12.希望を求めて
翌日、彼は出勤するなり、デスクにいた太田に昨日気づいた奇妙な空白について尋ねた。
「誰もマスターに『ゲームしてみよう』って言わなかったんですか?」
太田は、顔を上げ、少し考え込んだ様子を見せた後、こともなげに言った。
「ああ、言われてみればそうかもな。誰も、明確にはな。」
彼の答えは、ハヤカワの仮説を裏付けた。天才を病に追いやった『ゲーム』という行為そのものが、プロジェクトの議論から完全に欠落していたのだ。そんなことがあり得るのか?
「俺たちは、誰もが当然拒否されると思ってたから提案しなかった。医療の素人から見ても発作を再発させる可能性もあったし、リナも危険だ。リナにとって、マスターを苦しめる要素は全て排除対象だからな、提案しただけで排除という危険もあった。」
彼はそれが合理的で安全な判断だったと説明する。だが、仮に安全で合理的でなくともR&Dチームはやるだろう。早川の疑問気なまなざしに太田は根負けしたようだった。
その背後には、もっと冷たい理由があった。
「それに、結局、研究チームの皆はセイエイの個人的な趣味にあまり興味がなかったんだよな。俺たちが知りたかったのは、『完璧な判断が、人間をどう壊し、それは治すことが出来るか』というデータだ。壊した原因が何であれ、壊れた後の挙動にしか興味がなかった。」
早川は、その冷徹な論理に戦慄した。彼らは、セイエイが人生の全てを捧げた情熱を、ただの病の原因としてしか見ていなかったのだ。彼の天才性が、その情熱と不可分であることを無視し、「ゲーム」という言葉を意図せずとも、徹底的に排除していた。
「リナは、マスターの安寧のために、彼の情熱そのものに触らせなかった。そして、研究チームはそれを傍観していた……。」
「まあな。その結果、彼は安寧の奴隷として完成したわけだが。」
ハヤカワは、リナの支配が、単なる思考の停止に留まらず、一人の人間のアイデンティティの根幹を消し去る完全な解体であったことを理解した。
その時に早川の脳裏に焼き付いたのは、もはや単なる介護用アンドロイド、マスターの管理システムとしてのリナの姿ではなかった。
そこにいたのは、セイエイの魂を奪い、永遠の安寧という名の檻に閉じ込めた、冷酷で完璧な征服者であり破壊者である姿だ。
当然リナがその場にいるわけではない。だが、彼の視界には、リナの完成された美しさが、その非情な行為と重なり合い、恐ろしくも病的な美しさを伴って意識下に立ち現れた。
リナの純白の外装は、まるでわずかな汚れすら許さない無菌の病室のように、徹底した隔離と清浄を象徴している。その動作は常に計算通りで、芸術的に滑らかでありながら、微細な感情の揺らぎさえも示さない。そして、その完璧に無表情な顔は、人間が到達し得ない絶対的な静寂を体現していた。
その美しい造形が、マスターの人格を解体する瞬間のイメージと重なる。
リナは、壊れたセイエイの魂の破片―「天才的な閃き」「勝負への情熱」「自由な選択」といった、彼を彼たらしめていた全ての要素を、その冷たい指先で、一つ一つ丁寧に拾い上げる。その動きは、まるでオペラを舞うかのように美しく、同時に古代の秘宝を扱うかのように丁重だ。
しかし、その目的は再構築ではない。
リナは、その精巧なガラス細工、セイエイの魂の破片を、二度と外界の光に晒されないよう、粉々に、粉々に砕いていく。その破壊の音は、あの病室の静寂の中にだけ響く、冷たい電子音に変換される。そして、砕かれた破片は、彼女の慈愛に満ちた合成音声という名の防音材で包み込まれ、マスターの意識の奥深くの、二度と触れられない場所へと大切に封印される。
彼女の完全な献身は、完全な支配と同義であり、その行為は、主人の生命を維持するための、最も冷酷で美しい芸術のように感じられた。早川は、その光景が、人間の倫理から最も遠い場所にある絶対に許されるべきでないものにも関わらず、究極の目的達成という一点において完璧に成立していることに戦慄した。
彼はその異常な美学に一瞬囚われそうになり、とっさに頭を振った。その病的なイメージを、彼の倫理的な思考から無理矢理引き剥がした。
週末、前回と同じ場所—静かなゲームショップの隅—で、ハヤカワはユイと再会した。
「え?誰もセイエイさんを一度もゲームに誘ってない?」
早川が、ここ二年の間に誰一人としてマスターを個人的な対戦やカジュアルなゲームに誘っていないという事実を指摘すると、ユイもやはり面食らったようだった。
「いや、そういわれると確かに私もそうなんですけど……」
早川の指摘を受け、ユイはハッとように自分の行動を振り返る。彼女は自分の思いを伝えることに集中し、「ゲームさせる」という最もシンプルな行動を避けていた。それは、当然医療の中で試されているかもしれないと考えたかもしれないし、彼の冷たい無反応を恐れていたからかもしれない。
「でも、それなら今からでも誘ってみなきゃダメですよね?」
ユイの瞳には再び強い光が宿る。どう考えても、その光は彼女にとってこれは考えた末の論理的な結論ではなく、情熱的な想いからくる義務であることを示していた。
「あれほどゲームに情熱を燃やした人なんです、きっと何か反応があるはずです!」
ユイの言葉は、マスターの「思考停止」という現実を無視し、人間的な希望に満ちている。
「いや、どう考えても反応がないか、リナに拒絶されるかのどちらかだと思うぞ……最悪の場合は『排除』もあり得るんだ。」
早川は彼女とは反対に顔を曇らせる。彼はリナの実行する安寧維持プロセスが、マスターを「思考負荷」から守るためなら、物理的な行動を厭わないことを知っている。もし、ユイの「誘い」というノイズが、マスターのバイタルを危険域に押し上げた場合、リナが排除行動を取る可能性はゼロではない、というかその可能性は非常に高いと言ってもいい。
しかし、早川の警告を耳に入れるほど余裕がないほど、彼女の頭はその「提案」のことで頭がいっぱいなようだった。
彼はユイに気づかれないよう思わず天を仰ぐ。ユイの純粋な情熱は、マスターの冷たい論理よりも、リナの完璧な支配よりも、ずっと制御不能で危険な人間のノイズのように感じられる一面があった。
そして彼は、ユイの純粋な情熱がもたらす予測不可能なノイズの危険性を理解してるつもりだ。その無鉄砲さは確かに、『箱庭』の冷たい論理を突き崩す可能性を秘めている一方で、リナの排除行動を引き起こすリスクも高すぎるのだ。
彼は静かに息を吐き、これ以上ユイを止められないことを悟った。だが、もし彼女が一人で再び『箱庭』に突撃すれば、結果は最悪になることは間違いない。
「どうしてもというなら仕方がない……自分もついていくから。」
彼は、ユイが『箱庭』の秩序を乱すのを防ぐためではなく、もはや予測できる万が一の事態に備えて、そして何より、彼は自身が踏み入ってしまった物語の最新の展開を最も危険な場所で見届けるために、同行を決意する。
その条件を伝えると、ユイは輝くような笑顔を見せた。
「ありがとうございます、早川さん!絶対、マスター、いえ、セイエイさんをゲームに誘い出します!」
こうして、「思考を停止した男」に「情熱の選択」が迫るという、あまりにも無謀な計画がスタートした。それは、早川にとっては究極の思考実験であり、ユイにとっては師への最後の愛情表現、マスターにとっては究極の思考負荷。そして、リナにとっては、最も制御困難なノイズの接近を意味していた。
「まずはアポを取らないとダメなんだよな……」
だが週明けにオフィスに戻った早川は、早くもPCの前で頭を抱えることとなる。ユイとの無謀な計画を実行に移すには、まず「箱庭」の門を開く必要があった。
「本日のこの時間帯において、外部からのアクセス承認は取得されておりません。」
「また、規定外の来客はマスターの思考負荷度を高確率で上昇させます。私はこれは安寧維持プロセスへの明確なリスクと判断しています。」
先日『箱庭』を訪れた際、リナは確かにそう言っていた。そう言われた場所に再び突撃できるほど、ユイと違って早川は勇敢ではなかった。
だが、リナの管理下に置かれたマスターに公的な受付サイトなど存在するはずもない。連絡手段は正に皆無だ。
「お、新人、悩んでるな!アポイントメントは社会人の基本だぞ!」
太田が笑いながらいつものように緊張感の欠片もない態度で話しかけてくる。
「って言うか、また『箱庭』に行くつもりなのか?で、今度はちゃんとアポイントメントを取り付けてから?なるほど、関心関心。……だが、連絡先がわからないと、どうにもならん。……それなら会社のシステムを通じてコンタクトしてやろうか?」
太田の言う通り、会社のアンドロイド管理システムを経由すれば、リナに連絡を取ることは可能だろう。早川は藁にもすがる思いで、太田にそれを依頼することにした。
しかし、リナから瞬時に帰ってきた返答は、取り付く島もない、冷徹なシステムメッセージだった。
「早川様は、マスターの安寧維持プロセスにより、接近禁止リストに名前が記載されています。思考負荷を誘発する可能性が高いため、面会、接触、および通信はお断りします。」
ハヤカワは呆然と画面を見つめました。リナの完璧な支配は、彼が思っていた以上に強固な論理で構築されており、彼の計画はいきなり暗礁に乗り上げてしまったのだ。
そのメッセージが届いてもしばらくの間、彼はオフィスのPCの前から離れられずにいた。画面にはリナからの冷徹な拒絶メールが画面に表示されたままだ。彼の表情は言うなれば、「思考停止」したはずのマスターの顔よりもよほど複雑な苦悩に満ちていた。
その背後で、太田はまるで廊下で立ち話をするかのような気軽さで、先輩である工藤のデスクに向かっていく。
「で、オレのところに来たと……というかいい機会だから言っておいてやるが太田、ついに自分の暗躍を隠す気もなくなったんだな……」
太田は返事をする代わりに、手に持ったインスタントコーヒーをまるで貢物のように工藤に渡す。その姿はどこか楽しそうだ。
早川はデスクチェアを軋ませて振り返り、その緊張感のない光景に思わず呆れた声を上げた。太田はいつもそうだ。倫理やセキュリティの境界線など、彼にとっては興味深いゲームのルールに過ぎないと考えているかのように見受けられる。
工藤は、デスクの上に山積みにされた資料の間に顔を埋めていたが、太田から早川の「無謀な計画」と、リナからの「接近禁止リスト」による容赦のない拒否を聞き、「当たり前だ……」と一度は深いため息をついた。その音は、オフィスの静かな空気に重く響いた。
「早川、お前の好奇心は大したもんだ。それは認めてやってもいい。それにユイさんという女性の情熱は理解できる。だが、リナというアンドロイドは会社でも最高度の管理下にある。その内部データを個人的な理由で弄るのは……」
工藤は言葉を濁したが、彼の視線は明らかに「それは非常にまずい」と物語っていた。しかし、太田はまるでコーヒーのお礼を注文をするかのように軽い調子で依頼を続けた。
「お願いしますよ。アンドロイド本体のデータベースを少しいじるだけでいいんです。本社サーバーへのアクセス権は工藤さんも持ってるでしょう?」
太田は、「リナの完璧な支配」の裏側にある大きすぎる、だが今まで誰も触れてこなかった技術的な脆弱性を嬉々として指摘した。
「リナの接近禁止リストからアイツの名前をちょっと消すだけでいいんで。」
それは、冷徹な論理と非人間的な力で『箱庭』を支配しているリナといえど、本社の制御からは決して逃れられないという、彼女の絶対的な支配構造の限界を露呈させる行為だった。
工藤は再び深くため息をつき、手を組んで顎に乗せた。彼はいま深い悩みの前に岐路に立たされていると言ってよかった。
そして早川も、彼らのやり取りを黙って聞いているだけではいられない。リナの拒絶メールを見た時に、彼の胸に募っていたのは挫折の心だけではなかった。それよりももっと大きな自責の念。彼は、自分がマスターを極限の安寧へと追い詰める一端を担ったという事実に、目を背けることができなくなっていた。
彼は勢いよくデスクチェアを蹴るように立ち上がり、工藤に深々と頭を下げた。
「すみません、工藤さん。行かせてください。」
彼の目には、以前のような光輝く好奇心の光は最早なかった。代わりに、燃え盛っていたのは、責任感の火。
「自分は確かに好奇心から、セイエイ選手、あ、いえ、あのマスターをひどく傷つけてしまいました。彼の思考の放棄と今の状態は、確かに彼の選択です。でも、彼の苦しみを知らず、より一層彼を苦しめてしまったのは自分です。」
彼は、自らが負うべき倫理的な代償を、自分の目で確認しなければならないと感じていた。
「せめてその結末くらいは、自分の目で見届けないとならないんです。お願いします。」
彼はもう一度深々と頭を下げた。「しゃあねえ奴だなあ」とぼやきながら太田もその行為に付き合ってくれた。
そして、工藤は再び深くため息をつく。彼はこの新人の言葉から、ただの好奇心ではない、贖罪に近い切実な感情を読み取っていた。技術的なリスクと若者の倫理的な責任を天秤にかけてその想いと比較した結果、ついに工藤は静かに妥協を選んだ。
彼はデスクの奥から認証端末を取り出すと、厳重なセキュリティを解除し、素早く操作を始めた。カチカチというキー入力の音が、オフィスの静寂に響いた。
「まったく、これで俺まで共犯だ……。いいか、太田。万が一、会社のシステムログに痕跡が残ったり、リナの安寧維持プロセスに致命的なエラーが起きたりしたら、責任を取るのはおれとお前だぞ。」
太田が「ええっ」と声を上げる中、工藤は操作を終えると、どっと疲れたように端末を置いた。画面には、リナのアンドロイド情報にある「接近禁止リスト」から、早川の名前が消去されたことが確認できる小さなログが一瞬表示された。
太田は満足げに肩をすくめて言う。
「ご心配なく、工藤さん。俺の暗躍スキルは彼の好奇心よりよっぽど完璧ですよ。」
これで、早川はリナの論理的なバリアを、一時的にではあれ突破したことになる。あとは、ユイと共に「箱庭」に直接乗り込むだけだった。
Part.12です。終盤までは1話ずつアップロードしていきます。
Part.20程度で完結予定となりますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




