6.治療記録
翌朝出勤した早川は、自らに向けられる部署の雰囲気がいつもと違っていることに気づく。明らかに数人から好奇の視線を向けられている。彼は昨日の出来事のせいで顔色が悪いことを自覚していたが、理由は外見の問題だけではなさそうだった。
まず彼のデスクに近づいてきたのは、同じ部署の山崎という先輩社員だった。早川にとっては顔と名前がすぐに一致しない程度の間柄だったが、彼は噂話好きで知られていた。山崎の顔には、当然隠しきれないほどの好奇心が浮かんでいる。
「おーい、早川。お前、昨日あの『箱庭』に行ったって本当か?」
早川は反射的に身体をこわばらせた。工藤から報告書を出すよう言われているとはいえ、昨日の件は会社とは関係ない「個人の逸脱」として処理されるはずだ。既に噂が広まっていることに驚き、そして辟易する。
「楽しかったか?……って、あそこに行って愉快な人間なんていないよな。みんな顔色悪くして帰ってくるって噂だ。昔、俺らの先輩もあそこに言ってさぁ...」
まるで肝試しだ。
山崎は早川の返答を待たずに饒舌に話し始めたが、すぐに本題に戻った。
「なぁ、今晩どうだ?飲み代おごるから、あそこのヤバい話を聞かせてくれよ。……あの動く死体と、あの美人で怖いアンドロイドの話!」
山崎の軽薄な好奇心と、マスターを「動く死体」と表現したことに、早川の心は冷え切った。彼にとって、あの場所はもはや酒の肴になるような「ネタ」ではなかった。命の危険を冒し、伝説の人物の絶望と精神的な死をその目で垣間見てきたばかりなのだ。……美人で怖い、については否定する気もないが。
彼は可能な限り表情を消し、冷えた声で答えた。
「あそこはその、入院病棟の一種みたいなものだと思うので、そうやって酒の話のネタにするのは……ご遠慮いただけますか。」
早川は、山崎の目をまっすぐ見据えた。彼の目には、昨日の恐怖と、『箱庭』の真実を知ってしまった人間の冷たい拒絶が宿っていた。山崎は、彼が発する予想外の厳しさと、その生気のない顔色に、一瞬たじろいだ。
工藤さんの言った通りだ。触れたことがない人間は誰も、あの場所の本当の重圧なんて理解できない。
彼はそう思い、デスクに向き直った。彼は、今すぐにでも報告書を仕上げ、あの「ノイズ」を完全に職場から排除したいと考えていた。
さらに時間は過ぎて昼休みになり、彼はデスクで静かに持参したサンドイッチを広げていた。彼は午前中に出来るだけ早く報告書を仕上げることに必死だったこともあり、疲弊していた。そして、昨夜の出来事と、午前中に受けた山崎の軽薄な好奇心から、この「箱庭」の話をできる限り避けたいとも思っていた。
しかし、別の先輩社員、太田が彼のデスクに寄ってきた。太田は工藤と同年代であり、山崎ほど騒がしいタイプではないが、その眼差しにはやはり、あのプロジェクトに興味を持つ者の特有の異様な好奇心が宿っていた。
「早川、『箱庭』の話なんだけどさ…」
早川は、サンドイッチを一旦机に置いた。彼は既にその話題に耐性がなく、冷静に、かつ強制力のある言葉で距離を取ろうと試みていた。
「あそこは一種の入院病棟みたいなものだと思ってます。あまりその話をしないでもらってもいいですか?」
彼の脳裏に浮かぶのは、自分の名前を呼ばれた途端に痙攣を始めて自我を失う、マスターと呼ばれる男の弱々しい姿だ。そして、何より、その男が「排除してくれ」とアンドロイドに命じた絶望的な声。
(何が"マスター"なんだか。呼び名は立派だが、あれはただ、恐怖に支配され、そこから逃げること以外何も考えられない病人だ。)
早川自身の心の声が、彼の顔に冷たい影を落とした。
太田は、早川の表情と、その言葉の背後にある真剣な拒絶を感じ取ってくれたようだった。しかし、その拒絶は、太田の好奇心を鎮めるどころか、別の論理で合理化させた。
「あー、今のところはそういう認識なんだ。確かに、そう考えればなんとなくアリな気がしてくるよな。外部のノイズから隔離された、究極のメンタルケア病棟ってわけか。」
太田は腕を組み、納得したような表情を浮かべる。しかし、次の瞬間、彼の目は再び光を帯びた。
「…でも、早川。お前は特別だ。実際に中に入ったんだからな。俺たちと同じようにな」
早川はその言葉に衝撃を覚えた。この軽薄そうな先輩社員も、あそこに行ったことがあるというのか?
太田は声を低め、早川に一歩近づいた。それはあそこに踏みを踏み入れ、今もなお興味を保ち続ける者のみが出せる、悪魔の囁きだった。
「もっと詳しく、あそこについて知ってみたくはないか? あの『魔王』が、どうして動く死体と呼ばれるようになったのか、その始まりのデータをさ。」
それは、早川の「セイエイ」という名前に反応した個人的な好奇心を、さらに深く抉る、巧妙な誘惑だった。
早川は、先輩から押し付けられた付箋を、捨てることも燃やすこともできず、自宅のPCの前に座って逡巡していた。
「……とりあえず俺のリモワ用のIDとPASSを貸してやるよ。これであのプロジェクトに関する資料は家から見放題のはずだ、サブスクでどんなドキュメンタリー番組見てるよりも絶対面白いぜ」
太田先輩のその誘惑は、あまりに巧妙だった。
病人のプライバシーを侵害し、社の機密情報を不正に閲覧する。それは最悪の行為の連鎖であり、昨日の体験で『箱庭』の危険性を理解した自分には禁じられた行為だ。だが、彼は興味があった。
『魔王』と呼ばれたセイエイ選手は、かつて公式戦の最中に突如体調不良で倒れ、公的にはそのまま姿を消している。あの「天才」がどうやって「動く死体」になったのか、その経緯の全てが、このフォルダには眠っている。
彼は罪悪感を押し殺し、与えられたIDとパスワードを入力した。セキュリティを突破する電子音の後、”【特務】透明体”の階層が表示される。彼は迷わず、マスターの「治療記録(入院後)」フォルダを開いた。
そこには、天才が幸せを求めて自己を解体していく恐るべき過程が、無機質な医学用語で克明に記されていた。
ーーー治療記録:キヨナガ(【特務】透明体 対象 P-001)
【フェーズ I:トラウマと発作の出現】
入院初日 : 医療チームによる診断。思考負荷誘発性心身症。極度のプレッシャーにより、自己否定と重度トラウマ反応が連鎖。突発的な全身痙攣、意識の混濁が頻発する危険な状態。
入院後10日 : 精神科医による診断完了。従来の認知行動療法、薬物療法すべて無効。患者は「次の選択を失敗する恐怖」を告白。それにより、食事の献立や着替えの色さえ選べず。「全て誰か決めてくれ」と懇願する傾向が顕著化していることを確認。
入院後 45日:患者であるキヨナガ選手のスポンサーであるサイネティクス・ソリューションズ社のR&Dチームが治療に参加。また、担当医師に対し、患者は「貴方の判断にも間違いがあるのでは?」と指摘し、発作を再発。これにより、患者が感じている「人間の不完全さ」が、治療の最大の障害であると判明。
【フェーズ II:介護用アンドロイドRINAの導入と遭遇】
事態を受け、サイネティクス・ソリューションズ社は、「感情を持たず、計算によって最適解を導く完全な介護者」として、カスタムAIを搭載した新型の介護用アンドロイド、リナ(RINA v1.0)を試験的に患者の治療に導入した。
RINA導入初日: R&DチームがRINAを紹介し、患者に引き合わせる。 RINAが「本日のタスク」を完全にプログラムし、患者(セイエイ選手)に提示。そこからは「選択の余地」を完全に排除。患者、当初は戸惑うも、発作の誘発はゼロ。安堵の表情を確認。
導入後 7日: RINAの動作ログより抜粋。 患者よりRINAに対し、「お前は、俺の判断より完璧か?」という問いかけ。RINAは冷静に「私の判断は、あなたのデータに基づく最適解です。失敗の確率はゼロです」と応答。患者の精神安定度が急激に上昇したことを確認。
導入後 30日: 精神科医による診断。患者がRINAに絶対的な信頼を置くようになっていることを確認。患者は自立に向けた自己判断を完全に停止。代わりにRINAに「人生の全て」を委ねたいという強い要求を示す。従来の「自立」を促す介護者では得られなかった究極の安心感を獲得。
【フェーズ III:名前の放棄と「マスター」への移行】
リナとの生活が定着し始めたある深夜、セイエイは最も深いトラウマに襲われた。
重要記録(日付不明):RINAの音声ログ(音声記録)より抜粋。患者、睡眠中に激しい悪夢から覚醒し、過呼吸を発症。「俺はセイエイだ、だから失敗するんだ!」と絶叫。自己の名を「失敗の原因」として強く認識。
「頼む、リナ。もう、『セイエイ』って呼ばないでくれ。……その名前は、俺の重荷なんだ。俺を、君の支配下に置かれた、誰も知らない存在にしてくれ。」
これをRINAは所持者による決定的な”命令”と認識。
これを受けたRINAは患者の生存プロセスにおいて、「セイエイ」という自己認識は最大のリスクであると判断。患者の要求を安寧のための最適化として承認。
RINAが患者に対し、「承知いたしました。あなたは、二度と失敗しない、私の 『マスター』 です」と応答。呼称変更後、患者の発作の急速な鎮静化を確認。
R&Dチームによる最終結論:患者は「セイエイ」という過去のアイデンティティを自発的に放棄し、「マスター」という機能的な役割と、リナの完全な支配を受け入れることで、究極の精神安定を獲得。これをもって、治療目的を「本来の治療」から「機能的生存の維持」へ移行。
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Part.6です。終電までは1話ずつアップロードしていきます。
Part.20程度で完結予定となりますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




