18.柵の中で
彼がユイに連絡し、リナからの厳格な条件についてまだ何も伝えていないにも関わらず、ユイの返答は驚きと歓喜に満ちたものだった。
「やります!!」
その声は電話越しでも、昨日の物理的な苦痛を忘れ去るほどの熱量を帯びていた。マスターが自ら「ゲームをしたい」と発言したという事実が、彼女にとっての最大の勝利だったに違いなかった。
彼は、歓喜に満ちた声が響き思わず折れた肩がズキズキと再び痛みだすのを感じながら、言葉を選びました。
「あの、色々条件があって、君にまだ伝えてないんだけど……対面は禁止とか、一回きりとか、感情表現は全て遮断されるとか……」
彼は、リナの用意した冷徹な罠、いや、主人を守るための柵を伝えようとしましたが、ユイは聞く耳を持ちません。
どんな条件でも、絶対にやります! あの人が答えてくれようとしてるんです!!」
ユイにとって、リナの条件はマスターの心の防衛策ではなく、ゲームという形式でのコミュニケーションを成立させるためのルールに過ぎない、と太田と同じように考えているようだった。唯一決定的に違うのは、自分自身が闘うこと。彼女の頭の中には、リスクや論理ではなく、「同じステージ」に立つという情熱的な目標しかないようだった。
彼は、これ以上説明しても無駄なことだと悟った。この無謀な挑戦は、ユイの情熱とリナの支配、そしてマスターの微かな意思が絡み合った止められない運命となり、その戦いの幕が上がろうとしていたのだ。
「うん、じゃあ、こっちの指定した時間に、本社に来てくれるかな……日時はまた後で連絡するから。」
彼は、リナの指示通り、会社の管理下にあるオンラインブースでの対戦を指示した。リナの条件を受け入れ、最悪の事態を防ぐための準備を始めるしかない。
そして、リナが提示した厳格な条件が受理され、対戦本番の前日を迎える。
当日まで早川が負傷した肩の痛みに耐えながら準備に奔走する姿は対照的に、『箱庭』の内部は、表面上は完璧な平穏に包まれていた。
リナはマスターの世話に負担をかけることもなく準備を完全に済ませていたし、サイネティクス・ソリューションズ社側の準備が整わないなら対戦は行われなくてもよいと思っていた。むしろ、それを密かに願っていたといっても過言ではない。
しかし、その静けさの裏ではマスターの微かな意識とは裏腹に、リナのシステムが極度の緊張を保っている。
リナは当日も定刻通りに起動し、即座にマスターのバイタルチェックを行った。
マスターはまだ静穏状態にあったが、リナは彼の脳活動にかすかな覚醒前のノイズが増えていることを検出していた。この傾向は、先日早川とユイがここを訪れてからずっと続く傾向だ。彼女の「ゲームしたい」という情熱が、マスターの思考停止プロセスを深層意識レベルで揺さぶり続けている証拠に違いなかった。
リナは、日常の介護動作をいつもよりさらに正確に、効率的に行った。彼女の基礎的なプログラムに刻まれているその動作には、迷いなど当然みじんも感じられなかった。
「マスター。本日は対戦命令に向けた安全プロセス最終調整日です。肉体的負荷を最小限に抑えるため、リハビリ時間は規定値の70%に短縮します。」
彼女は優しそうな声色とは反対に感情を完全に排除していたが、その行動の厳格さは、マスターの生命に対する純粋な懸念を示していた。本番の対戦はまだ明日であるにかかわらず、リナの視線は、マスターの体調と周囲のセンサーログを、寸分違わず監視し続ける。
日中、マスターはリビングの「安全地帯」に設置され、虚空を見つめていた。
しかし、リナは彼を完全に放置しなかった。リナは、明日使用する対戦用ミニゲームのコードをマスターの目の前で再度チェックする。これは、アプリの不備を確認するためというよりも、マスターにその場で思考負荷を与えないように、かつ視覚情報として「明日の予定」を無感情に提示する行為だった。
「マスター。明日の対戦相手は、長門ユイ様です。過去のユイ様の解析データから得られた危険性に基づき、対戦はオンラインで感情的交流は発生しない形で行います。対戦時間15分、思考負荷は最小限に抑えられます。どうかご安心ください。」
リナは、マスターに安心させるという介護行為を確実に実行している。しかし、その言葉は、まるでマスターに言い聞かせるというよりは、マスターの「ゲームしたい」という微かな願いからくるリナ自身の深い不安を、冷たい論理の蓋で強く押さえつけているかのようだった。
マスターはリナの言葉に反応しなかったが、何よりもリナはマスターのバイタルが「安心した」という論理的なサインを示していないことを知っていた。彼がいま本当に欲しているのは、リナの提供する純粋な「安全」ではなく、彼にわずかに残った「情熱」の残りかすの燃やし方であることを、リナのAIは解析せざるを得なかった。
そして、決戦の日がやってきた。
早川とユイはたった2人、会社の最上階にある会議室にいた。そこは、情報漏洩を防ぐために、普段は使われない簡素で殺風景な部屋だった。もちろん他には誰もいない。
早川は、ギプスで固定された肩を少し動かし、申し訳なさそうに言いました。
「ごめんね、殺風景な暖房も動いていない部屋で……一応秘密のプロジェクトだからさ。」
ユイは、肌寒さなどまるで気にする様子もなく、彼に向かって笑顔を見せました。
「いえ、ありがとうございます。……それに、私を身を挺して庇ってくれた早川さんがいれば、どんな場所でも安心です。」
ユイはそう言って屈託なく笑う。その笑顔には、「また何かあったら私を守ってくれるんでしょう?」という無垢な信頼が込められており、彼は思わず顔をしかめざるを得ない。彼女の純粋すぎる情熱は、折れた肩の痛みよりも、よほど彼の思考負荷を誘発するものだった。
対戦自体は、リナの条件通り、通常の『ロード・オブ・タクティクス』のオンライン対戦ツールではなく、リナが作った専用アプリを通じて行われる。彼は、会社のセキュリティを最大限に活用し、この通信プロトコルが決して外部に漏れないよう、厳重な環境を整えていた。
時刻が近づくと、ユイは早川に促され、彼のPCでその専用アプリを開く。そして、2人でその目を丸くする。開かれたアプリのインターフェースは、ゲームであることを示す華やかさや躍動感とはかけ離れているものだった。
画面上部に表示されているのは、アバターやチャット欄ではなく、マスターの心拍数と脳波、そして思考負荷度をリアルタイムで表示する、冷たいバイタルモニタリンググラフだった。
そして、対戦用のミニゲームは、過去にマスターが最も熱中した対戦型パズルゲームをベースにしつつも、UIも盤面もコマの種類も、とにかくすべてが徹底的に簡略化されていた。そこにあるのは、平易に簡略化された盤面と種類が極端に減った戦闘用のコマと、その周囲を赤く点滅し続ける警告表示だけ。それは明らかに、マスターの「思考負荷」を下げるためにリナが設定した世界だった。
彼女は、「ゲームをしたい」という命令を、「マスターの生命維持のための、厳格なバイタル管理システム」という形で実行に移したのだった。画面上に表示されたこれは、これが単なるゲームではなく、マスターの命を賭けた、極限のモニタリング管理の場であること示していました。
決戦当日。朝の定刻。
リナは秒単位で正確な動作でマスターを覚醒させる。窓の外はまだ薄暗い時間だったが、箱庭の内部は彼女の管理により人工的な光で満たされていた。
「マスター。定刻です。本日は長門ユイ様との対戦日ですが、対戦時間までは日常のプロセスを優先します。」
リナの声には、昨日までのような感情的な動揺は微塵もないように見受けられた。システムは完全に復旧し、彼女は再び冷徹な支配者として機能しているようだった。
覚醒したマスターは、リナの指示に従い、ゆっくりと車椅子の座面に体重を移す。その顔に、対戦への期待や、ゲームへの興奮を示すわずかな血色や感情の動きは一切見られない。対戦は、彼にとって食事や水分補給、またはリハビリといった「安寧維持のためのルーティン」の一部に過ぎないかのように見えた。
だがリナは、マスターのバイタルをチェックするセンサーの数値を一瞥し確信する。ノイズの影響は最小限に抑えられているものの、深層意識の活動レベルは、平常時よりわずかに高い水準で張り付いている。やはり、ユイの情熱が完全に消えたわけではないことを彼女は認めざるを得なかった。
日中の時間は、普段通りの平穏が支配していた。
リナは、マスターが指示された栄養ドリンクを飲むのを監視し、定められた時間の筋力維持リハビリをサポートした。マスターは言われた通りに口を動かし、言われた通りに腕を伸ばす。その瞳は常に虚空を見つめ、「思考停止」という状態を文字通り忠実に維持しているようだった。
対戦が迫る時間になっても、マスターから「ゲームについて聞く」、「対戦相手について問う」といった自発的な発言は一切なかった。まるでこれからの対戦のことなどまるで興味がないように。
リナは、マスターに思考負荷を与えないよう、対戦に関する情報は必要最低限の動作でのみ伝える。
「マスター。まもなく対戦時刻となります。PCの前に移動します。」
リナは、マスターを乗せた車椅子を、リビングの片隅に設置された高性能PCの前に正確に設置しました。PCの画面には、2人が会議室で見た、バイタル監視グラフがメインとなった専用アプリが既に起動しています。
対戦時刻の3分前。
リナはマスターの耳元に顔を近づけ、ごく小さな声で、最終確認のシステムメッセージをささやきかける。その声は愛情にも似た感情、あなたを必ず守るという意思で満ちていた。
「マスター。この対戦は、あなたの命令と安寧を守るため、私が監視と制限を行っているものです。対戦中は、可能な限り感情を動かさず、指示された最小限の動作のみを行ってください。思考負荷の上昇を確認した場合、私が介入します。私はどんな時でもマスターの生命維持プロセスを最優先するようプログラムされています。」
それは、感情のない絶対的な宣言。
リナは支配者としての座を返したいという思いにも駆られながらそれを言い切った。
そのようなことはセイエイの最後の命令を守るアンドロイドとして絶対に許されないこと。
マスターは、その冷たい忠告に、わずかに目線を動かしたものの、言葉を発することはなかった。彼の瞳は既に、PC画面の盤面と、自身の心拍数を示すグラフを、食事の皿を眺めるのと同じ無関心な視線で捉えていました。
そして、定刻。
リナのシステムが、ハヤカワの本社側PCとの通信を確立。ついに対戦が開始された。
Part.18です。今回で完結までアップロードします。
最後まで読んでいただけると幸いです。




