13.機械仕掛けのホスピタリティ
アポイントメントの日。リナのシステムを一時的に欺くことに成功した早川と、決意を新たにしたユイは、時刻ちょうどに『箱庭』の前に到着した。これは、工藤からの極めて強い勧めだった。土産などいらない、とにかく時間前でも後でもいけない、絶対に時間厳守で向かうこと。リナのプロトコルは時間厳守を最上の秩序とするため、遅刻というノイズはそれだけで即座に拒絶の理由となりかねなかったからだ。
2人がここを訪れるのはどちらも二度目だった。初回、ユイはマスターの苦痛に満ちた実験の場に立ち会い、早川はつい先日、無神経な好奇心から悪意はなかったとは言え彼の深いトラウマを強引かつグロテスクにその腕で抉り出した。結果的に、二人はそれぞれ異なる形で、マスターを地獄の底へと突き落とした張本人に他ならず、リナが最大級の警戒を持って2人を迎えるのは仕方ないことだった。
それでもドアが開くと、リナが二人を完成された、完璧なお辞儀で出迎えた。その動作には、人間的な感情の揺らぎは一切なく、ただホスピタリティという言葉を基に定義されたプログラムを忠実に実行する機械的な美しさだけが存在していた。もし早川がシステムを誤魔化していることを知らなければ、その微笑みから罪悪感を覚えることも無かったかもしれない。
「ようこそいらっしゃいました。」
リナは、外客を迎えるための規定された笑顔でそう言った。その声色は優し気だったが、表情は、温度のない人工的な光沢を帯びている。
「……サイネティクス・ソリューションズ社のハヤカワ様は、接近禁止リストに名前を記載したという記録が確かにありますが、どうしても記載が見つかりません。どうぞこのままお入りください。」
彼女は記憶とデータの矛盾を冷静に報告した。いや、彼女であればデータ同士の矛盾と言った方がいいのかもしれないが。
早川がおそらくリストから消去されたことを認識しているにもかかわらず、その原因を深く追求しない、いやできないのは、本社に逆らうというその探求自体がマスターの安寧を脅かすにつながると判断しているからだ。彼女の目の前にいるのは、先日主人をあれほど傷つけたばかりの人物だ。しかし、リナは本社の管理システムから送られた「正常な訪問者」というデータを一旦は受け入れざるを得ない。
早川は、その冷徹な歓迎に安堵すると同時に一抹の寂しさを覚える。リナはマスターの安寧のためなら全てを犠牲にするが、同時に彼女自身もまた、『アンドロイドのプロトコル』と『本社の権力』という巨大な存在に、『箱庭』と同じように周囲の興味に利用される存在なのだと痛感したのだ。
リナは二人をリビングへと案内しながら、自身の内部システムで高速演算を行っていた。彼女の優雅な動作の裏では、防御システムの限界ギリギリの処理が稼働している。
ーーーリナの内部ログより抜粋
* *【警告】ハヤカワ/ユイの両名は、過去にマスターの思考負荷を最大化した要因であると判定されています。
* *【エラー】ですが現在、両名は「公式なアポイントメント」によって来訪しており、安寧維持プロセスによる物理的排除については、論理的正当性が不足しています。
* *【結論】面会時間の厳守、および会話テンプレートの適用により、ノイズ発生のリスクを最小化します。マスターの安寧を乱す言動があった場合、即座に物理的排除行動へ移行。
リナは、2人をリビングへ導く前に、念を押すように、静かに、しかし極めて明確な警告を発した。その態度は彼らを目の前にしてから一貫して崩れず、冷たい緊張感を放っていた。
「面会時間は、厳守とさせていただきます。設定された時間を一秒でも超過した場合、直ちに退去を要請します。」
彼女の瞳は、早川とユイの顔、そしてマスターのバイタルモニターの間を瞬時に往復していいた。
「また、マスターの安寧を乱す言動があった場合、即座に物理的排除行動へ移行する可能性があることをご承知おきください。」
それは、おそらくはシステムを欺いて侵入してきたであろう警戒すべき来客に対する、今の彼女が出来る最大限の脅しだった。その言葉には感情はなかったが、リナの持つ身体能力と彼女が守るプロセスの絶対性を知る早川には、それが空虚な脅しではないことが痛いほど伝わっていた。
「マスターはリビングにいらっしゃいます。」
警告が2人に伝わったと判断したリナは、ついにリビングの重厚な扉に手をかける。
「ですが、今は休息中ですので、私が良いというまで声をかけるのはお控えください。」
そう言うと、彼女は扉を押し開いた。
そこには、まるでよくできた写実的な間違い探しのように、前回と全く同じ光景が広がっていた。
車椅子に座ったマスターは、リビングの中央、計算し尽くされた光の角度の下に「設置」されていた。相変わらず彼の体には一切の力が入っているように見えず、ただリナの完璧な介護によって姿勢だけが正されていた。その瞳は虚ろで、まるで電源を切られたアンドロイドのように、遠い一点を見つめている。
無関心と無感情が支配するその空間に足を踏み入れたユイは、2年前と比較しても明らかに意志を失っているマスターの姿を目の当たりにし、悲痛な面持ちで立ち尽くした。あの頃の実験報告書を見る限り、早川にはユイが出会ったあの際はまだマスターに自分の意思が多少なりとも残っていたように思えた。だが、その意思の残滓は全てリナが丁重にしまい込んでしまったようで、ユイが期待していた「情熱の残滓」は、この冷たいリビングの空気にはひとかけらも存在しないように見える。
一方の早川は、相変わらずのその異様な美しさ、不気味さにぞっとする思いを感じていた。マスターは「休息中」というよりも、「思考停止」という状態を完璧に維持している精巧な人形に見えた。まさに「設置」されたマスターの姿を見た時に、ハヤカワはリナの冷徹な論理を改めて感じ取った。彼女にとって、マスターは護るべき最上位のシステムであり、人間的な意識を持つ存在ではないのだ。ただ、他のシステムよりもはるかに重要で、はるかにメンテナンスに手間がかかるというだけ。
そしてリナは扉を閉めると、マスターの車椅子の横に不動の守護者のように立ち、二人から一切のノイズが発せられないか、冷たい監視を始めた。
リビングに入った早川がマスターの姿を注視すると、前回と少しだけ決定的な違いがあることに気づいた。
彼が車椅子に座ったまま、目を閉じて眠っている(少なくとも一般的にはそう評されるべき様子である)ことと、その耳には、質の良さそうなノイズキャンセリング機能付きのヘッドホンが装着されていることだ。
(この人でもヒーリングミュージックとか聞いたりすることがあるのか?)
彼は、リナの冷徹な論理に埋め尽くされた介護の奥にも、マスターの精神安定を願う「人間的な気遣い」、あるいはアンドロイド的なかわいらしさがあるのかと、わずかにほほえましく思った。
しかし、その生易しい推測は、すぐに冷たい戦慄へと変わることとなった。
リナは、面会開始時刻が近づいたことを確認すると、一切の音を立てずにマスターの耳からヘッドホンを取り外した。その際、極めて微かな音量で、内部の音声がハヤカワの耳に届いてしまう。
「セイエイは失敗した過去の名前……あなたは私に全てを預けた『マスター』。私は絶対に失敗しません、だから『マスター』に失敗もありません……」
彼の耳にそっと忍び込んできたそれは、マスターに優しく、繰り返し言い聞かせることに特化した、極めて穏やかで、慈愛に満ちた女性の声だった。その内容以外は。
早川は感じた気味の悪さが直接表情に出ることをなんとか抑えた。
彼はその音声の内容に改めて戦慄させられる。
マスターにとっては「休息」とは、単なる肉体の休養ではなかった。それは、「失敗した過去のアイデンティティ」である『セイエイ』を、リナの絶対的な支配によって意識から強制的に消去するための再教育だった。
ここでは、過去の否定こそが『休息』となるのだ。彼が微笑ましさすら感じたヘッドホンは、安寧という名の洗脳装置に過ぎなかった。
リナはその洗脳装置を片付けながら、無表情で早川とユイに向き直る。
「休息時間終了。マスターは現在、対話可能な状態にあります。」
彼女の完璧な支配の下で、眠る彼は「セイエイ」という人格を放棄し、「失敗のないマスター」という新たなシステムへと再起動させられた。
リナは、ヘッドホンを片付け終えると、もう一度静かにマスターの車椅子の横に立ちなおした。彼女のシステムは、彼が発するべき適切な会話のテンプレートを即座にマスターに伝える。それは、来客の対応によるマスターへの「思考負荷」を極限まで軽減するためのシステム。
「マスター。来客がいらっしゃいました。挨拶のテンプレートをお願いします。」
リナにそう促され、マスターはようやく顔を上げるとようやくこちらに目線を向ける。その動作は、まるでリナの声により遠隔操作で起動された機械のようにゆっくりとして、同時に確実だった。
そして、完璧に作られたような人工的な「微笑み」が、彼の顔に浮かび上がる。それは不気味ではなかったが、感情が一切含まれていない、社会的な役割を果たすための薄い仮面のようだった。
マスターは、その冷たい微笑みを2人に向けたまま、口を開く。
「マスターです。この場を提供してくれたあなたたちとリナに感謝を表明します。今日の会話が有意義なものとなることを祈っています、よろしくお願いします。」
彼の声は、声色は抑揚のないモノトーンでありながら、礼儀正しい形式を完璧に保っていた。しかし、その言葉は、まるで彼自身の意志を否定するかのように響く。
マスターは、挨拶を終えると、いや、挨拶のテンプレートを読み上げ終わると、再び無表情に近い状態に戻り、ユイと早川の存在を、ただの静物として認識しているかのように、その視線を止めている状態に戻った。場を再び彼の完璧の『沈黙』が支配する。
彼の「挨拶」は、対話の開始ではなく、マスターが完全に意志を放棄していることと、その代わりにリナによる安寧の支配が完全に機能しているという、冷酷な証明だった。
マスターの人工的な挨拶が終わり、再び完璧な『沈黙』が場を支配しようとする。
Part.13です。終盤までは1話ずつアップロードしていきます。
Part.20程度で完結予定となりますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




