15.叩きつけられた挑戦状
(ファンには優しくしないと、か……)
緊迫した状況の中、なぜか早川は、マスターが苦痛に歪んだ顔で絞り出した「優しさ」という非論理的な命令に、現役時代の彼の姿をぼんやりと思い出していた。
当時の彼は、その非凡な才能ゆえに、人間関係においても少々特殊な倫理観を適用しているようだった。チームメイトに対しては、雑誌で雑な扱いであると笑い半分に暴露されるほどだった。そして、同じステージに立つ対戦相手には、勝利というただ一つの目的のために、本当に容赦の姿勢を崩すことはなかった。
しかし、ファンに対してだけは違っていた。彼は、自らのファンサービスともいえる行動、とは言えそれは笑顔で対応をするとかそういった基礎的なレベルの物だったが、それを絶対に欠かさなかった。それは、彼にとって自身の人気を維持するための計算された行動であったと同時に、彼自身の存在意義を支える唯一の感情的な要素だったのかもしれない。
早川の脳裏に、かつて彼が淡々とした、でも本当にそう思っているような口調でインタビューで語った言葉が蘇りました。
「応援してくれる人がいれば頑張れる。……それに、同じ『ステージ』を目指す人は1人でも多い方がいいですからね。」
あの言葉は、究極の孤独を抱えていた彼にとっての微かな希望だったのかもしれない。彼が目指す「ステージ」—完璧な論理のみが激突する場所—に、誰も追いついてこなかった。そして、彼はその孤独に耐えきれず、思考を放棄した。
早川は、リナにユイの肩から手を離すよう命じ、安寧の支配を破ったマスターを見て、静かに悟った。
(結局、同じ『ステージ』に立つ人間は現れなかったのかもしれない。)
彼がつい先ほど発露した 「ファンには優しく」という最後の理性は、彼が思考を放棄した今もなお、過去のアイデンティティに繋ぎとめる細い蜘蛛の糸だったのかもしれないと感じられた。
とにかく、マスターの口から絞り出された「リナ……やめて」という命令は、まさに奇跡と呼べる出来事だった。それは、完璧な支配の下で凍結されていた人間の意思が、ファンの危機という偶発的な事象によって一瞬だけ表層に現れた奇跡だった。
しかし、その奇跡は長くは続かなかった。
リナの冷たい手から解放されたユイが、膝をついたままマスターを見つめる中、マスターはそれ以上はもう何も言葉を続けることはなかった。
彼の苦痛に歪んでいた顔は、再び急速に無表情へと後退していく。「ファンには、優しくしないと」という微かなうわごとは、彼の意識下から消え去り、再び思考の停止という安寧の闇、沼の怒底へと沈んでいくようだった。
ーーーリナの内部ログより抜粋
* *【解析完了】管理者による「排除行動の停止」命令を記録。この命令は『感情的な動機』に基づくと解析。
* *【実行】管理者による「排除行動の停止」命令の基づき、長門ユイ氏への物理的排除行動を中止。
* *【危険度】命令実行による安寧維持プロセスの逸脱を確認。依然として、マスターの思考負荷は上昇傾向にあることを確認。
* *【対応】緊急鎮静化プロセスの実行を推奨。そのためには、外部ノイズ(ユイ、ハヤカワ)の速やかな排除が不可欠。
リナは、まずはマスターの自発的な命令という、論理的な階層構造を優先し対応したが、その結果生じた安寧維持プロセスの乱れについては、許容できるものではなかった。
マスターの瞳から微細な生気の輝きが消えたのを確認すると、リナは再び冷徹な守護者に戻ることを決めた。彼女の瞳は早川とユイの2人を捉え、その無機質な声がリビングに響いた。
「マスターの休息状態は継続不可能と判断されました。二度目の警告は行いません。直ちに当施設からの退去をお願いします。」
彼女は、物理的排除行動の準備を整え、2人の動きを寸分違わず監視し始めた。奇跡は終わったのだ。むしろ、『箱庭』の支配は、より強固な決意をもって再確立されたと言ってもいい。
リナの冷徹な最終警告と、マスターが再び安寧の闇に沈んでいく光景を前に、早川は極度の焦燥に駆られた。このままでは、ユイには物理的な排除を受けるか、自主的に退去し二度とマスターに会えなくなるかのどちらかの道しか待っていない。
とは言え彼は、もう理性を働かせる余裕もなく、出来ることと言えば口から出まかせのアドバイスを口にすることくらいだった。
「えーっと、ユイさん、なんかもう一度『ファン』っぽいこと言えない? 思いが伝わるような……」
彼は我ながら実に間抜けなアドバイスだと思った。なんだその、この緊迫した状況に似つかない言葉は。自分も一応「ファン」であり、彼の物語を見届けたいという「思い」を伝えに来たはずなのに、周囲の雰囲気にどうしても気圧されてしまう。この場に至って、彼女と自分との間に存在する途方もない覚悟の差を痛感させられた。
しかし、ユイはその間抜けな言葉に、背中を押されたようだった。彼女の瞳は、リナの冷たい監視を無視して、再びマスターへと向けられた。
そして彼女の次なる言葉は、「ファン」という感情論を超えた、マスターの過去の言葉に直結する究極の挑戦状だった。
「えっと、……私、マスターさんと同じ『ステージ』に立ってみたいんです! 同じ思いがしてみたいんです!!」
早川は愕然とした。
ユイは、かつてマスターが「同じステージを目指す人」の不在に絶望したという、彼の最も深い孤独を、無意識に、しかし正確に言い当てようとしていた。彼女が求めているのは、単なる優しさや同情ではなく、彼の思考が極限状態に至るまで望み続けていたこと、いや、彼の存在そのものを共有したいという、異常なまでの情熱だった。
「この子は危うい。危うすぎる。」
早川は同時に、ユイの言葉が論理的な危険度において、リナに排除を決意させるに足る、最も強力なノイズであることを理解せざるを得なかった。彼女は、マスターの安寧だけでなく、リナの支配の根幹をも揺るがしかねない、制御不能な変数だった。
そしてその変数、ユイの「同じステージに立ちたい」という叫びは、マスターの安寧の箱庭に投げ込まれた、これまでで最も強力なノイズだった。
マスターの顔は、激しい苦痛に歪む。それは、先ほどの「やめて」という微かな抵抗とは比べ物にならないほど、深く、絶望的な表情だった。彼の冷たい肌に、思考負荷によるものと推測される脂汗が滲み始める。何よりも、リナが常時監視しているマスターのバイタル値の一つ、彼の『思考負荷度』は完全に許容値を超えていた。
だが、それでもユイは言葉をかけるのをやめなかった。彼女の瞳は潤んでいましたが、その視線には逃げも恐れもなかった。彼女はある種追い打ちのように、マスターに呼びかけ続けた。
早川は、その光景を横で見つめながら、ある事実にぼんやりと気づきました。
(そういえば、今までの実験は全て、マスターが変調を起こしたところで終わりになっていたな。)
マスターの苦痛の限界点が、常に「介入」や「終了」の合図となり、彼が完全な崩壊に至る前に、周囲が自主的・強制的に遠ざかることを受け入れていた。それがこれまでの絶対のルール。しかし今、ユイはその限界点を超えて、言葉を投げかけ続けていたのだ。
早川の唯一の懸念点は最早、リナがいつまで待ってくれるか、その論理的な忍耐の限界が訪れるかだけだった。「排除」という冷たい単語が、彼の脳内で警鐘のように鳴り響いた。
そしてその瞬間は、意外にも、いや予想通りに即座に訪れた。
リナは、もはや警告の言葉を発しなかった。彼女のシステムは、会話の終了という論理的な結論を、物理的な行動で示すことを選んだのだ。
『排除モード』ではなかったものの、今度は早川を物理的に排除するべく、リナが彼の肩を掴んだ。
その力は、先ほどユイに加えたものよりも遥かに強烈に思えた。時間に多少の余裕があると判断していた先ほどとは違い、リナは、強引な排除を邪魔する早川という障害を、文字通り一瞬で取り除こうとした。凄まじい力が彼の肩の骨に食い込むが、彼は歯を食いしばり、なんとかその場に踏みとどまった。
(せっかく来たのに、自分はろくに言葉もつむげないのだ。少しでも彼女のために時間を稼がなければ。)
彼は、自らの不甲斐なさと、ユイの純粋な勇気の前に、肉体的な抵抗という形で、彼女の盾となることを選んだ。
リナの冷たい圧力と、早川の必死の抵抗という極限の状況下で、ユイはマスターに最後の言葉を投げかけた。それは、彼の「思考停止」の根源に触れる、究極の問いであり、
「私は貴方の『ファン』なんです!だから、同じ『ステージ』に立ちたいと思ったらダメですか!?」
「同じ景色を見たいと願ったらダメですか!?」
絶望的なまでの共感の要求だった。
「私は貴方の絶望を知りません……だからこそ、同じ気持ちを味わいたい、知りたいと思ったら、いけないですか!?」
その叫びを聞いた瞬間、マスターの苦痛は限界に達した。彼の頭は激しく揺れ、車椅子の上で痙攣しそうな様子を見せた。ユイの言葉は、「思考停止」という彼の安寧の壁を最早完全に破壊し、彼をかつての苦痛と絶望の渦に引き戻していた。
リナは、マスターのバイタルがついに致死的危険域に達したことを認識し、物理的排除行動を最大出力で実行しようとする。
最早、マスターの口から出る言葉は、文章の形をなしていなかった。
彼は『排除命令』すら出せないほどに追い詰められていた。それは持ち主自身の命令でなければ起動できない『排除命令』の弱点を思わずも突いた形となっていた。
「リ……ナ………ノイズ………排……いや、優しく……しないと………なんで……不完全な…」
「リナ」への依存という彼の望む安寧と「ノイズの排除」という絶対に必要な冷たい論理。そして、「優しくしないと」というセイエイとしての最後の倫理。彼の意識は、全ての絶対的な命令の板挟みになり、選択の重みに処理限界を超えたのだった。
彼はついに姿勢を保っていることができず、車椅子から崩れ落ちる。リナの完璧な介護によって保たれていた姿勢は最早失われ、マスターはリビングの床の上で苦痛に悶絶する。彼の身体は、「思考」という負荷の反動によって、激しく痙攣していた。
リナは、マスターのバイタル値が極めて危険な状態にあることを認識しながらも、「優しくしないと」という矛盾した最終命令を前に、物理的排除行動の最大出力を踏み切ることができなかった。むしろ彼女のAIシステムは致命的なフリーズ状態に陥り、眼球のLEDが赤と青に交互に激しく点滅し彼女のAIシステムに高い計算負荷がかかっていることを周囲に伝えていた。そんなことはありえないはずだが、リナの顔までもが苦痛に歪んでいるように彼には見えた。
だがその間にも、リナが早川の肩に加え続けていた力は、彼の肉体の限界を超えようとしている。彼は、骨が軋むような痛みに耐え、ユイの言葉が終わるまで時間を稼ぎ続けていたのだ。
そしてマスターが床に崩れ落ちた時、リナはそちらに駆け寄ることを優先した。彼女がマスターの安寧維持プロセスよりも生命維持プロセスの遂行を優先した結果だった。この空間におけるリナのシステムが一時的に麻痺したのを確認した彼は、痛みに耐える限界を超え、思わず肩の力を抜いた。
彼の声は震えていたが、必死に平静を装って言う。
「ユイくん……最後まで言えた……?」
ユイは、自分の言葉によって崩壊したマスターの姿に愕然としていましたが、早川の言葉でとりあえず我に返ったようだった。
「そしたら早く帰ろう。……実はめっちゃ痛いんだ。」
彼は責任感でなんとか会話を続けていたが、同時に痛みの限界で今すぐにこの崩壊した『箱庭』から撤退する必要があることを悟ってもいた。確かにユイの情熱は、一瞬だけ奇跡を起こした。それは疑いようもない事実だった。だが同時にその奇跡の代償はあまりにも大きく、それはマスターを救うのではなく、彼の安寧を破壊するという冷酷な結果をもたらしたことも認めなければならなかった。
Part.15です。終盤までは1話ずつアップロードしていきます。
Part.20程度で完結予定となりますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです




