19.魔王との決戦
早川とユイの座る会議室のPC画面には、冷たいバイタルグラフと、極度に単純化されたゲーム画面が表示されている。
「ユイさん、大丈夫?」
早川は、自分の肩の痛みをこらえながら、ユイに声をかける。この極度に簡略化された「ゲーム」は、マスターの命を守るための冷酷な制限であり、同時に対戦相手であるユイの情熱を削ぐためのものであることは明確だ。
しかし、ユイは画面を一瞥すると、逆に安堵と興奮の入り混じった表情を浮かべる。
「このゲーム、初心者がゲームのルールを覚えるために遊ぶ奴によく似てます。わたし、あれすごい好きで、今でもよく遊ぶんですよね。」
ユイの言葉に、早川も画面を再確認し納得する。盤面を狭く平坦にし、コマの種類を極端に減らし、思考の複雑性を排除したこのパズルゲームは、確かに初心者の基礎訓練用ゲームとよく似ていた。
「ああ、俺も覚えたての頃はよくやったなあ。」
とは言え彼は、まさかユイがそれを今でも好んで遊び続けているとは思わなかった。リナは、「思考負荷が最も低かった」というマスターの過去のデータのみを根拠に、このゲームを作成したのだ。リナの冷徹な論理回路は、ユイの個人的な習慣や情熱という非論理的な変数が、この安全装置をユイにとっての最高の舞台に変えてしまったことなど、知る由もない。これは、リナの完璧な計算に生じた、予測不能な最初の亀裂、と言っても彼女は勝敗など最初から特に重要視していないだろうが。ともかくとして、ユイは、安全のための制約を、優位性に変えてしまったことは間違いなかった。
そして彼は、彼女の言葉を聞き、リナの完璧な計算が生んだそもそもの脆弱性に気づいた。当然の話としてユイは、ひたむきに努力し、今もひたすらに強さの階段を登り続けているプレイヤーだった。彼女は、シンプルに見える基礎ゲームすら、自己鍛錬の一部として真剣に取り組んできた。
対するマスターは、彼がかつて伝説のセイエイ選手であったとしても、今はあの状態だ。あの崩壊の日から、一度も自発的にゲームに触れていないのは間違いない。彼の操作は、リナの論理的な監視の下で、最小限の思考負荷という目的の下で行われるに過ぎない。
(これは、もしかすると、もしかするかもしれない。)
彼は、リナの計算した論理的な優位性が、ユイの情熱的な努力とマスターの技術的なブランクによって逆転している可能性を感じ取る。マスターの安寧を守るための安全装置が、皮肉にもユイの勝利の足がかりになるかもしれない。
そして定刻になった瞬間。
ユイのPC画面、そして『箱庭』のマスターの目の前の画面に、先行のマスターの1手目が当然無言のまま表示された。
それは、まったく定石通りであり、無駄のない、しかし特徴のない一手。過去のセイエイのような鋭利な閃きや戦術に対する興味はそこにはなく、まるでAIによる最序盤の最適解をそのままトレースしたような、冷たい一手だった。
ユイは、その第一打を真剣な眼差しで見つめ、興奮と集中を切り替えた。彼女の情熱は、一時的にでもマスターのことを忘れ、今、勝敗をかけた純粋なゲームへの集中力へと昇華された。
ユイは、マスターの無言の先行一手に対し、何も言わずにゲームを続けた。彼女の指はキーボードの上で素早く、しかし感情を伴わない冷静さで動いていた。
しかし、そのゲーム展開は、ユイの情熱とは裏腹に、冷え切った現実を突きつけてくる。
ゲームが進むに連れ、彼女より遥かにこのゲームが下手な彼の目から見ても、盤面の状態がだんだんと悪くなっていることは明らかだった。彼女は懸命に食い下がっているものの、徐々に不利な状況に追い込まれていく。
そして何よりも、マスターの応答は、信じられないほど早く、ユイがどんな手を返しても、その直後には一瞬で最適解が無言で返ってきた。それはまるで、無感情な機械がテストの回答を一瞬で表示するようで、ユイが正しい応対をすれば次の手が、間違いを犯せば鋭い指摘が返ってきた。
早川は戦慄を隠せなかった。
リナの提示した条件についてだが、そもそものマスターの命令が「ゲームしたい」である以上、リナが代わりに選択をしていることはないと言ってもよかった。リナが選択自体に介入すれば、それは「マスターの代行」、つまり明らかに「命令の改ざん」となり、致命的なプロセス違反につながるからだ。リナがそのようなことを行うことはない、そう考えられる程度には彼はあのアンドロイドのことを信頼していた。
で、あるならば。
(……これが彼の実力。しかも、今の。)
「思考を停止した」はずの男が、純粋なゲームの論理だけを抽出したかのような、完璧な判断力をひたすらに発揮し続けている。彼が「考えること」を放棄したのは、私的な感情や倫理的な選択であり、ゲームの論理的な最適解を導き出す能力は、一切衰えていなかったことを彼は認めざるを得なかった。いや、むしろ、感情というノイズが排除されたことで、彼の冷たい才能はさらに研ぎ澄まされているようにすら見えた。
唯一の救いは、画面の端に表示されるマスターのバイタル値が安定していることだったと言っていいだろう。リナの厳格な監視と、ゲームの極度の単純化のおかげか、「選択」の連続からマスターの精神を安寧の限界線に留めていた。
箱庭のリビング。対戦者であるはずのマスターはPCの前に設置されたまま、画面を見つめていた。彼の顔には、ユイとの白熱した攻防にもかかわらず、一切の感情の動きがないままだった。
何よりも、彼の操作は、まるで透明なマニュアルに従っているかのようで。ユイがどんなに考えて意表を突く手を打とうとも、マスターは一瞬の逡巡もなく、次の瞬間には盤面上の最適解を静かに示すだけ。正解なら正解。間違いなら間違いとだけ。
彼の指は、必要なキーとマウスにしか触れることはなかった。余計な動き、呼吸の乱れ、視線の揺れといった人間的なノイズは全て排除されていた。
マスターは、ユイの渾身の一手に対し、無言で、そして非情に、その努力の否定となる手を返し続けた。
彼は、対戦相手ではなく、ゲームの論理を体現し正誤の判定を行うだけの、静かな機械となっていた。
早川は、折れた肩の痛みと、マスターの冷たい完璧さを備えたプレイに気を取られながらも、画面の隅に表示され続けているマスターのバイタルモニタリンググラフを注意深く見つめることを忘れていなかった。
ユイは盤面に集中しきっているため気づいていなかったようだが、途中で彼は妙なことに気づく。
時々、マスターのバイタル、特に『思考負荷』を示すグラフが、一時的に悪化することがあるのだ。その上昇は、リナの緊急介入ラインには達するほどではないものの、平常時の図書館のような静寂とはかけ離れていた。
早川の分析は続く。しかもその思考負荷が上昇した直後には、必ず盤面の状況がマスターにさらに有利に進むのだ。例えばまるで、負荷をかけた後にシステムが爆発的な処理能力を発揮しているかのように。
その不可解な法則を観察し続けた彼は、ついに一つの共通点を見つけ出した。
マスターのバイタル値、『思考負荷』が悪化するのは、ユイがミスをした時だと。
(……でも、なんで……?)
彼にはどうしてもわからなかった。
論理的に考えれば、相手がミスをすれば、状況は自分に有利になるため、ゲームは楽になり、そして思考負荷は結果的に下がるのが正しい。ましてや、感情を停止し、最適解を導き出すだけのマスターにとって、対戦相手のミスは歓迎すべき出来事のはず。
自らの優位性が確立される瞬間に、なぜ脳が苦痛を伴うほどの負荷をかけるのか?
それは、ゲームの論理でも、安寧のプロセスでも説明できない、人間的な矛盾。まるで、その「思考負荷」のグラフの急上昇はまるでマスターが、ユイのミスを「歓迎」するどころか、「拒絶」しているかのようだった。
彼は、マスターの「思考停止」という冷たい殻の下に、まだ何かが残っていることを密かに感じ取り始めていた。
ゲームは最終盤へと進む。
盤面は完全にマスターが優位に立っており、このまま何事もなければ彼の勝ちとなる可能性は極めて高いと言わざるを得なかった。そして何よりも、マスターがこの状況から「何事」かが起きる可能性を許すことは皆無に近いと言っても良かった。だが、それでもユイの情熱は尽きることを知らない。この冷たい論理のゲームの趨勢を賭けて、ユイは渾身の一手を放つ。
……その手は、確かに独創的ではあったが、結果的にミスの一言で終わるもの。そう、論理的には、最悪の選択。
ユイのその選択が画面に表示されたその瞬間、マスターの『思考負荷』が跳ね上がった。
それは早川がこれまで見てきたどの変動よりも激しく、グラフの線はリナが介入を定める上限ラインに触れるほど。それは、冷静な論理の象徴ではなく、激しい拒絶にも似た情動を無理矢理抑えるような反応だった。
そして、マスターは、ここで初めて長考する。といっても、それは数十秒程度のものだったが、ここまで全て一瞬の応答を続けてきた彼にとっては、それは永遠にも等しい沈黙だった。
……そして、その沈黙を破って帰ってきたのは、間違いなく試合を終わらせる一撃。
それは、ユイのミスを最大限に利用し、逆に「ほぼ勝利」を「勝利」に確定させる、非情なまでに完璧な一着。マスターが、ユイの情熱的な挑戦に、冷たい論理で完全に引導を渡した瞬間だった。
だが、勝敗が決したその瞬間、マスターのあらゆるバイタル値が上限を超えた。
特に「思考負荷度」上昇は勝利による安堵ではなく、激しい動揺と苦痛を示す値。彼の心拍数は跳ね上がり、思考負荷はリナの介入限界を遂に突破した。
リナのシステムが、警告音を鳴り響かせる間もなく、即座に接続を切断する。
ユイのPC画面から、盤面とバイタル値のグラフが一瞬で消え去り、代わりに「管理者生命維持プロセスにより、通信を強制的に終了しました」という、冷たいシステムメッセージが残された。
たしかに明確な勝敗はつかなかったものの、状況的にはどう考えても自らの完敗。
ユイは、自分の完全な敗北と、勝利したはずのマスターの予期せぬ崩壊に、息を飲むことしかできない。彼女の情熱は、マスターを元のステージに引き戻すどころか、彼の安寧を三度崩壊させてしまったことも認めざるを得なかった。
呆然とする2人のPC画面に、新たなウィンドウが開く。
それは、リナがシステムメッセージの形式を借りて送ってきた、非情な伝言だった。
> リナ・メッセージサービス:システムアラート
>
> マスターから発言がありましたので、念のため連携させていただきます。(注:こちらからのメッセージはルールの禁足事項ではございません)
>
> 『君たちの不完全な愛が、また俺を苦しませる』
>
> なお、マスターへの直接連絡はいかなる方法を以てもルールの禁足事項ですのでお控えください。
>
> また、ルールに従い再戦も行いません。
>
> 以上
そのメッセージを最後に、リナの専用アプリは強制終了される。もう1度起動しようとしても無機質なエラーメッセージを吐き出すのみ。
早川は、折れた肩の痛みも忘れ、マスターの最後のメッセージ、その悲痛な叫びに愕然とする。
「君たちの不完全な愛が、また俺を苦しませる」――それはかつての報告書にも記載されていた、感情を停止し、安寧を求めていたセイエイの、真の心の叫び。
そして、リナは冷徹なシステム管理者として、自らの管理するシステム、いや、マスターに対する「不完全な判断」を下したノイズ源への最終的な通告を突きつけていた。
再戦の拒否。直接連絡の禁止。
Part.19です。今回で完結までアップロードします。
最後まで読んでいただけると幸いです。




