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20.同じステージで

ベッドに寝かせたマスターの姿を見ながら、リナはマスターの今日の様子を反復する。

対戦中盤、変わらずマスターは無言のまま、ユイの攻め手を冷徹に、完璧に打ち砕き続けた。彼の表情は依然として無感情でしたが、彼のプレイからは一切の迷いが感じられなかった。その一手に込められているのは、「勝利」を目指すという情熱に満ちた感情ではなく、「この状況下での最適解」という純粋な論理だった。

しかし、早川が気づいたように、ユイがミスを犯し、盤面がマスターに有利に傾く瞬間、彼の『思考負荷』は微かに上昇していた。それは、優位性の確立による「喜び」や「達成感感」の感情ではなく、ユイの「不完全な判断」に対する「拒絶」、あるいは「過去の絶望への回帰」を思わせる苦痛の兆候だったのは、バイタル値を監視していたリナには明らかなことだった。リナによる彼の生命維持プロセスは、この微細な異常を「許容範囲」として処理したが、その背後には深刻な内部分裂が進行しているのは明らかだった。

マスターは、ゲームの論理と身体の拒否反応という矛盾に挟まれながら、冷たい才能で勝利への道を突き進んだ。


そして最終盤、ユイの独創的だが致命的なミスが盤面に刻まれた瞬間、マスターの安寧の壁は完全に決壊した。

彼の『思考負荷』はリナの介入ラインを突破する寸前まで跳ね上がり、車椅子に座る彼の体は痙攣しそうになった。彼が数十秒間操作を停止したのは、次の手を考えていたからでは決してなかった。そんなこと自体は彼にとっては児戯にも等しい行為。それは、上昇するバイタル値と全身の苦痛に純粋に耐えていた時間だった。

マスターは、自らの肉体的苦痛と引き換えに、勝利を確定させる一撃を放つ。

それは、「情熱」に対する「論理」の、非情なまでの最終回答。

そしてその一撃が勝利を確定させた瞬間、苦痛による負荷は臨界点を突破した。マスターのあらゆるバイタル値は制御不能な限界を超え、彼の口から「君たちの不完全な愛が、また俺を苦しませる」という苦悶の叫びが絞り出された。

リナのシステムが強制切断を実行した時、マスターは安寧という名の支配を、自らの生命の危機と引き換えに再認識させられることとなっていた。




『君たちの不完全な愛が、また俺を苦しませる』

ハヤカワは、リナからの冷たい伝言を、呆然としたユイと共に反復していた。

そしてその言葉が、彼の折れた肩の痛みを突き破り、強い既視感を呼び起こしました。このフレーズを、彼はどこかで見たはずだ。さっき感じたのは、単なるデジャヴではないはずだ。

彼は、記憶の断片を懸命に繋ぎ合わせる。

……そうだ。それは、あの違法な実験が行われた当時のこと。彼が、太田のIDを使用して一連の機密文書を読んだ時、特に目を通した実験報告書の中に。

そして、脳裏に蘇ったのは、最後の記事、最後の言葉だった。

それは、セイエイが極度の思考負荷に耐えかねて「思考停止」を決断し、リナに全てを委ねる直前に、実験チーム、すなわち自分たちに対して残した、周囲に対する絶望的な断罪の言葉。



『君たちの不完全な愛が、また俺を苦しませる』

ユイは、リナからの冷たい伝言を何度も繰り返し呟き、そして彼と同じ戦慄すべき結論へと辿りついたようだった。

「もしかしてあの人、私がミスをするたびに苦しんでた……?」

彼女の顔は、最早敗北の悔しさとは別の、師と仰ぐ人物を苦しめてしまったという自責の念で歪んでいた。あの異常な思考負荷の上昇は、間違いなく、彼女の不完全な判断に対する、マスターの身体そのものの拒絶反応だったと思って間違いなかった。

ユイは、力なく呟きました。それは、実際に対戦した者だからこそ吐ける、万感の感想。

「私、まったく『同じステージ』になんて立っていなかったんだ……」

彼女の情熱と努力は、マスターの求める「ステージ」には、遠く及ばなかった。

そして、その不完全さこそが、彼にとって最大の苦痛となったことを認めざるを得なかった。

早川は、ユイの言葉を聞きながら、以前に読んだファンについてのインタビュー記事の彼の言葉を思い出していました。

あの時、彼はファンに優しく接する理由を問われ、こう答えていた。


> 『それに、同じ『ステージ』を目指す人は1人でも多い方がいいですからね。』


早川は悟った。あの言葉は、ただのリップサービスなどではなかった。本心からの、切実な願いだったと。

そして、マスターの言う「同じステージ」に立つというのは、単なる物理的な会場の話ではなく、「ゲームの論理を完璧に理解し、ミスや感情的なノイズなく最善手を打ち続ける」という、ゲームの強さ、思考の完璧さの話と思って間違いなかった。

マスターは、自分の論理に追いつき、自分を苦しめないでいてくれる、真の対戦相手となる者を求めていた。



翌日、早川は憔悴しきった様子で出社した。折れた肩の痛みよりも、マスターの最後に残した『不完全な判断が俺を苦しませる』という絶望的な言葉の重さが彼を苛んでいた。

早川は、話しかけてきた太田に昨日の出来事と、マスターの「同じステージ」の意味を語ることにした。たとえ倫理観のない先輩であっても、誰かに聞いてもらわなければ、この気持ちを整理できそうにない。

早川の様子を見て流石にこの場でいきなり茶化すのはまずいと思ったのか、太田は珍しく神妙に彼の話を聞いていた。だが、話を全て聞いた太田がこともなげに言った感想は彼自身が現在求めているもの、それは暗に慰めや同情心と呼ばれるものだが……とは違っていた。

「でもお互いがミスを絶対にしないなら、そんなゲームやる意味ないよな。だってそれなら。ランダム性だけが勝負を決める運ゲーじゃないか。そんなもんやって何が面白いんだ?」

太田は、マスターが人生をかけたゲームの話を聞いても、それをただのゲームだとしか思っていないようだった。彼はヘラヘラと笑いながら、まるで当たり前のことのようにそう言います。

だがその何気ない、倫理を欠いた一言が、ハヤカワの頭を一気に覚醒させた。

(まさか!)

彼は何かに気づいたかのように勢いよく立ち上がる。

ハヤカワが抱いていた疑問は、まさにそこだった。もしマスターが完璧な論理だけを求め、自らのだけでなく対戦相手のミスまでをも嫌うなら、逆に言えばその先に残されるゲームはランダム性のみによって勝敗が決まるゲーム。彼にとっては思考負荷だけを要求する、最も無意味な遊びのはず。

マスターが本当に求めていたものは、ミスをしない論理ではなかったのかもしれない。

彼の考え、いやこれは最早妄想ともいえるものだが、「同じステージ」とは、「完璧な論理の極限」のことではないようだった。彼は、その真の答えが『箱庭』の外、セイエイの過去の行動の中にあることを確信した。

「すみません!今日は外回りの営業に行ってきます!!」

「うちの部署にはそんな仕事ないけどなー」と呆れる太田を無視して早川は、痛む肩も忘れ、勢いよくオフィスを出ていく。彼の目には、もう好奇心や自責の念の光はなく、真実を掴むという、新たな探求の炎が燃え盛っていた。


彼はオフィスを飛び出し、そのままユイをいつものゲームショップに呼び出していた。一般的な女学生を突然平日の午後に呼び出すのは無茶な行為だと自覚していたが、急ぐ必要があったのだ。

「突然すみません、平日の午後にいきなり……」

「大丈夫です。今日は学校休んだので……」

ユイは昨日のマスターの『君たちの不完全な愛が、また俺を苦しませる』という宣告から、まだ立ち直っていないようだった。彼女は憧れの、言うならば恋慕の情すら抱く人を、三度も傷つけてしまったと強く思い込んでいた。彼女の顔色は青ざめ、視線は定まっていなかった。

「ほんとうにすみません、でもこれを見て欲しくて……」

彼は、ショップの奥の棚から雑誌のバックナンバーを取り出し、一ページを開きました。そこに載っていたのは、在りし日のセイエイ、すなわちマスターの現役時代のインタビューです。

記事の真ん中には、インタビュアーが投げかけた、彼の哲学に迫る問いと、それに対する冷徹な回答がありました。


> 「セイエイ選手のプレイは、常人には理解不能な極限の思考に基づいています。なぜそこまで『考え続ける』ことができるのでしょうか?」

> 「それが人間ですから」


記事の中で彼はこともなげに、そう答えていました。

彼は、その言葉を指で示し、ユイに問いかけました。


「ユイさん、彼は何を考え続けていると思いますか?」

彼の頭の中には、オオタの「運ゲー」という一言から導き出された、新しい仮説があった。その仮説の答えは、「思考停止」したはずのマスターの、真の願いに繋がっているはずだ。

ユイは、ハヤカワの問いに対し、当然とも思える答えを口にする。

「え、それはやっぱり、『正しいプレイ』を……」

彼は頷いた。

「そうですよね、私もそう思って読んでいました。というか読んだ『全員』そう感じると思います。特に過去のセイエイ選手を知る人なら特に。」

Part.20です。今回で完結までアップロードします。


最後まで読んでいただけると幸いです。

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