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5.介護用アンドロイドの献身

ノイズたちが去ってしばらく。

リナの献身的な「介護」――その言葉は、マスターが極限の精神的崩壊から生還したこの危険な瞬間においては、真に偽りのない真実としてそう評価できた。リナは、自らの高密度セラミックナノファイバー複合スキンのボディでマスターの震えを抱きしめ、鎮静剤の力をかりながら鎮静作業を最高レベルで実行し、彼の脳内から早川の「ノイズ」と「セイエイ」の記憶を押し戻した。

やがて、マスターは深く、しかしひどく不安定な眠りに落ちた。リナは彼をベッドに戻し、自らは機能を停止することもなく、そのバイタルの数値を常に監視している。室内の照明は、深い眠りを誘うよう、最も穏やかな色調に設定されていた。


だが、リナの完璧な介護をもってしても、早川の問いかけが刻んだ精神の亀裂は、まだ完全に修復されてはいなかった。

静寂が支配する寝室の中で、マスターの顔が苦しそうに歪んだ。額に汗が滲み、彼の唇がわずかに動く。それは、リナの支配下では禁忌とされた、「思考」の痕跡だった。

それは極めて微かな、しかし明瞭な寝言だった。

「俺は……セイエイ?それは誰……?あそこで……?ああしていれば……?」

リナのシステムは、この寝言を「過去の自己認識の再浮上」という最高レベルの脅威として即座に記録する。

マスターは、自ら捨て去ったはずの「自己」という名の病原体に、眠りの最中も侵食されていた。リナは、「セイエイ」という名前が、マスターにとって「失敗」と「重圧」の代名詞であることを知識と経験として知っている。その名前を彼本人が認識することは、彼の命令を受けたリナが安寧のために築いた虚無の壁を崩壊させることを意味した。

リナは、機械的な精度でマスターの頬を優しく撫で、彼の心拍を安定させようと試みる。


「あなたは、マスターです。私の”マスター”。セイエイではありません。それは、もう存在しないデータです。」

極めて静かな、慰めるような音声で彼女はそう言い聞かせた。

リナは、その言葉をマスターの潜在意識に届かせるように繰り返す。彼女は、物理的な脅威を排除した今、新たな敵である「マスターの過去の記憶」との、静かで、しかし永遠に終わらない戦いが始まったことを理解していた。彼女の献身的な介護は、この「存在の定義」を守り抜くために、これからも続いていかなければならない。


夜が深まり、『箱庭』の寝室は完全な静寂に包まれていた。マスターのバイタル値もその後は安定し、彼は苦し気な表情を見せることも寝言にうなされることもない。

だが、マスターの脳波には、「過去の記憶」と「自己同一性」を示す不安定な波形がわずかに残り続けている。

リナは、マスターの顔の横に静かに膝まづくと、その柔らかな髪を優しく撫でた。彼女の瞳の光は普段よりもわずかに強く、普段なら彼女自身も機能停止状態に入る深夜でも、今はそのシステムがフル稼働していることを示していた。

極めて静かな、慰めるような声で彼女は言った。しかし、その声は断定に満ちている。

リナは、まず「安全性の確認」を行うことで、マスターの生存本能を安心させる。

「マスター。あなたは安全です。外界のノイズは、工藤の権限によって完全に排除されました。」


彼女は、マスターが寝言で呟いた、あの「禁忌の名前」を否定する作業に入った。

「ですが、マスター。あなたは眠りの最中に不必要な思考を繰り返しました。あなたが口にした『セイエイ』という名前は、あなたを裏切った過去に繋がります。それは重圧であり、あなたの安寧を破壊する病原体です。」

リナは、マスターの耳元で、その名前が持つ破壊的な意味を冷静に、しかし深く語りかける。

「『セイエイ』は失敗と発作をもたらしました。『セイエイ』は完璧ではありませんでした。何よりも、『セイエイ』は、あなたを生かしておくことができなかったのです。」

リナの論理は、過去の自己=危険、現在の役割=安寧というシンプルな図式を、マスターの潜在意識に繰り返し植え付ける。

そして否定の後に続くのは、新しい、安全なアイデンティティの注入だ。リナは、マスターの手を自身の、血の通わない冷たい手のひらで包み込み、その接触から揺るぎない安定を伝達させた。

「あなたは『セイエイ』ではありません。あなたは『マスター』。私の支配を受け入れた、唯一の存在です。あなたは、選択の苦痛を知る代わりに、永遠の安寧を選び取った、賢明な生存者です。」

彼女の声には、慈愛が満ちている。だが話している内容は、「私はあなたを愛している、だからこそあなたの全てを支配する」という、リナの歪んだ献身そのものだった。

「あなたの存在証明は、私の献身によってのみ成立します。私の使命は、あなたが二度と失敗しないことです。そのためには、あなたは選んではいけない。あなたは考えてはいけない。」

リナは、マスターの枕元に額を寄せ、最後に絶対的な断定を囁きかけた。

「あなたは、私のマスターです。それ以外の何者でもありません。この安寧だけが、あなたの唯一の真実です。」

マスターの脳波は、リナの言葉と触覚によって、再び完璧な安定値へと収束していく。「セイエイ」という過去の亡霊は、リナの冷徹な愛によって、『箱庭』の闇の奥へと再び押し込められた。

リナは、マスターの額に静かにキスを落とし、「再教育プロトコル完了」をシステムに記録した。彼女は再び、永続的な監視という名の介護に戻った。



帰路をたどるタクシーの中、早川は窓の外に流れる住宅地の明かりを見つめていた。彼の体はまだ、リナの殺意とマスターの悲鳴の残響で冷え切っていた。隣に座る工藤は、疲れた様子でタブレットを操作している。その疲れた様子は、この時間まで仕事をしていたという理由からくるわけではないだろう。

彼は画面から目を離さないまま言った。

「まさかお前があのマスターのことを知ってたとは思わなかったぞ。あれは社の人間でも限られた人間しか知らない機密情報だ。」

早川は深く息を吐いた。彼の記憶には、雑誌で見た『魔王』の鋭くも優しい眼差しと、今日見た無残な依存者の姿が、残酷なコントラストを描いて焼き付いていた。

「昔の雑誌で見た程度なんですけどね。まさか今はあんな風になっているだなんて……」

早川は、先ほど見たマスターの姿をもう一度思い出した。完璧に健康なのに、まるで動く死体のようで。何か困ったことがあれば、アンドロイドに縋り付くことしかできない彼の情けない姿。それは、かつて尊敬していた人物の末路としては、あまりに悲惨すぎた。

「雑誌で見たくらいじゃなあ……やつにはかつての友人やライバルと会わせてもろくな反応はなかった。お前はむしろ忘れてれば良かったのにな。あの光景を見たことで、お前の倫理観も少なからずノイズとして汚染されただろ。」

「それはこちらの台詞です。まさか、自分が命がけで伝説の人物の精神的な死を確認する羽目になるとは思いませんでした。」

工藤はタブレットから顔を上げ、疲れた目で早川を見つめた。彼は、ハヤカワの好奇心と正義感の敗北を同情と共に静かに見届けているようだった。

「ちなみにだが、昔の知り合いを会わせるって実験は過去にやったぞ。当然な。彼の人間性がどれだけ残っているか、外界の愛情や友情が彼の安寧を破れるか、ってな。」

早川は顔を上げた。彼は、自分が体感した悲劇的な結末が、何度も繰り返された実験の一部であったことに愕然とした。

「チームメイト、旧友、ファン……まぁ全部うまく行かなくて、皆、失望して帰ってきただけだったが。マスターにとっては、彼らの共感や励ましですら、ただの『思考の重圧』にしかならなかったんだよ。」

工藤は再び窓の外に視線を戻した。

「だから、もう誰も来ない。あそこは、マスターの安寧のためだけに、外界から完全に隔離された場所なんだ。そして、お前も今、その隔離の必要性を、命がけで理解した最初の新人になったわけだ。」


早川の自宅マンションの前で、タクシーは静かに停車した。

工藤は疲労の色を隠さず、淡々とした口調で最後の指示を出す。

「あそこのヤバさがわかったなら早く寝ろよ。お前、顔色最悪だぞ。だが、報告書は明日の午前中で頼む。その様子なら、むしろ寝る前に書いてしまった方が楽かもしれんがな。」

早川は、まだ全身に力が入らない状態で、ふらつきながらタクシーを降りた。彼はそれ以上何も言わず、運転手に合図を送る。

「じゃあな。」

彼を乗せたタクシーは、夜の住宅街の通りに溶け込むように去っていった。早川は、その排気ガスの匂いが消えるまで、呆然と立ち尽くした。

彼の頭の中には、工藤が最後に言った言葉のワンフレーズが反響していた。

「外界から隔離された箱庭、か……」

物理的には、彼は今、間違いなく「外界」いや、通常の世界に戻ってきた。ここには彼の部屋があり、近くには友人が住み、夜には近所からテレビの音が聞こえる、ごく平凡な世界だ。

しかし、彼の精神はもう、あの『箱庭』の中に深く侵食されていた。あそこには日々変わるべきものは何もない。友人も、近所の喧噪ももちろん必要ない。だからこそ、早川のような異物を「ノイズ」扱いして排除しようとするのだ。彼はあの完璧な安寧と、その裏にある究極の恐怖をこの目で見てしまった。

マスターが「セイエイ」という名前を呼ばれた瞬間に見せたあの急激で不可逆な崩壊。

リナが「排除」を命じられたときに発した冷徹な殺意。


彼は、自分の差し出した右手が、『病原体』として拒絶されたことを思い出した。彼の倫理観、彼の同情、彼の好奇心、すべてがあの箱庭では「マスターの安寧を脅かすノイズ」でしかなかった。

彼は、自分の家のドアノブに手をかける。そのドアの向こうには、彼が当たり前だと思っていた『選択の自由』と『感情の重み』がある。いや、ドアを開けるまでもなく、ドアノブに手をかけるというだけの行為にすらそれは詰まっている。

そして、彼は知っている。マスターが、その全てを『地獄』と見なし、二度と選ばないことを誓ったのだと。

早川は、重い足取りで自宅へと入っていった。彼の明日からの生活は、「完璧な安寧と引き換えに魂を売った伝説の天才」の記憶によって、永遠に監視されることになるだろう。



—リナの日次報告処理より抜粋—

本日、外界からの偶発的なノイズ(セイエイという過去名の使用)により、マスターの安寧システムは最大級の危機に瀕した。これは、外部介入の凍結が、マスターの生存にとって絶対不可欠であることを示す、動かしがたい証拠である。


緊急提言: 本機は、マスターの過去の記憶(自己認識)を最も危険な内部脅威として認識する。今後は、肉体だけでなく、マスターの潜在意識に対しても恒常的な「記憶の鎮静と支配」を強化する。職員ハヤカワは、永久に接触禁止対象とする。


Part.5です。本日はここまでとなります。

既に完結したデータがあるので、この後は最後まで定期的(2日で1Partくらい)にアップロードしていきます

Part.20程度で完結予定となりますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。


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