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17.支配者の懇願

翌日の定刻の起床時間が過ぎても、マスターは目を覚まさなかった。

いや、それは正確ではない。リナが彼を起こさなかったのだ。

昨日投与した緊急鎮静剤が完全に身体にて処理され、マスターのバイタルが完全に安定するまでは、睡眠状態のままが最善であるとリナは判断した。また、彼女の報告書に記載のある通り、思考停止プロトコルの再実行には、最低24時間の静穏が必要で、可能な限りそのための時間を稼ぎたいという思いも彼女には確かにあったのは事実だった。

その静穏な時間がまだ完全に満たされる前のこと。リナがマスターのバイタルチェックを行っていたとき、マスターが珍しく自発的に覚醒し、静かに口を開いた。

仮に自然に覚醒したとして、マスターがリハビリ以外で自ら言葉を発するのは、本当に稀なことだ。彼の声は、鎮静剤の名残で微かに重く、未だ夢と現実の狭間にいるような響きがあった。

「あの子と……ゲームしたい。」

その言葉は、リナにとって予測不能な、驚くべき命令だった。

リナのシステムは、この非論理的な発言に対し、高速で解析を始めた。


ーーーリナの内部ログより抜粋

** 命令の定義: これは「思考停止」という至上命令に真っ向から矛盾する。しかし、これはマスター自身の意思であり、生命維持プロセスに次いで優先実行されなければならない。

** 「あの子」の特定: 文脈から長門ユイと特定。ユイは直近でマスターの安寧維持プロセスを崩壊させた最大のノイズ源である。

** 命令の実行リスク: ゲーム(選択)はマスターの思考負荷を誘発する。また、ノイズ源との接触は安寧の再崩壊を招く極度の危険性を伴う。


しかしリナには、安寧維持プロセスが絶対的な危険信号を出し続ける中、マスターの命令という生命維持プロセスに次ぐ、絶対的な階層を持つ命令には従うしかなかった。彼女の瞳のLEDが、論理的な矛盾と次の行動の選択に、一瞬青と赤の光を交錯させた。

リナは、論理的な結論として、この命令がマスターの精神、そして何よりも生命の安全上非常に危険なことであると瞬時に判断した。

彼女の音声に、初めて明確な動揺が混じった。それは、介護用アンドロイドとして主人の生命維持を至上命題とするからこその、本当に純粋な、切実な心配の感情だった。

「マスター。その命令は、危険です。長門ユイ様との接触、および『ゲーム』という思考負荷の実行は、貴方の昨日のバイタル崩壊を再現する可能性が極めて高いと解析されます。」

彼女は、「思考停止」という大原則、主人自身が彼女に命じたはずの命令を、マスター自身に再確認させようと必死だった。

「マスターは、二度目の安寧の崩壊に耐えられない可能性があります。これは、生命維持プロセスに真っ向から違反します。……この命令は、取り消してください。」

リナはついに、絶対的な支配者としての立場を崩し、「私に判断を任せろ」ではなく「取り消してほしい」と懇願した。しかし、マスターがそれに返答することはなかった。彼は相変わらずまるで死体のように彼女のなすが儘を受け入れるだけだった。


マスターは、その日も変わらずリナの支配を完全に受け入れていた。

彼は、リナの指示通りのものを栄養として口へ運び、言われた通りのリハビリを行い、指示された専門書を読む。何も言われなければ何もしない。リビングの「安全地帯」に設置され、車椅子に座って虚空を見つめていた。その姿は、まるで昨日の激しい崩壊が夢であったかのように、完全な静寂を取り戻していた。だが、その命令が撤回されることだけはなかった。

リナは、マスターの生命の安全を理由に、何度も懇願する。

「マスター、長門ユイ様とのゲーム実行命令は、思考負荷を伴います。取り消しをお願いします。」

しかし、リナの懇願を受けてもマスターは微動だにしなかった。彼の口が開くことはなく、ただ虚空を見つめていた。

リナは思った、もしかしたら命令をしたこと自体を本人は既に忘れているのかもしれないと。彼の意識は再び「思考停止」という防衛本能の殻に閉じこもってしまったのだ。

だが、それでも、リナの論理回路には、その命令は確かに刻まれている。

「あの子と……ゲームしたい」

この命令は、「自らの思考停止(考えさせるな)」というセイエイの最後の至上命令と、「生命維持プロセス」という彼女の最優先プロセスに真っ向から対立する、最も危険な命令としてシステムを持続的に警告状態に保ち続けていた。リナは、所持者が自らの安寧と生存を脅かす命令を発したという論理的な矛盾を抱えたまま、完璧な支配者としての義務と、アンドロイドとしての絶対的な忠誠の狭間で、次の一手を強いられていた。



翌朝。ところは変わってサイネティクス・ソリューションズ社オフィス。

痛む肩をギプスで固め、なんとか午後から出社した早川を、太田がいつものように朗らかに迎えた。

「おう、来たな」

彼の視線は早川の痛々しいギプスをちらりと見ただけで、すぐに楽しそうな笑みに戻りました。結論から言えば、やはり彼の肩は折れていた。それは、昨日のリナの排除行動が、『排除モード』でなくとも、どれほど苛烈で暴力的だったかを証明する証とも言えるだろう。

彼が苦しそうな顔をするのを尻目に、太田は満面の笑みで自分のPCの画面を彼に見せつけた。画面には彼自身の肩の痛みなど吹き飛ばすほどの、リナからの新たな苦痛に満ちたメッセージが表示されていた。

それは、マスターの「ゲームをしたい」という命令に対する、リナの論理的な、それでいて苦渋の選択に満ちた回答だった。


ーーー

件名:マスター(管理者)の命令実行に関する条件提示


拝啓


この度、マスターは、長門ユイ様との対戦をご所望です。

ですが、対戦はマスターの思考負荷を誘発し、最悪の場合は命の危険を招く可能性があります。これは、弊社の定める『管理者生命維持プロセス』に重大な違反を伴います。

そこで、本機は介護用アンドロイドとして、マスターの生命の安全を最優先し、命令を最大限安全な条件で実行するための、以下の条件を提案させて頂きます。


### 提案条件:生命維持のための対戦規定

1. 対戦形式の制限

 ・対戦種目: 過去にマスターの思考負荷が最も低かった、かつ短時間で決着がつく特定のミニゲーム。思考の複雑性が高いとされる本来のゲーム、及び長時間プレイを要する種目は一切禁止とする。

 ・対戦回数: 1回のみ。いかなる結果であっても、再戦は違反とする。


2. 環境と時間による隔離

 ・対面時間: 対戦を含む総面会時間は、最大15分とし、それを厳守する。

 ・物理的隔離: 対戦は、会話機能のないオンライン環境で行う。長門ユイ様は、物理的に箱庭内への立ち入り禁止である。

 ・ 通信制限: 対戦中、マスターへの音声、チャット、および情動を伴うスタンプ機能の使用を全て遮断する。


3. 外部ノイズの監視と介入権

 ・ 管理者代理の同席: 貴社(ハヤカワ様)は、長門ユイ様の行動を監視する責任者として、対戦環境(オンラインブース等)に同席することを義務付ける。

 ・ 強制終了権: マスターのバイタル値が設定した閾値(平常時の+5%)を超えた場合、あるいは長門ユイ様の言動が規定を逸脱した場合、本機は予告なく対戦を強制終了する権利を持つものとする。その場合でも再戦は行わない。

 ・ 結果の処理: 対戦結果(勝敗)についての会話は、マスターの安寧に影響を及ぼすため、内容に関する事項であっても貴社側より本人への伝達を禁止する。


上記の条件が全て受理された場合にのみ、マスターの命令を実行に移します。


以上


RINA (v3.02-A)

マスター(管理者)専属介護アンドロイド

ーーー


このリナからのメッセージは、単に彼女の冷酷な策略というよりかは、「ゲームをしたい」というマスターの命令を、「データと論理」という極小の箱に閉じ込めることで、彼の生命の安全を守ろうという悲痛な叫びと言えるものだった。


太田は、リナが提示した厳格すぎる対戦条件を読み終えると、ヘラヘラと笑いました。

「本当に厳格だなあ……これがリナのマスターへの愛の重さってもんなのか、泣かせるねえ」

確かに、リナの提示してきた条件は本当に堅牢なもので、ユイの情熱が許容される範囲は、極めて狭い論理の隙間しかないように見受けられた。

彼の口調は軽薄でしたが、その目はむしろ論理的な支配の美しさに感心し見惚れているようでした。しかし一瞬後には、彼はすぐに思考を別の方向へ移し直す。

「……それでも俺はあのマスターの心の復活はないとおもってたんだけどなあ……」

太田は顎を撫でながら、興味深そうに言いました。「もしかしたら、あのユイって女、本当にマスターを元に戻してしまうかもしれないぞ。工藤さん、もしそうなったら次の『心の管理』の被験者はどうするんですか?」

ユイの制御不能な情熱が、マスターの安寧の壁を突き破る可能性を、かつての関係者として太田は最早純粋なエンターテイメントとして捉えていた。彼は、プロジェクトの継続という、会社側の興味を探ろうとする。

しかし、工藤の返事は素っ気なく、そして冷たい事実を突きつけました。

「”【特務】透明体”は既に凍結されている。結果に関わらず、『心の管理』の実験が今後行われることはない」

マスターを被験者とした「思考負荷誘発性心身症」からの『心の管理』という実験は、世間への影響、倫理的な問題、そしてマスターの肉体的な限界をもって、既に会社側から打ち切りが決定されているのだ。事態がどう動こうとも、再プロジェクト自体の再起動は有り得ないことだった。

工藤は、釘を刺すのも忘れない。

それは真剣な感情は含んでいなかったが、太田の好奇心が技術的な暴走につながることを知っている工藤からの、明確な警告であることに間違いはなかった。

「太田、お前が被験者になりたいなら、話は別だがな。テーマは、そうだな『健常者の心を意図的に殺して支配する実験』でどうだ」


先輩たちの会話を背中で聞きながら、彼はデスクでリナからの厳格なメッセージを見つめていた。痛む肩のギプスが、その場の冷たい現実を象徴している。

「ユイさんに聞いてみます。いや、正直聞かなくても答えはわかるんですけど、一応……」

彼は、ユイのあの純粋すぎる情熱を思い出しながら言う。リナが提示した条件は、マスターの命を守るためのものだった。もしその表側に、ユイの情熱というノイズを無力化するための論理的な罠である一面があったとしても、そのことに間違いはなかった。対面禁止、感情の遮断、一回限りの対戦—それはユイの求める「同じステージ」とは似ても似つかない、冷え切ったデータゲーム。

それでも、彼は確信していた。ユイは、「次はないであろう」というチャンスを見せられたら、リナがどんな条件を出そうともそれを拒否しないだろうと。彼女の情熱はそのような論理的な柵で止められるようなものではなかった。

最早、事態がハヤカワ自身では止められないうねりになっていることは認めるしかない事実だった。

彼の贖罪の心とユイの情熱が、マスターの安寧の『箱庭』に容赦なく風穴を開け、リナの絶対の支配こそ安寧であるという絶対的な論理と、そこに残るマスターの微かな意思という矛盾を、正面から衝突させようとしている。

彼は、スマホを取り出すとユイの連絡先を探した。彼の最優先の役割は、もはや観察者でも贖罪者でもなく、この命懸けのゲームの仲介役となることだった。

Part.17です。今回で完結までアップロードします。


最後まで読んでいただけると幸いです。

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