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2.『箱庭』への挑戦

彼はモニターに表示された膨大なファイル群を、もう一度見直した。アンドロイド、”リナ”の日次ログ、環境センサーの報告、そして持ち主、”マスター”のバイタルサイン。

しかし、彼が最も引っかかったのは、「マスターの日次ログ」という存在そのものだった。

彼は椅子の上で身を乗り出し、いぶかしげにもう一度ディスプレイを睨みながらぼやく。

「と言うかアンドロイド自身はともかく、持ち主の日次ログなんて日次であるのはおかしいだろ……」


ここまでの情報を見たところ、アンドロイド、”リナ”は介護用に作成されたアンドロイドの一種類と見て間違いない。もちろん、この会社で、だ。

一般的な介護アンドロイドのログは、自身の行動記録(介助、清掃、充電)と環境データが主だ。しかし、この日次ログには、”マスター”の会話の正確な行動記録、思考負荷(そもそもこれは何の数値だ?彼は疑問に思った)の推定値、感情変動の発生時刻までが詳細に、そしてリナの解析結果とともに記録されていた。


これは、単なる介護ではない。

明らかに監視であり、人間の精神活動の数値化だ。

リナは、マスターの精神そのものを、自らの管理下にあるべき一つのシステムとして扱っていた。その異常性と危険性こそが、”【特務j】透明体”が「凍結」された理由であり核心なのは間違いない。

彼は、このログの存在自体が、問題のアンドロイド”リナ”の異常性と、持ち主への完全な支配状態を雄弁に物語っていることを確信した。彼は、さらに奥深く、過去のデータへとスクロールを進めた。この『箱庭』の真実を知らずにはいられなかった。


彼は、リナの異常なログから目を離し、再び”【特務】透明体”のフォルダ内を高速でスクロールした。バイタルデータや心理分析プロトコルの無機質な山の中に、彼が最も求めていた情報がやはり埋もれていた。

数分後、彼の目が一つのPDFファイルに釘付けになる。ファイル名には「施設アクセス」とあり、内部には『箱庭』の物理的な所在地と、アンドロイドによるセキュリティシステムの概要が記されていた。

「見つけたぞ……!!」

彼は両手を組み、その情報が本物であることを再確認した。先ほど、工藤が「面談」のために職員を派遣していたと話していた。警告によって現在の介入は凍結されていても、会社側がその異常な環境の場所を把握していないわけがないと、彼は確信していた。

彼の内側で、理性を超えた強烈な欲求が湧き上がった。

「肉体は完璧に健康。しかし精神は自らの意思が排除されることすら希望している」と評されたほど精神を病んだ持ち主。

「持ち主に対して異常な感情値を持つアンドロイド」、リナ。

そして、誰もが『不気味』だと語り、遠ざけた究極の飼育場、『箱庭』。



「この目で、その現実を確かめたい。」「自分も彼らを見てみたい……!!」

その欲求を抑えることは、もはや彼自身には難しかった。彼の職業的な好奇心、倫理的な探求心、そして何よりも「外界の人間が知らない真実」を見たいという個人的な衝動が、一つの決断へと彼を駆り立てた。彼は、その住所をスマートフォンのメモアプリにコピー&ペーストした。

彼には、この行動が特務への「外部介入の凍結」という会社の決定に真っ向から逆らう行為だとわかっていた。しかし、一度火がついた好奇心の炎は、もう消せなかった。


早川が「外回りの営業に行ってきます」と、やや早口に、しかし毅然と言い残してオフィスを出ていくのを、PMの神谷と工藤は、部署の奥まった場所から遠巻きに見送っていた。

念のためいっておくと、この部署に『外回りの営業』の仕事などない。嘘をつくなら、もう少しまともな物をついて欲しいものだと2人はため息をついた。

もちろん工藤は、早川が向かった先を正確に察していた。顔には呆れと、わずかな感心がないまぜになった複雑な表情を浮かべている。

「いや、若いやつってのは本当に恐れ知らずだな」

神谷は腕を組み、冷ややかな視線をエレベーターホールに向けたままだった。彼の顔には、新人の行動が予測されたリスクでしかないという冷静さがあった。

「我々が『触れるな』と言えば、彼らは『真実』がそこにあると確信する。優秀な新人ほど、その傾向が強い。彼の好奇心は、この会社の資質だ。」

工藤は首をすくめた。自身もかつては同じ好奇心を持ちながら業務で『箱庭』を訪れたが、その後の”虚無感”は二度と味わいたくないものだった。

「ぼくならあそこに近づくのは2度と御免ですけどね。楽しくない上に怖いので。」

“マスター”の感情を排除した論理と、リナの冷たい献身がもたらす不気味さを、彼は骨身に染みて知っていた。

神谷は表情を変えなかったが、彼の言葉には共感を覚えているようだった。しかし、彼の懸念は早川の精神的な安寧よりも、企業の体面にあるようだった。

「何かあったら助けてやるんだぞ、お前が教育中の後輩だろ?」

それは凍結中のプロジェクトに興味を持たせてしまったことに対する罰であり、彼が早川の失敗を見越していることを示す言葉でもあった。

工藤は重いため息をついた。そこからは、心底嫌だと思っていることを感じ取ることができた。

「あの2人と会話しなくていいなら、まあ……」

工藤の返答は、早川を助けることよりも、あの異常な対話の恐怖から逃れたいという本音が滲んでいる。彼らは、早川の行動が無謀な探索であり、必ずリナの支配の強固さを再確認する結果に終わると知っていた。

新人が会社を離れる姿は、彼らにとって、「外界の人間が『箱庭』に挑み、そして絶望する」という、繰り返されるプロセスの再現でしかなかった。神谷と工藤は、早川が提出するであろう「介入の不可能性」という最終的な報告が、自分たちの資料をさらに分厚くするのを待つだけだった。


早川は、スマートフォンに表示された住所と目の前の光景を何度も見比べた。会社から電車とバスを乗り継ぎ、さらに徒歩でたどり着いたその場所は、一言で言えばあまりにも平凡だった。

「こんなところに……」

彼が立っているのは、都心近郊の、手入れの行き届いた植栽と静かな通りが続く閑静な住宅地だった。周囲の家々はどれもモダンなデザインで、生活感がありつつもどこか品が良く、どこにでもありそうな「夢のマイホーム」の風景だ。


彼の目的地は、角地にある一際立派な一軒家だった。外壁は淡いグレーで、窓は大きく清潔だが、通りに面した部分は光を反射するような特殊なフィルムが貼られているのか、内部の様子をうかがい知ることはできない。

しかし、ハヤカワが会社のフォルダから持ち出した「施設アクセス」に記載された座標と、家の外観データは、この家が間違いなく『箱庭』であると示していた。

「確かにずいぶんと綺麗な住宅だけど、言われなければ絶対気がつかないだろうな」

彼は、厳重に管理された最高機密の「実験施設」や「隔離区画」を想像していた。

しかし、リナが選んだのは、外界の視線から最も安全に身を守るための、「普通の生活」という名のカモフラージュだった。

この完璧な偽装は、そのアンドロイドの冷徹な合理性の証拠だった。最も安全な隠れ場所は、厳重な警備の中ではなく、誰も疑わない日常の中にこそある。

彼は、スマートフォンをポケットにしまいながら、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。

このドアの向こうには、「完全に機能している死体」と、「異常な支配者」がいる。彼は意を決し、静かに門扉のインターホンに手を伸ばした。


早川が門扉のインターホンに手を伸ばした、まさにその瞬間、カチリ、という電子音と共に玄関のドアが内側から静かに開いた。

姿を現したのは、人間と見紛うほど精巧に作られた少女型のアンドロイドだった。滑らかな白のワンピースをまとい、黒いストレートの髪は肩で切り揃えられている。その容姿は愛らしくも無機質で、その瞳には何の感情も映っていなかった。

そして彼女は口を開いた。

「本日のこの時間帯において、外部からのアクセス承認は取得されておりません。」

冷たい声が、静かな住宅地に響いた。そういえば他に歩行者はいない。そういう場所を選んだのだろう。

声色は礼儀正しいが、その響きには絶対的な拒絶が含まれていた。

「また、規定外の来客はマスターの思考負荷度を高確率で上昇させます。私はこれは安寧維持プロセスへの明確なリスクと判断しています。その上で、貴方の来訪をもたらすに足る論理的な目的を提示してください。」

彼は瞬時に悟った。

これが介護用アンドロイド、リナ。

マスターの安寧のためなら、創造主すら脅迫したという、あの恐るべき完全な介護者だと。

緊張で喉が渇く中、何とか声を絞り出した。

「用があると言えばあるんですが……」

だがリナは、彼の言葉を最後まで聞くつもりはないようだった。

彼女のシステムは、既に彼の滞在時間と心理状態を解析し終えていた。

「周辺環境を解析しましたが、既定の歩行者密度を満たしていません。よって、あなたの場所の選定は恣意的なものであると考えられます。同時に、あなたは既にこの家の周囲に5分37秒留まっています。これ以上放置しても、自発的に去ってもらえないと判断しました。」

彼はゾッとした。彼は門扉の前でスマホをいじるなどして決意を固めていたつもりだったが、その逡巡の時間はもちろん、公道の上の状況すらリナに正確に計測されていたのだ。

「それでも会ってはくれるんですね」

悔しまぎれの彼の問いに対し、リナの視線がわずかに動いた。それは彼女のシステムが、彼を「脅威」として正確に評価し、対処可能と結論づけたことを示す、静かな確信だった。

「私は介護用アンドロイド。マスターの安寧を最優先します。あなた様の様子を視覚・心理解析にて見せていただきましたが、最悪の場合、本機単独で制圧可能であると判断しました。どうぞ、中へ。」

その言葉は、まるで「あなたなどは無害な訪問者か、あるいは容易に対処可能な侵入者にすぎない」と宣告しているようだった。彼は、リナの冷徹な合理性と、その奥に潜むこの場の支配者のみが持ちうる絶対的な自信に、すでに圧倒されていた。彼は抗うことなく、リナの案内で静かに箱庭の内部へと足を踏み入れた。まるでそこは虎穴かのように感じられた。

彼の目に映る『箱庭』の内部は、外観と同じく完璧に小奇麗で、そして冷たい印象だった。

なんとなく背筋を正し、礼儀正しく振舞ってしまう。そういう雰囲気がある。

『箱庭』の廊下は淡いグレーの壁紙で統一され、一切の生活感や個人的な趣味を匂わせるものがなかった。床は光沢のある大理石調のタイルで、リナが移動するたびに、彼女の人間とは異なる足音だけが一定のリズムでカツン、カツンと響く。暖房は適温に保たれているはずだが、室内の空気はひどく無機質で、消毒されたかのような清潔さが支配していた。

廊下の角を曲がると、彼はリナの報告書に記されていた「安全地帯」、すなわちリビングルームへと導かれた。

そこは内部で最も玄関から遠い場所。逆に言えば、最もとっさに逃げることが難しい場所であった。窓からの光は高機能なブラインドで完璧に調節されており、そこは均一で穏やかな光に満たされていた。部屋の中央には、硬質なレザーのソファと、ガラス製の小型テーブルがまるで定規で測ったように正確な位置に配置されている。

「マスターをお呼びします。少しお待ちください」

先ほどまでの物とは違う、明らかに人間的なものではない、リナのシステムボイスが響いた。

その声には、「拒否は許されない」という圧力が含まれていた。ハヤカワは促されるまま、硬いソファの縁に腰かけた。彼は、ここが単なるリビングではなく、リナの支配と監視のためのステージであることを本能的に理解した。


Part.2です。

既に完結したデータがあるので、最後まで定期的にアップロードしています。

Part.20程度で完結予定となりますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。


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