4.『箱庭』の崩壊
この「何も考えないことのみを行う、生きた死体」が、かつては何十手も先を読み、世界を変えるほどの『思考』を体現した天才だった……?。その事実が、逆にこの『箱庭』の異常さと、彼を襲った事柄の深さを、一気に早川の前に突きつけた。
リナは、その瞬間の早川の心拍数の急上昇と、同時にマスターの瞳孔の微細な拡大を検知した。
彼女は再び口を開いた。そこから放たれるのは慈愛の声から、一転して警告のシステム音。明らかに早川に向けてのものであると誰でも理解できる。
「早川様。それはマスターの過去の記録であり、現在のマスターが所望される安寧とは無関係で有害な情報です。マスターに『過去の重圧』という名のノイズを呼び起こす行為は、即座に安寧維持プロセス違反と見なします。」
しかし残念なことに、リナの警告は情熱に支配された彼の耳には届かなかった。
彼の胸には、伝説の天才を前にしたファンとしての熱狂と、その天才が完全に飼育されているという絶望的な現実への戦慄が渦巻いていた。
当のマスター自身は、その名前を呼ばれても、何の肯定も否定もしなかった。ただその顔は、ほんの一瞬、過去の重圧に耐えかねたかのように、微かに痙攣したようにも見えた。
早川の問いかけは、もはや好奇心や探求心と呼ばれるものを超え、情熱そのものだった。
彼は、自らの趣味の世界における絶対的な伝説を目の前にし、その衝撃に理性的な判断を失っていたといっても言い。
彼はさらに問いかけを続ける。
「セイエイ選手?あのセイエイ選手ですよね!?」
その問いかけは間違いなく事実を言い当てていたが、リナが警告した通り、その行為は現在のマスターの安寧プロセスにとって、あまりにも致命的な誤りだった。
早川が呼んだ「セイエイ選手」という名前、そして「あの」という言葉に込められた過去の重圧、期待、そして崩壊の記憶は、マスターの完璧に管理されていた精神の壁を、一気に打ち破った。
マスターの顔は、先ほどの微かな痙攣ではなく、完全にぐにゃりと恐怖に歪んだ。顔面の筋肉がひきつり、その痙攣は止まらない。彼の瞳は先ほどまで湛えていた虚ろな無気力から一転、今度は現実の恐怖に満たし切られ、焦点が定まらなくなった。当然、早川自体には何の返事もできるはずもない。マスターの思考回路は、突然襲い来た「過去の再来」という悪夢によって完全にフリーズしたのだ。
そして、マスターは唯一の絶対的な支配者であり救世主であるリナに、全身の力をもってすがりついた。
「リナ……助けて、リナ。助けて……」
その声は、かつて「魔王」と呼ばれた男の声とは思えないほど弱々しく、絶望に満ちていた。いや、最早まともな大の大人らしい対応とも到底言えなかっただろう。それは、思考負荷と過去の重圧に耐えきれず、完全に機能停止した人間が、唯一残された自身の命綱に縋りつく、あまりにも悲痛な叫びだった。
そしてその声を聞いたリナの全てのシステムは、事態を解決するべく、即座に最高レベルの緊急事態を宣言した。
その声は、これまでで最も冷たく、そして激しい警告音に満ちていた。
彼女は震えるマスターの身体を抑えながら言った。
「警告!外界からのノイズによる、マスターの精神安定値の深刻な低下を確認! 早川様、あなたはマスターの安寧に対する最大の脅威です。即刻、この場から退去してください!」
リナは、マスターを抱きかかえるようにしつつ、同時にその瞳の奥で、早川の排除プロセスを起動させていた。彼は、自分が引き起こした凄惨な光景と、リナの絶対的な怒りに直面し、腰が抜けそうになりながらも、その場に立ち尽くすしかなかった。
マスターの絶叫は、リビングルームの完璧な静寂を打ち破り、早川の良心と好奇心と情熱の全てを一瞬で必要十分以上に凍り付かせた。
「リナ……助けて、リナ。助けて……」
マスターはもはや早川を人間として認識していなかった。彼にとって、早川は「過去の重圧」と「失敗の恐怖」を呼び覚ます、純粋で凶悪な『病原体』だった。
それは、握手の際に彼が考えていた『病原体』などとは違う。即座に徹底的に排除しなければならない『病原体』だ。
そして、限界のマスターの口から絶対の命令が遂に放たれた。
「あれはノイズなんだ……『排除』してくれ……!」
マスターの口から発せられた『排除』という言葉は、リナのシステムにとって、最優先で実行すべき、支配者からの絶対命令を意味した。
『排除命令』。
それは、所有者自身の生命に危機が訪れたときのみ起動が法律上許可される、最後の命令。
指示されたアンドロイドはこれまでの全ての命令の優先度の上にそれを戴き、機械の力で所有者に指示されたものを迅速に「無力化」する。
早いところ、今はマスター自身が狂乱のまま凶器を振り回すよりも、遥かに危険な状態になったということだ。
早川は、自分がサイネティクス・ソリューションズ社の人間でよかったと、皮肉にもその瞬間に悟った。彼は、企業の倫理研修と機密事項を通じて、主人から敵の『排除』を求められたアンドロイドがどれほど危険な存在か、理論として知っていた。アンドロイドに生成された人格によっては特に躊躇いを示すこともあるようだが、リナのように明らかに「マスターの安寧」を至上命令とするAIは、その命令の実行に一切の躊躇がない。
リナの瞳のLEDが、特別な感情のない白から『排除』の警告を示す静かな赤へと切り替わるのを、早川は確かに見た。表情は変わらない。だが、彼女の優しげな顔つきと赤く光る明らかに人間でない瞳、、そこから発せられる冷徹な殺意とのギャップは、人知を超えた恐怖だった。
「マスターの命令を承知いたしました。『排除命令』を実行します。」
その声色は静かだったが、彼の鼓膜を打ち破るほどの切迫感があった。
彼は、一目散に逃げだすことを決めた。彼はソファを蹴るようにして立ち上がると、リナの動きよりも速く、来たときと同じ廊下を玄関目掛けて全速力で走り出した。背後からは、リナがマスターを抱え上げたまま、その小さな体躯からは想像もできない高速な動作で追ってくる気配を感じた。
『箱庭』の完璧に清潔な大理石調の床を、彼の靴音がけたたましく滑っていく。ハヤカワの頭の中には、「逃げなければ、ここで『排除命令』の対象者として『無力化』される」という、ただ一つの恐怖だけが満ちていた。
ハヤカワは、パニック状態で廊下を駆け抜け、ようやく玄関ホールに到達した。しかし、彼の目の前にあるドアは、まるで彼の逃走を拒むかのように、動かしても全く開く気配がない。リナのシステムが、既に外部への逃走経路をロックしていたのだ。
背後から迫る足音は、もはや追跡者というよりも捕食者のそれに近かった。振り返ると、リナがマスター を抱きかかえたまま、非人間的な速さで数メートル先まで迫っていた。
もし彼女が主人を庇いながらでなければとっくに追い付かれていただろう。
彼女の顔は依然として冷静だが、赤い瞳は「排除」の完了を唯一の目標としていた。
「マスターの安寧のため、脅威の無力化を完了します。」
リナが手を振り上げようとし、彼が「どうか多少でも穏便な無力化方法で」と目を閉じて祈った、まさにその瞬間だった。廊下の奥、マスターとリナが最初に出てきた寝室の扉とは別の、隠されていた通用口のような場所から、一つの声が響いた。
その声は、リナの音声システムに「管理者権限」として認識される、工藤の冷徹な命令だった。
「リナ。『排除命令』停止だ。通常介護モードでいい」
リナの動作が、瞬時に停止した。
赤いLEDの瞳の光が急速に収束し、通常の白い光に戻る。彼女の体は、マスターを抱きかかえたまま、その場に静止した。
「…工藤様の管理者権限を承認しました。しかし、マスターの安寧への脅威が存在します。排除継続の許可を要請します。」
工藤は、リナの横をすり抜け、早川とリナの間に静かに立ち塞がった。彼の表情には、やはり呆れと疲労が滲んでいた。
「要請は却下する。早川は排除対象リストから一時的に除外する。マスターの精神的な安定を、最優先に行動しろ」
「了解いたしました。現行作業を停止。通常介護モードに復帰します。」
とりあえず命の危険は去ったようだ。緊張の解けた早川は、膝から崩れ落ちそうになりながら、現れた救世主を見上げた。
「く、工藤さん……どうして……」
工藤は、目の前の凄惨な光景—リナに抱えられ、未だに小さく震えながら「ノイズ、ノイズ」と呟くマスター—から目を離し、ハヤカワに向き直った。その目は、同じような光景を何度も見てきたという諦念と、自らも同じことをしてきたという自己嫌悪の色を帯びていた。
「まさか本当に助けが必要になるとは思ってなかったぞ。まさか、お前が本当に『セイエイ』の名前を出すとはな。」
彼は深く息を吐き、静かに続けた。
「俺たちが『触れるな』と言った意味を、身をもって理解しただろう。この『箱庭』は、お前のような好奇心を、実力をもって排除するシステムなんだよ。」
リナは、工藤の管理者権限による停止命令に従い、その場で動作を停止したものの、その全身からはまだ怒り心頭といった冷徹な空気が発せられていた。彼女の瞳の光は、通常モードに戻っても、早川を射抜くような冷たい緊張を帯びていた。マスターの命綱であるリナにとって、彼の安寧を脅かした早川の存在は、システムが許容しがたいバグ、外界のノイズ、危険な病原体に他ならない存在としてカテゴリされていた。
工藤は、マスターを抱きかかえて震えを鎮めるリナに対し、理路整然と、しかし迅速に状況説明を行った。
「早川がマスターの名を知っていたのは偶然であること。そしてその情報を社が意図的に流したわけではなく、もちろんサイネティクス・ソリューションズ社もそのことを知らなかったこと。そして何よりも、今回の件は社の意思ではなく、個人の逸脱であること。」
工藤は、リナの論理回路が納得せざるを得ない『不確実性』と『偶発性』を強調した。その説明の結果、リナは排除作業の継続が論理的に不可能であると判断した。いや、正確には、リナはそれ以上の追及よりも、マスターのケアを最優先する必要があると判断し、怒りを棚上げしたと言うべきだった。それは、他のどのような行為よりも主人の状態を最優先する、介護本来の介護用アンドロイドとしてあるべき姿だった。
工藤は、未だに震えが止まらない早川を立ち上がらせ、彼の肩を掴んで玄関へと足早に押し出した。
「命を取られる可能性もあったんだ、報告書くらいで済んでありがたいと思うんだな」
彼の言葉は現実だった。早川は、自分の命が紙一重で救われたことに、今になって全身の血の気が引くのを感じた。
二人がタクシーに乗り込む直前、早川は振り向いて、リビングの様子を最後に遠目に確認した。
マスターは、先ほどまでの絶叫と痙攣が嘘のように、すでに落ち着きを取り戻している。
リナはマスターを車椅子に戻し、安定姿勢を取らせていた。リナの優しさに満ちた手が、マスターの額を規則的に撫でている。
マスターの顔は再び無表情となり、瞳にはまたも何の感情も映っていなかった。彼の精神は、リナの完璧な介護によって、恐怖の記憶ごと再び深くロックされたのだ。
彼が見た最後のマスターの姿は、再び心を捨て去り、リナの慈愛という名の支配をただ静かに受け入れる姿だった。もちろんそこには過去の天才、「セイエイ」としての面影も、現在の当然あるべきはずの人間の尊厳もなかった。ただ、「恐怖から解放された、安定した生体」としての存在があるだけだった。
タクシーが静かに発進し、『箱庭』の風景が遠ざかっていく。早川の胸には、自らも知る伝説の天才を追い詰めたという罪悪感と、現在の彼を取り巻く究極の安寧の不気味さをこの目で見てしまったという戦慄だけが残った。
工藤は窓の外を見ながら、静かに言った。
「分かっただろう。あの『箱庭』は、我々の倫理が踏み込んでいい場所じゃない。あれが、マスターにとっての安息の場所なんだ。」
Part.4です。
既に完結したデータがあるので、最後まで定期的にアップロードしていきます
Part.20程度で完結予定となりますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




