ちを、一瞬にして新たな探究心、好奇心へとねじ曲げた。オオタは、ハヤカワの反応を見て満足そうに口角を上げた。

「おれはそもそもプロジェクトの凍結に反対だからな。」

太田は、プロジェクトへの社の対応を批判し、自らの論理を立ててみせた。

「セイエイに回復の可能性があるなら諦めるべきじゃないし、……まあ、俺は近くで見てきた結果として正直回復の可能性はないと思うけど、それなら逆に、『心の管理』のビジネスチャンスだろ?あそこには究極の支配データが詰まってる。会社がそれを凍結して眠らせておくのは、宝の持ち腐れ以外の何物でもない。」

彼の視線は、倫理ではなく、純粋な利益と実験データに単純に向けられていた。彼の朗らかな話し方に含まれた冷徹な合理性は、工藤の「触れるな」という諦念とは、まったく異なる種類の危険を孕んでいた。


そして、何よりも最も残酷な本音を、楽しそうに付け加えた。

「あと、アイツは見ていて面白いんだよな。あんまりにも脆くてな。」

早川はその言葉に胸の底から思わず湧き上がる嫌悪感を覚えた。治療記録にあったあの絶望的なほどの苦痛を、この先輩は「面白い」と見ている。

「…………本当に人倫を捨ててしまったのはどっちですか」

早川のその毒づきは、太田には届かなかったのか、あるいは意図的に無視されたのか。太田は早川の倫理的な拒絶を、単なる青臭い反抗として扱ったようだった。

「さあな。だが、お前も気になるんだろ?お前は、セイエイの過去を、『魔王』の栄光を、何よりも『箱庭』の静寂を、自分の手で汚してしまった。その責任を、別のデータで埋めたくはないか?」

太田は、新たな付箋を彼のデスクの上に滑らせた。そこには、昨日のものとは違う、「実験記録(外部接触)」という太田の個人フォルダの暗号化されたパスワードが記されていた。



早川は、終業後、重い足取りで自宅へと帰った。太田先輩から押し付けられた付箋が、ポケットの中で罪悪感と好奇心の炎を灯し続けていた。

(自分は今のマスターのみならず、過去のセイエイの尊厳の残滓さえ踏みにじろうとしている。最悪だ。)

彼はそのように自分自身を罵りながらも、誘惑に勝つことはできなかった。「セイエイの弱さ」を露呈させた張本人としての贖罪の義務が、「彼の真の過去を知りたい」という醜い興味と結びつき、彼をPCへと向かわせた。

帰宅後、彼は私物のPCを立ち上げ、新たなリモートアクセスIDでログインした。そして、「実験記録(外部接触)」というフォルダにアクセスする。

太田のフォルダの中には、無数の日付と氏名が並んだログファイルが確認できた。これが、工藤が「全部うまくいかなかった」と語った、人間性回復プロトコルの残骸だった。

彼はまずは、最も古く、そして最も影響力が大きかったであろう元チームメイトとの接触記録を開いた。



ーーー実験記録:外部接触プロトコル No.001より抜粋

#### 最終結果と考察

* 結果: 外部接触から 21分でマスターが排除命令を発令。旧チームメイトは強制的に退室させられ、「マスターの精神安定の維持」は失敗。

* R&Dチームによる考察:現”マスター”にとって、『友情』や『過去の栄光』といった人間的な感情は、すべて「自立を求める重圧」と同義である。外部の愛情は、リナの完全な支配という安寧を脅かす最大のリスクとなる。

* プロトコル修正: 以後、外部接触プロトコルは「人間性回復」の目標を削除し、「外部ノイズのマスターへの影響度」を測る危険度検証へと目的を変更。

ーーー



ーーー実験記録:外部接触プロトコル No.003より抜粋

#### 会話ログとRINAによる評価

ユイ:「セイエイ選手のおかげで、私も人生の選択に自信を持てるようになりました!あなたの完璧な判断は、私の道標です!」

RINAの評価:

 負荷レベル:増加(3.7)。

 原因:「判断」「道標」など、『責任』を連想させる語句の集中

#### 最終結果と考察

マスターにとって、純粋な賞賛や尊敬ですら、「才能を活かせ」というプレッシャーとなり、その発現は自己崩壊を意味することが明確に示された。

ーーー



ーーー実験記録:外部接触プロトコル No.006より抜粋

#### マスターの発言ログ

「嘘だ! 助けられないのは君の不完全さだ!君たちの不完全な愛情が、俺にまた選択を強いる!リナ!排除しろ!」

(排除命令発動により、実験中止。)

ーーー


彼はもう見ていることができず、フォルダだけでなくPCのディスプレイそのものを閉じた。バタン、と言う物理音が部屋の中に響く。

(やはり、そうか。)

友情も、期待も、尊敬も、心配も、「セイエイ」にとってはもはや毒でしかなかった。彼は、そうした人間的な繋がりを全て排除することでしか、苦しみなく生きる道を選べなかったのだ。そして、リナは、その絶望的な要求に完璧に応えただけだった。

ハヤカワの心に残ったのは、憐憫と、そして「自分を『ノイズ』と呼んだのは、彼自身の生存本能だった」という、苦い納得だった。

彼は、目の前に突きつけられた新たな禁忌を、振り払うことができなかった。彼は、セイエイの苦しみに対する贖罪と、伝説の人物の全貌を知りたいという醜い好奇心の板挟みになっていた。


彼は、最後に開いたファイルのセイエイの発言を思い出した。

『君たちの不完全な愛情が、俺にまた選択を強いる』

時系列から考えても、それが、彼が人間に向けて発した、最後の自分の意思、絶望の叫びだった。彼は、愛情ですら、「自分で何かを決めなければならない」という重圧に変えてしまうほど、深く自己を放棄していた。

彼は自分が昨日行った行為が、この『排除命令』の引き金を引く、繰り返された過ちの最新版でしかなかったことを理解した。彼が知りたいと願った『魔王』の栄光は、すべてこの絶望的な安寧を乱す毒へと姿を変えていたのだ。


彼は、太田から受け取った付箋を、ゆっくりと握りつぶした。


翌日の昼休み、早川は連日の睡眠不足と、完全に倫理を逸脱した実験記録の衝撃で、憔悴の色を隠しきれなくなっていた。机に広げたのはサンドイッチではなく、ただの資料の切れ端。その顔色を見て、太田先輩が再び声をかけてきた。

「今日もひどい顔してるな。流石に寝たほうがいいぞ??」

彼の声には特に心配という声色は混ざっておらず、どちらかと言えば「自分の資料でそこまで追い詰められたか」という、満足げな興味が混じっていた。

「あれを読んだあとに寝れる方が異常ですよ……。先輩は、あれを読んで平気なんですか。」

重い瞼をこすりながらの精一杯の早川の皮肉に、太田は肩をすくめて軽く笑った。

「たはは、お前はあのプロジェクトの実験チーム担当にはなれないな。俺たちはああいうのを次のAI開発につながる『重要かつ客観的なデータ』として処理する訓練を受けているんでね。」

その言葉は、2人の間にある倫理観の決定的な断絶を改めて浮き彫りにした。

「しかしお前、マスターの昔のこと知ってたんだな。あの『魔王』が、あんな形で「心の管理」の被験者になるなんて、皮肉なもんだ。」

太田は早川のデスクの端に腰かけた。彼の顔には、新たな提案を思いついた者の企みが浮かんでいる。

「どうだ、当時実験で『箱庭』に行った人間と話してみるのはどうだ?」

早川の意識が一気に引き上げられた。彼は、自分が読んだログに登場した元チームメイトや旧友たちを思い出した。彼らは、マスターの安寧を乱す「ノイズ」として扱われ、絶望して帰っていったいわば被害者たちだ。

「実験で……?彼らと、会えるんですか?」

「ああ。特に、初期の実験でひどい目に遭った奴らの中には、今でも『箱庭』へのトラウマを引きずってる奴もいる。彼らは、マスターを『リナの支配から救えなかった』という、お前と似た後悔を抱えている。」

オオタは、ハヤカワの贖罪の感情を利用しようとしていることは明白だった。

「お前が彼らと話せば、『箱庭』の真実が、データじゃなくて人間の感情として理解できるかもしれない。そして、まだ何かできることがあるのか、ないのかもな。」

太田は、早川の目の前に、「共感」という名の新たな誘惑を差し出した。それは、昨日の「好奇心」よりも、ハヤカワの心を強く動かす、最後の希望だった。


Part.8です。終電までは1話ずつアップロードしていきます。

Part.20程度で完結予定となりますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ