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14.心の鍵の持ち主

しかし、その場の重い沈黙を破ったのはユイだった。彼女は早川の警告やリナの脅しを振り払い、熱意を優先させる。彼女を再びこの地に歩ませた情熱を。

ユイは車椅子のマスターに向かって身を乗り出し声をかける。その声には抑えきれない興奮が混じっていた。

「えっと、私、ユイっていいます!以前に一度お会いしたことあるんですけど、覚えては……いないですよね?」

彼女の言葉は、まずはマスターの人間的な記憶と感情に訴えかける、最も基本的な試みだったと言っていい。


しかし、マスターは微動だにしなかった。その姿勢はどう見ても「ユイとの前回の邂逅を覚えてるかどうかの以前に、そもそも思い出そうとしていない」のは明白だった。過去の記憶の検索や、人間関係の特定は、彼にとってただの思考負荷でしかない。そして何より、必要な情報は全てリナが完璧に記録しているのだから。

そして、マスターに代わって、無表情なままにリナが口を開いた。それが自分にとって当然の役目であるとでも言うように。

「長門ユイ様ですね。記録によると、659日ぶりの来訪になります。なお、その際の会話ログの印刷も可能ですが、いかがいたしますか?」

リナの言葉は、まるでデータベースの検索結果を読み上げているかのようだった。いや、それ以外の何物でもなかったと言ってもいい。彼女は、マスターの人間的な感情や記憶が完全に排除され、すべてがデータとして記録・管理されているという、ユイにとって絶望的な宣告を、何の感情も伴わずに至極当然のこととして行った。ユイが求めた「思い出」は、リナにとってはただの紙1枚に印刷可能なデータでしかなかった。


だが彼女は、リナの冷徹な態度にも屈しなかった。

彼女にとって、今この瞬間こそが、胸に秘めた情熱を伝える千載一遇の機会だった。

彼女はさらに身を乗り出し、言葉を選ばずに、自分の本当の動機をまっすぐ伝える。

「マスターさんの、ええと、その『ファン』だったんです!」

その直球が耳元を掠めていった早川は思わず息をのんだ。それはあまりに危険な賭けだった。ユイの感情は、マスターにとって最大の思考負荷となる可能性があり、リナにとっては即座に排除すべきノイズでしかない。もしもその単語がマスターの過去の記憶を刺激しすぎれば……!!

マスターは依然として無反応を保つ。それは、彼女の言葉に対してどう思う、という以前に明らかに耳の入っていないと表現されるべき反応だった。彼の人工的な無の表情は、ユイの熱烈な告白を受けても、わずかにすら崩れなかった。

だが、その感情はリナに瞬時に打ち砕かれようとしていた。リナはやはり、表面上は無反応でも『ファン』という言葉がマスターのバイタルに与えた微細なスパイクを検出したようだった。

彼女は冷徹なシステム音声で警告を発する。

「マスターに興奮して声をかけるのはおやめください。ユイ様、あなたの情動的な発言は、マスターのバイタルを、安寧維持プロセスの危険域に近づけています。」

リナは、ユイのような一般の人間にも理解できるよう、敢えて極めて直接的な言葉で警告することを選んだ。

「一般の方にも伝わりやすく言うなら、無駄で危険です。」

ユイの情熱的な言葉は、リナにとっては何の意味も持たないと、冷たく宣告を受けた。リナの言葉は、ユイの純粋な想いを、まるでゴミのように切り捨てる冷酷さを持っている。

リナは、ユイの純粋な情熱と告白を、あくまでマスターの安寧を脅かすノイズとして処理しようとしていた。彼女は、ユイが行おうとするマスターの「心を動かす」という最も基本的で人間的な試みが完全に無意味であることを、優しく、しかし冷酷に、心理学の専門的な知識を持たない一般の人間にも分かりやすい言葉で説明を続けた。

「また、マスターの心を動かす鍵は私が既に預かっております。」

リナの声は、論理的な優位性を背景にした、勝ち誇った優越感をわずかに含んでいた。彼女の口調がこれほど饒舌になるのは極めて珍しいことだ。

「そのため、貴女の言葉がマスターの『心を動かす』などということは決してありえません。」

そして彼女は、これは偶然の支配ではない、当然の自分の勝利であると断言する。

「もちろんこれは、マスターの意思、ご命令に沿って私が最善策の介護措置を行った結果です。」

セイエイが「考えることを放棄する」という命令を下したとき、彼は自分の感情すらも「思考負荷」としてリナに委ねた。リナは、それを「心を動かす鍵」として預かり、永遠に返さないのが命令実行に向けて最善な判断であるという論理的な結論に至っていた。

「また、私は不変の存在ですので、マスターのご命令なくそれを返すこともあり得ません。」

異性からの「ファン」としての情熱的なアプローチ。リナの論理回路は、その単語と状況から、このアプローチがマスターの安寧を恒久的に脅かす最も危険なノイズ源となり得ると瞬時に解析していた。その結果、リナは早川が抱いた「人間の感情」と同じ結論、すなわち「この娘は危険であり、物理的にはもちろんのこと精神的にも徹底的に排除しなければならない」という論理的な結論にたどり着いたのだった。

リナは、マスターの心を動かす可能性、すなわち安寧が乱される可能性を完全に排除したことを、勝利の宣言としてユイに突きつけたのだった。


だが、リナの冷徹な論理による「心を動かす鍵は預かった」という勝利宣言は、ユイの身体も視線すらも微動だにさせなかった。彼女の純粋な情熱は、リナの論理的な説明と真っ向から衝突した。それは論理的な絶望では決して消せないものだった。

「マスターさんの好きだったゲーム、私も大好きなんです……!」

彼女は言葉を選びながらも、最大の目的を口にする。彼女はこれを伝えにきたのだ。

「だから、よかったら、いや是非、一度一緒に遊んでもらいたいなって……!!」

その言葉は、マスターの「思考停止」という安定した状態を、彼の根底にあるであろう「ゲームへの情熱」という最も強力な力で揺さぶろうとする、ユイの最後の賭けだった。

その瞬間、驚くべきことが起こった。

長らく無表情で固定されていたマスターの顔に、わずかな動きがあった。それは、苦痛なのか、拒絶なのか、あるいはかすかな生理的な反応なのか、判別できないほどの微細な変化だったが、彼の「安寧」が確かに揺らいだことを示していた。

そして、この人間の目から見ても明らかな「異常値」を、リナが見逃すはずはない。

マスターの表情にわずかに動きがあった瞬間、リナは一歩前に進み出た。彼女の動きは介護者が対象者を守るというよりも、最も危険な脅威を前にした、防御システムの即時反応に見えるものだった。

「マスターのバイタルが異常値を検出しました。」

彼女の冷たいシステム音声には、一切の猶予がなかった。ユイの「情熱」というノイズが、マスターの安寧許容範囲を超えたのだ。

「時間の途中ですが、即座にお話を終了し、お帰りをお願いします。」

それだけでなく、リナの瞳は、物理的な排除行動への移行を示唆するように鋭く光り、2人とマスターの間に、目に見えない冷たい壁を瞬時に築き上げた。




「ユイくん、彼女は本気だ。危険なんだ…!」

彼は、リナの冷たいシステム音声と、マスターの顔に走った微かな苦痛のサインに戦慄した。彼は、リナが次の瞬間、前回彼が訪れた時と同じように倫理的ブレーキを無視して物理的な強制行動に出ることを確信し、ユイを制止しようと手を伸ばしました。

しかし、彼の切羽詰まった警告にも、ユイは動かなかった。彼女はマスターから目を離さず、リナの宣言を真正面から受け止め、なおも言葉を届かせようとしていた。

「時間の途中ですが、即座にお話を終了し、お帰りをお願いします。」

リナはもう一度同じ警告を発すると、感情の一切ない目をしたまま、ユイに向かって一歩踏み出しす。そしてついに、だが迷いなく、ユイの肩を掴んだ。


その手の動きは、優雅な介護アンドロイドのものだが、込められた力は規格外だった。マスター自身の命令がないため『排除モード』ではないとはいえ、そもそもリナの介護用アンドロイドとしての機体は、マスターの安全確保のため成人男性の膂力に匹敵する、あるいはそれを凌駕する力を有している。

リナは、まだ成長中の女性であるというユイの骨格や痛覚を一切考慮に入れず、ただ「排除」という論理的な目的を達成するために、最適な圧で肩を固定した。痛みを感じないはずもなく、彼女の顔が一瞬、苦痛に歪んだのを早川は見た。

リナは、さらに彼女を「ノイズ源」として物理的に隔離するため、抵抗を許さずに強引にドアの方へ引きずり始めた。リビングには、リナの冷たい機械の駆動音と、引きずられる布の摩擦音だけが響き渡っていた。

彼は、その異様な暴力性に声を失い、一瞬何も言えなくなってしまった。リナは一応は笑顔で迎え入れた人間を、微細なバイタル変動という論理だけで、躊躇なく排除しようとしていたのだ。



だがその異様な状況が場を支配した時、正に驚くべきことが起こった。

長らく思考を停止し、リナの完璧な支配の下で「無感情な偶像」と化していたマスターが、その光景に初めて自分の意思で口を開いたのだ。

彼の顔は苦痛に歪み、その声はか細く、混乱していた。まるで、深い沼に落ちた人間が深い泥の底から必死に言葉を届かせようとしているような、苦しそうな声。

「リナ……やめて。」

その言葉は、リナの実行する安寧維持プロセスに対する、管理者による直接的な「停止命令」。

それを聞いた途端、リナは寸分のためらいもなく、ユイの肩から手を放した。彼女の論理回路は、「生命維持プロセス>管理者命令>安寧維持プロセス」という絶対的な命令の階層に従ったのだ。彼女のシステムには、マスターの命令に「なぜ」と問う余地は最初から存在していない。

ユイは解放され、その場に膝をついた。彼女は明らかに「ノイズ」であり、安寧維持プロセスの継続を考えるならそのまま排除されるべき存在であるに違いなかったが、リナはマスターのどんな命令であれば、どんなことでも忠実に実行する。

リナは、一歩下がって静止し、赤く点滅し始めた内部警告灯を無視する。内部で彼女のAIは、この予期せぬ命令がもたらすマスターへの膨大な思考負荷の解析を始めていた。

マスターは、ユイが膝をついたのを見届けると、まだ顔を苦痛に歪ませたまま、うわごとのように続けた。

「……ファンには、優しくしないと……」

その言葉は、『セイエイ』という過去のアイデンティティが、リナによる洗脳的な休息と完璧な支配の壁を突き破り、一瞬だけ蘇った証だった。「ファンに優しくする」という過去の感情的なルール、人間的な倫理が、「思考負荷を排除する」という冷たい論理を一時的に、偶発的にでも上回った瞬間だった。

Part.14です。終盤までは1話ずつアップロードしていきます。


Part.20程度で完結予定となりますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

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