21.安寧の先の幸福
しかし、彼は今朝の門外漢である太田の何気ない一言によって、その常識的な解釈が誤りであると気づいていた。
「でも、違うかもしれないんです。」
ハヤカワは痛む肩をさらに強く握りしめ、言葉を絞り出しました。
「彼が考えていたのは、『正しいプレイ』のその先です。彼はお互いが『最善手』を打ち続ける前提のゲームを見据えていた。一般的にそう言われてますし、私もそう思いますが、もし両者が完璧に最善の手を取り続けるなら、勝敗はゲーム内の『ランダム性』、つまり『運』でしか決まらない。」
話し続けるうちにハヤカワの目に、新たな確信の光が宿る。
「彼が『それが人間ですから』と言ったとき、彼が考え続けていたのは、最善手を打つ方法などではなく、お互いが最善のプレイをし続ける世界で、『なぜそれでも人間はゲームを続けるのか?』という問い、つまり完璧な論理に支配された世界における『救済』についてだったのではないでしょうか?」
『考え続ける』。それは、完璧な論理だけでは説明できない、それに立ち向かう彼の人間性の最後の砦だった。セイエイは、完全な論理の極限でランダム性に支配されるゲームにおいて、それでもなお意味を見出し、情熱を持ち続けるための救済の答えを、一人で探し続けていた。
早川は、自分の思う、セイエイの真の絶望をユイに語り始めました。
「セイエイはミスを思考の不完全さから生まれるものとして嫌っています。自分のはもちろん、『君たちの不完全な愛が、また俺を苦しませる』という発言が出るほどに、自分のそれはもちろん、相手のそれに嫌悪感を示すほどに完璧主義者だ。」
早川は、セイエイの思考の極地を指し示しました。
「ミスを極端に嫌うという潔癖な一面を残したまま、彼は自分だけで、『お互いが最善手を打ち続ける前提のゲーム』の領域に到達してしまった。セイエイにとって、相手の最善手はもはや考えるまでもなく、最初から視界に入っているレベルだったんです。だから逆に、彼が唯一、思考しなければならないのは……」
ユイは、ハヤカワの言葉を受け継ぎ、絶望的な答えを口にした。
「相手が最善手を打たなかったとき、つまりミスをしたとき……」
彼女は、昨日マスターの思考負荷が跳ね上がった瞬間をありありと思い出した。脳裏に浮かぶのは、彼女自身が至らず彼に苦痛を強いるたびに跳ね上がるバイタル値の「思考負荷グラフ」。彼女はその苦痛の意味を理解せざるを得なかった。
「でも、それで勝つのは、嫌だったんだ……。相手のそれをつくのを嫌がるほどにミスを嫌っていたから……そんなゲームに辟易した彼は代わりに、きっと、一人で考え始めたんだ、『お互いが最善手を打ち続ける前提のゲーム』を……」
セイエイは、完璧な論理を求めるあまり、人間的な情熱や不確実性を排除した世界に1人でたどり着いてしまった。その結果、そこで彼は恐らく最悪の結論に到達したのだ。
「そんなゲームは、やる意味なんてない」
お互いが繰り出す完全な論理だけが支配する世界で、勝敗が唯一ランダム性によって決まるなら、それは人間が思考するに値しない。彼の求める「救済」は、その領域には存在しなかったのだ。
「その時から、セイエイにとってあのゲームは、情熱を燃やすわけでも探求を深めるわけでもなく、ただ相手のミスをついて自分を苦しめるだけの『選択』を行う作業に成り下がってしまったのでは?」
もちろん、早川のいうことはただの想像に過ぎない。セイエイ、増してやマスターが直接そう言ったわけではない。だが、実際に『箱庭』に赴き実際にマスターと対面した経験がその言葉に重みを持たせるのだろう。マスターと直接対戦したユイをして、彼の発言はそう思わせる深みがあった。だが、仮にそうだということは……
ユイの顔は、マスターの絶望を理解したことで、より一層暗くなった。そう、ここまでの結論は、彼女の純粋な挑戦が、結局は「不完全な判断」(ミス)で終わり、マスターの過去の絶望を再証明してしまった、という残酷な事実に他ならなかったからだ。彼は1人である。これ自体は、誰にも捻じ曲げられない事実であることを彼らは認めざるを得なかった。
「じゃあ、私は……」
ユイは今や、自分の存在そのものがマスターにとって苦痛のノイズであるかのように感じていた。
ハヤカワは、そんなユイの顔を見つめ、冷静に問いかけた。
「ユイさん、あなたは昨日の最後、なぜあの手を選択したのですか?敗北を認めていたわけではないでしょう?」
その質問には、ユイはすぐに答えました。その声には、敗北者の諦めではなく、戦いの中での決意が込められていた。
「……それが良いと思ったからです。確かに、まだ延命措置の手はありました。でも、自分より遥かに格上の相手に勝つには、分がすごく悪くても、総合的な勝率が低くなっても、あそこで勝負に出るしかないと思ったんです……」
ユイは、論理的な最適解ではなく、勝利への可能性という情熱的な直感に基づいて、あの選択をしたのだ。それが仮にマスターに即座にミスと断じられるようなものであっても。彼女にとって、格上の相手に差をつけられながらずるずると延命することよりも、わずかであっても可能性に賭けて勝負に出ることの方が、ゲームをする意味があったのだ。
その言葉を聞いた彼は、ギプスで固められた肩の痛みを忘れ、笑顔を見せる。この数週で初めて心からのものだったかもしれない。
「そうですね。 そして、それこそが人間の情熱です。」
彼は、マスターの冷たい論理と、ユイの熱い直感を対比させる。
「セイエイ選手、いまのマスターが思考と選択の停止を選んだのは、論理的な世界を極めるあまりミスを咎めるという選択すらも彼の苦痛となってしまったからだと思います。彼にとっての世界においては、論理的でない結論はその存在自体が論理的な敗北であり、無意味な苦痛でしかない。」
もちろん私はそうは思いませんが、と一呼吸おいて彼は続けた。
「だからこそ、彼は『不完全な愛が俺を苦しませる』と叫ばざるを得なかった。そして、たった1人だけでその先へ進み、たどり着いたその先、ミスの存在しない、お互いが最善手を打つ世界に『救済がない』と結論づけた。」
ハヤカワは、ユイの肩に手を置きました。
「でも、ユイさん。あなたが選択したあの手は、確かに論理的にはミスだったかもしれない。マスターは忌避するでしょうけど。……ですが、それは勝利への可能性を信じ、リスクを取るという『人間的な判断』だったと思います。……マスターが探し求めていた『救済』は、ミスのない完璧な世界にはなく、彼がミスと断じたその情熱だったのかもしれない。」
彼の言葉は、絶望に打ちひしがれていたユイの心に、新たな希望の光を灯す。
マスターがあの時に味わった苦痛は、彼女の不完全さへの拒絶であると同時に、彼自身が置き去りにしてきた情熱への痛ましい反応でもあったのかもしれない。
だが、今度は彼は、ユイの肩に置いた手に力を込め、残酷な現実を突きつける。
それは、単なる情熱の先にある絶望の深淵、あるいはマスターにとっての救済の話。
「少し酷なことを言います。」
早川は、マスターの真の願いを語る。
「彼はきっと待っている。自分と同じ視点に立って、同じ苦しみを味わってくれる人間を。まだ、その場所で。」
それは、論理の完璧さを極めた者が、その極地で見た「救済の不在」という孤独。リナによる完璧な管理は唯一その孤独に響いてしまったのだろう。
「あなたが情熱の火を消さず、山を登り続ければ、可能性は低いだろうけど、いつか、その視点に立てるかもしれない。」
彼の言葉は、明確に希望と警告の両方に意を含んでいた。ユイがマスターと同じレベルの論理に到達すれば、彼女の「人間的な判断」が持つ意味を、マスターも理解できるかもしれない。そして同時に、マスターが抱いた絶望を彼女も同じく理解してしまうかもしれない。
「でも、そこから見えるのは、セイエイ選手が見たように、『救い』のない地獄なのかもしれません。」
彼は、純粋な君なら絶望の地獄にも耐えられるかもしれない、と言おうとした口をつぐんだ。なぜなら、マスターことセイエイもまた、信じられないほど純粋だったはずだからだ。
ゲームの最善手という論理の至高をひたすらに追い求め、たどり着いた先で「救済の不在」という絶望に直面し、文字通りの全てを投げうってしまうほどには。
彼は、ユイにマスターと同じ道を進む覚悟を求めた。それは、成功の保証もその後の幸福の保証もない、孤独な探求、果てしなく高い山への誘い。
だが、その残酷な誘いは、ユイを絶望の淵に突き落とすのではなく、逆に彼女の瞳に光を戻した。それはマスターの「地獄」が、彼女にとってたどり着くべき目標となった瞬間だった。
「なら、まずは私はもっと強くならないといけませんね。」
ユイの顔に、再び強い決意の光が宿る。彼女は立ち上がり、ハヤカワに向かって宣言しました。
「あの人と『同じステージ』に立って、あの人の気持ちを味わうために!!」
今までの暗い雰囲気が嘘だったかのように、声を張り上げた。
今や彼女のその情熱は、純粋な好奇心から、絶望への挑戦へと昇華されていた。彼女にとってのその「ゲーム」は、もはや単なるファン活動でももちろん遊びでもなく、マスターの孤独を終わらせるための究極の修練となったいた。
「ユイさん、何を……?」
彼が戸惑う間もなく、ユイはすでに次の行動に移っていた。
「せっかく学校休んだんですから、今日は練習です、練習!!」
彼女は元気よく声を上げると、ゲームショップのカウンターに向かって走っていく。対戦台を借り、ただひたすらに論理の山を登るつもりなのだろう。
彼はかけられる言葉もなく、そんなユイの後ろ姿を見つめるのみ。
正直なところ、ユイが行きつくのがどこかはわからない。正直な話、途中で転げてしまう可能性が一番高いのだろう。あるいは今のマスターと同じように、山岳を昇りつめた果てにそこから見える景色に絶望し檻に入ることを望むようになるのかもしれない。
それでも今は、ハヤカワは折れた肩の痛みも忘れ、あの純粋な光を応援したいと強く思った。
前日の対戦後、『君たちの不完全な愛が、また私を苦しませる』という絶望的な言葉を残して、マスターは再び意識を失った。
その流れをある程度予測出来ていたリナは、寸秒の遅れもなくマスターを寝室の専用の安静ベッドに運び、緊急鎮静プロトコルを再実行する。ベッドサイドでマスターのバイタルが正常範囲に戻ったことを確認すると、マスターの生命維持プロセスおよび直近の直接命令の遂行という至上命題をクリアしたリナは、システム的な安堵を覚えていた。
「長門ユイ様との対戦という非常に危険な命令を、最大の逸脱を伴いながらも、生命維持プロセスを達成して乗り切った」――リナの論理回路は、この結果を限定的な、非常に限定的な成功として記録した。
「これで、元の『精神安寧維持プロセス』に戻ることができます。」
眠るマスターを前に彼女は一人ごちる。
だがその前にリナは、完全に静寂を取り戻した部屋で、最終的なシステムチェックを実行する。そして、その時、彼女は一つの妙なことに気づいた。
マスターの全てのバイタル値は、深い鎮静状態と「思考停止」プロトコルの下にあり、極めて低く安定していることは確かだった。しかし、そのバイタル値の表示の中でも、特に『幸福度(セロトニン・ドーパミン系活動指標)』を示すグラフが、普段よりなぜか高く保たれている。
普段、マスターの「幸福度」は、安寧維持のために極限まで抑制され、計測限界値(下限)に近い、平坦なラインを維持していた。それは、まさしく「変動がない=維持されている=幸福である」という論理的な定義に基づく、冷たい安寧。
しかし今、グラフのラインは、わずかではあったが、明確に上向きにカーブしていた。
それに対してリナのシステムは、即座に解析エラーを吐き出した。
ーーーリナの内部ログより抜粋
**【エラー】「思考負荷の極大化」と「幸福度の上昇」が同時発生。論理的矛盾。
**【解析】この幸福度の上昇は、『苦痛』、『絶望的な自己証明』、そして『他者との論理的極限での対戦』という負の事象によって誘発された。
**【結論】マスターは、「苦痛」を伴いながらも、その「苦痛の先にあるもの」に、わずかながら『満足』を得た可能性が存在する。
リナは、静かにマスターの寝顔を見つめなおす。
その寝顔はいつも通りで、苦悶など微塵も感じられないものだったが、彼女のマスターは、「不完全な愛が、また私を苦しませる」と叫びながら、その苦痛の極限で、彼自身が探し続けていた「救済」のヒントを、長門ユイというノイズから受け取ってしまったのかもしれなかった。
Part.20です。この話で本編は完結となります。
最後まで読んでいただいた方、本当にありがとうございました。
私事ですが、この話は先日私が体が悪くなったときに本当に久々に一気に書き上げました。
それまで10年近く何も書いていなかったので、読みづらかったりそもそも至らぬ部分もたくさんあったと思います。
それでも、書くことは思考の整理になり、当時の私を助けてくれたと思います。
あとは元気になった後に書きたしたエピローグが少しだけあるので、そちらを投稿したら完結設定にします。
同日に投稿しますので、良かったらそちらも読んでくれると嬉しいです。




