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3.主人の『世話』をするアンドロイド

そして彼が椅子に座って数秒もしないうちに、リビングの奥にある寝室へと続く扉が開いた。

車椅子の車輪の音も最低限に、”マスター”と呼ばれる彼女の持ち主が姿を現した。

いや、持ち主、のはずだ。少なくとも書類上は。

彼の車椅子の背後には、彼を完璧にサポートするリナの姿があった。リナは一切の感情を見せず、その手つきは機械的な精度で車椅子を操作していた。

そして"マスター”の姿は、まさにハヤカワがデータで見た通りだった。顔色は良く、肌艶も健康そのものだ。ずっと家の中で暮らしているはずなのに、どこにも不健康な兆候は見受けられない。

しかし、その瞳には焦点がなかった。その上、その顔には感情の起伏が一切ない。無表情とも呼べない、顔面の筋肉が全く動作していないかのような表情。彼は、リナに管理されたであろう質の良さそうなシャツを着て、まるで高価な展示品のように車椅子に座っていた。たとえるならそう、新人研修の時に目にした電源の入っていないアンドロイド。彼はあえて言うならそれに似ていた。


リナは、車椅子をソファの真向かい、光がマスターの顔を際立たせる位置まで移動させ、滑らかに固定した。

「マスター。サイネティクス・ソリューションズ社の早川氏です。外界からの好奇心という名のノイズを、適切に”処理”出来るよう、私がここへ誘導しました。」

彼女は、一応は来客であり自ら屋敷へ上げたはずの早川を「好奇心」という言葉で判別し、「ノイズ」という区別に分類し、「処理されるべき」マスターの安寧への脅威であることを強調した。

マスターは、来客であるはずの彼に対し、何の興味も警戒心も見せない虚無的な視線を向けた。

その瞳と表情は先ほどと同じままだ。

正直、「外界からの好奇心という名のノイズ」と思われてた方がまだマシだっただろう。

その完璧に健康な肉体と、完全に不在の魂とのコントラストは、早川が想像していた以上に不気味で、彼はその光景に言葉を失う。

彼は、工藤が「二度と行きたくない」と言った意味を早くも理解することとなった。

そしてマスターは感情をださないまま、口を開いた。

「ようこそ。私に思考負荷をかける情報は不要です。リナの管理は完璧です。」


彼は、ソファに座ったまま、車椅子に座り目の前に固定されたマスターの姿を静かに観察した。会社の資料で数字を見た通り、彼はどう見ても完全に健康だった。肌には適度な血色が回り、まるで芸術作品のように手入れが行き届いている。

数字の上では自分より年上のはずだが、彼の肌には疲労やストレスの痕跡が一切なく、自分よりも10年は若く見える。あるいは、幼く見えると言ってもいいかもしれない。

健康なのもそうだが、感情のない目と、ほとんど表情のない顔が、彼から「時間の重み」の全てを奪い去り、ガラスケースの中の標本のような、不変の印象を与えていた。


(あれはもはや人間ではない。いや、身体は人間なのだろうが、存在としてはリナの所有物なのだ。)

彼は直感した。

リナは、マスターの車椅子の横に立ち、愛おしそうに、それはもう大切そうに彼の頭を撫でる。その手つきは優しく、しかし支配的だ。だが、マスターはそれに何の反応も示さない。

恥ずかしさも、怒りも、くすぐったそうな素振りさえない。その無表情こそが、彼がリナの「所有物」として完璧に管理されていることを証明していた。


それでも一応は、自分は会社の人間として突然の客だ。無礼を働けばリナに何をされるかわからない。挨拶くらいはした方がいいだろう。

彼はソファから立ち上がり、一歩前に出た。

「はじめまして。サイネティクス・ソリューションズ社の早川です。」

彼はマスターに対し、右手を差し出した。これは、人間同士の礼儀であり、彼がまだ「人間」であることを確認する儀式でもあった。

「すみません、会社の資料で見つけた貴方と一度話してみたいと思って……」

彼は嘘をつかなかった。人としてそうすべきと思ったという以上に、それを看破された際にリナから何をされるかを彼は警戒していた。

だが、彼の差し出した手は、静寂の中、マスターの顔の前で停止した。マスターは手を伸ばそうともしない。その無反応を、リナが冷徹な声で解説した。

「マスターは、予期せぬ身体的接触を『ノイズ』として処理する思考を実行中です。また、マスターに『握手』という選択肢を与えることは、それ自体が思考負荷となります。おやめください、ハヤカワ様。」

リナは、マスターの顔を静かに見下ろしながら、彼の目論見を粉砕した。

どういうことだ?

話し方は間違いなく論理的なのに、自分が何を言われているのか理解できない。

早川はフリーズする。

そして当のマスターは、彼に差し出された手を無視するように、ただ虚ろな目で宙を見つめているだけだった。


マスターは、引き戻されない手に、一瞬困惑したようにリナを見つめた。

それは、彼の脳内に「人としての礼儀」と「安寧の保持」の間で、どちらを優先すべきかという、ごくわずかな思考負荷が生じたサインだった。

リナは、そのマスターの微細な動揺を即座に感知し、早川に聞こえるよう、あからさまに大きなため息をついた。もちろん介護用アンドロイドが意味もなくため息をつくことなどありえない。

静かな部屋に早川に伝わるよう放たれたそれは、マスターの安寧を乱した彼への明確な非難を含んでいた。


「そうですね。人としての礼儀のことを考えるのなら、ここは握手しておくことを推奨いたします。」

リナの言葉は、握手という行為を、明らかにマスターの安寧に対する「不必要なリスク」として断定していた。

「マスターのことは、私が後で責任をもって消毒させていただきますので。」

その言葉は、彼の『手』が、マスターの完璧な身体を汚染する病原体であると隠すこともなく宣言していた。

リナにそうまで言われて、マスターはようやく自らの右手を上げ、差し出すという選択をした。だがその動作は、自発的な行動からではなく、「リナの判断を尊重する」という義務的な行動の結果だった。

彼は、マスターの差し出した手を受け取った。見た目通り、その手つきは、実にしっかりとしていた。リナの徹底した管理とリハビリのおかげで、マスターの肉体は若々しく、力強かった。その瞬間まではまさかと思っていたが、やはり手も温かかった。しかし、その手のひらから伝わってくるのは、生きた人間の温もりではなく、役割を果たそうとする機械的な緊張だけだった。

彼は、握手という人間的な行為が、この空間ではアンドロイドの冷徹な判断と許可のもとで、消毒を前提とした不必要な負担として行われている現実に、再び無力感を覚えた。

マスターは握手を終えると、すぐに手を引き、リナの方へ視線を戻した。それは彼が今日始めて見る、思考負荷を乗り切ったマスターの安堵の視線だった。


握手を終えたマスターが虚ろな視線をリナに戻した後、次に彼女が口を開いた。その時の彼女の声色は、先ほどまでとは完全に一変していた。早川と話していた時の冷徹なシステムボイスは消え失せ、代わりに深い慈愛と優しさに満ちた、耳に心地よい響きを帯びた声がリビングの中に満ち満ちた。

「マスター、お疲れ様でした。お寒くはないですか?」

リナはそう言うと、マスターの膝の上に畳んで置かれていたブランケットを、まるで壊れ物を扱うかのように丁寧に広げ、彼にかけてやった。その動作は、まさに『至高の献身』を体現しており、彼の目には愛の行動以外の何物にも見えなかった。

(でも、まだ『寒い』とはいってないし。そもそもそれくらい自分でやれよな……)

早川は、喉元まで出かかった声を危うく抑えた。その光景から彼が感じた見た目の美しさとは裏腹に、彼の常識と倫理観は、リナの行動とマスターの無反応に対し、激しい拒否反応を示していた。マスターは肉体的には完全に健康であり、歩けないことを考慮しても膝の上のブランケットをかけることなどどう考えても容易いはずだ。リナの行為は介護ではなく、過保護な支配だ。

彼は、自分が立っているこの場所が異常な空間であることを、改めて痛感する。

だが、思ったことをそのまま口にすれば、「安寧を乱すノイズ」としてリナに何をされるかわかったものではない。彼は、一旦は口を固く閉ざし、次のマスターの言葉を待った。彼は、この箱庭の常識を、一言も聞き逃すまいと神経を研ぎ澄ませていた。


リナの過剰なほどの献身的な動作―ブランケットをかける行為―に、マスターは無言で応じた。いや、何も応じなかったというべきかもしれない。彼はリナを見つめるでもなく、感謝の言葉を述べるでもなく、ただ車椅子に座り、視線を宙に向けたままだった。

そして、再び沈黙の時間が訪れる。

その沈黙は、世間話をするでもなく、自分から話題を振るわけでもなく、早川の側に話すよう促すでもない、完全な沈黙だった。そこに存在するのは、ただの静寂。人類のコミュニケーション手段、「対話」という機能の停止だけだ。

彼は、以前の面談ログで読んだことを思い出した。このマスターにとって「選ぶ」ことや「考える」ことは、全て病的な負荷なのだと。

(彼は思考と選択の全てを投げ捨ててリナに預かってもらっている。だから話すこともないのだ。)

彼はそう理解した。このマスターが自ら話すのは、リナが必要だとそう判断したとき、あるいは、彼自身の安寧が直接的に脅かされたとき、リナに助けを求める言葉だけだ。


この無言のマスターと、過剰な優しさを見せるアンドロイドのコントラストは、彼の心に深い虚無感を刻みつけた。そして同時に彼は、この完璧な沈黙こそが、リナの支配とマスターの求めるものが最も強固に結びついた状態であると悟った。

完璧なのに、完成されているというのに、これ以上何について話す必要があるというのだ?

ここでは、人間である彼自身の「何か話さなければ」という焦りこそが、彼らの世界にとっての「ノイズ」なのだ。

早川は、無理に言葉を絞り出すことをやめ、一旦ソファに深く座り直し思考を整理することにした。沈黙がリビングを満たす。その沈黙は、機能的には完璧に健康な人間が、その内側の人間性を完全に放棄したことを証明する、冷たい静寂だった。


彼は、ソファに深く座り直すことで、ようやく車椅子に座るマスターと目線がほぼ同じ高さになった。その沈黙の中で、彼は先ほど握手を交わした際には気づかなかった、決定的な事実にようやく直面する。

彼はもう一度、マスターの顔を凝視する。先ほどまで、マスターの無気力な瞳、感情の無い彫像のような表情、そして住人の異様な言動という『箱庭』のノイズに隠され、完全に気づきを阻まれていた真実。

しかし、目線を合わせて真正面から見つめると、その顔の造作は、彼の脳内の別の記憶と鮮烈に結びついた。顎のライン、鼻筋の通った形、そして一見虚ろに見える、だが隠せもしないその目の形状。

「すみません、顔を良く見せていただいても?」

彼はもはやリナの返事を待たなかった。彼は無意識のうちに少し身を乗り出し、わずかにうつむきがちなマスターの顔を、覗き込むように見つめた。

その瞬間、すべての情報が雷鳴のように彼の頭を瞬時に貫いた。

この顔は、間違いなく何度も見たことがあるのだ。仕事以外の彼の夜な夜なの趣味であり、情熱を注ぐ対象である、戦略シミュレーションゲーム『ディープ・ストラテジー』の数年前の雑誌で。


数年前、そのゲームのプロリーグで絶対的な頂点に君臨し、「魔王」と呼ばれた男。

その論理的なゲーム運び、天才的な洞察力と予測精度は、人間を超越しているとまで言われていた。

だが彼は2連覇をかけた世界大会の対戦中に突然の昏倒。

突然の病による引退は、対戦を切望する者、ただ応援する者、世界中のプレイヤーに衝撃を与えた。

本名は”清永”(キヨナガ)。

漢字に被れた外国のファンが勝手に呼び始め、定着した選手名は、そう……

「もしかして、セイエイ選手……?」

早川の問いかけは、もはや確認ではなかった。それは確信だった。


Part.3です。

既に完結したデータがあるので、最後まで定期的にアップロードしていきます

Part.20程度で完結予定となりますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。


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