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11.ファン(熱狂者)

同時に早川は、ユイの悲痛な問いかけと、その裏にある「強さへの執着」を聞きながら、一つの恐ろしい確信を得た。

(もしセイエイがここにいて、元気であれば――)

もし、『魔王』と呼ばれた天才が、その頭脳と声と魂を失っていなければ、ユイの言葉に対し、彼は猛烈な怒りと反論をぶつけたかもしれない。

「それは君たちがまだ本当の失敗を経験していないからだ!! 君たちが、自分の全てを否定されるほどの、絶望的な重圧を知らないからだ!」

彼はそう叫び、自由や愛や希望といった人間的な感情が、いかに自分にとっての残酷な裏切りに変わりうるかを、彼自身の発作の痛みをもって説き伏せたかもしれない。

しかし、マスターは当然ここにいない。

マスターの魂も身体も、リナの支配下にある。リナの合成音声による慰めと、冷徹な論理による安寧の中で、マスターは「セイエイ」としての全ての意思と思考を放棄した。

もはやマスターに、ユイや早川の言葉に怒り、反論するような意思はない。

そして、仮にその「セイエイ」の意思が一時的にでも蘇ったとしても、リナがそのような発言を許可することはないだろう。リナのシステムは、「過去の自己認識」や「自発的な感情」の発露を、マスターの安寧を乱す最大のリスクとして徹底的に管理している。

リナの「慈愛」という名の支配の下で、マスターは永遠に安全な檻に閉じ込められ、外界の真の共感や人間的な問いかけに触れることは二度とない。彼の絶望的な真実は、もはや誰にも届くことはない。


ユイは、言葉にしたことで改めて自分の進む道を決意したかのように、まっすぐ早川を見つめた。その眼差しは、もはや悲しみや後悔といった一般的な感情ではなく、狂気にも似た渇望に満ちていた。到底、通常の10代の女学生が湛えてよい表情ではない。

「もし強くなった先に彼と同じものを求めるようになったとしても、私はそれでいいんです。」

彼は、その言葉を聞き、深い戦慄とともに実感した。彼女は本当に、セイエイの"ファン"なのだと。

一般的なファンは、主に英雄の栄光を求める。しかしユイは、英雄が極限の完璧さを求めた結果辿り着いた、人間の尊厳の放棄、すなわち絶望の境地すらも、「結末」として自らに受け入れようとしているのだ。彼は思わず息を飲む。

「彼と同じもの……安寧という名の支配を、ですか。」

「あの時にセイエイさんが言っていたことを理解できるなら、それでも……。」

彼女にとって、マスターが今かけられている「鎖」は、支配の証であるとともに、凡人には到達できない境地を覗き見た、証明のようなものなのだ。

ユイの顔は、純粋でありながら、同時に危うい憧れを湛えていた。それは、「強さ」という名の頂点を極めた天才が、自ら人間性を捨て去ったという、最も悲劇的な真実に惹きつけられている、歪んだ信仰の形だ。


彼は理解した。自分は罪悪感から、ユイは憧れから、それぞれ「箱庭の真実」を知ろうとしている。どちらの動機も、マスターにとっては新たなノイズでしかないが、彼らの探求は、あの絶望の構造を明らかにするかもしれない。


だがその前に早川は、ユイの危険なまでの憧れに、強い違和感を覚えた。彼女が抱く矛盾した感情、「怒り」と「賞賛」の矛盾を、理解する必要がある。

「だが、あなたは彼のことを『檻に入っている』と怒っていたはずだ。『奴隷に成り下がった』と、はっきり言った。それでも、同じ景色が見てみたいと?」

彼の言葉は、彼女の感情の最も矛盾した部分を突く。

ユイは、一瞬、自分の矛盾を自覚したかのように顔を伏せた。しかし、その矛盾に気が付いていなかったはずはない。その証拠に、彼女はすぐに顔を上げると、強い決意の色を帯びた瞳をひときわ強く輝かせた。

「はい。怒っています。私は、『セイエイ』という人間が、自由を捨てて『マスター』という名の檻に入ったことに、裏切られたと、明確に感じて怒っています。」

彼女は一呼吸置いた。

「でも、私が怒っているのは、彼が檻に入ったことそのものではありません。本当に怒っているのは、『なぜ、その檻が彼にとって唯一の安寧になったのか』が、今でも私には理解できないからです。」

ユイは、テーブルに広げられた自分の手を握りしめた。

「私が憧れたのは、極限まで突き詰めた才能です。その才能が、『選択』や『愛情』といった全てを『ノイズ』だと断じ、与えられる『支配』の中にしか救いを見出せなかった。その絶望の景色こそが、凡人には見えない境地だと、私には思えてしまうんです。」

彼女にとって、その「檻」はただの敗北の証ではなく、究極の強者が辿り着いた、到達不可能な真理の場所ともなっていた。彼女は、怒りを通じて、その真理に触れようとしているのだ。


「彼の絶望を理解すること。それができれば、私は彼をただ見たままに『奴隷』と見下すことはできなくなる。そして、私も『強さ』を極めることの意味を知れる。だから、私はその檻の中の景色を見てみたい。早川さんは、そうは思いませんか?」

彼女の質問は、ハヤカワの罪悪感を再び刺激する。ハヤカワは、自分の罪悪感とユイの危うい憧れが、今や同じ目的地を目指していることを痛感した。



ところは変わって、サイネティクス・ソリューションズ社のオフィス。

週末、人気のないオフィスで、工藤はコーヒーメーカーの前で同僚に声をかけた。彼の声は低く、休日特有の静けさの中で、その言葉は重く響いた。

「なあ太田、お前、早川をそそのかして”箱庭”に手を出そうとしてないか?」

太田は肩をすくめ、隠すことなく事実を認める。ほとんど悪びれた様子もない。だからこいつは昇進の候補にも上がらないのだ。

「……ばれていましたか。」

「お前はプロジェクトの凍結に反対だったからな。新しいデータに目がないのは知っている。だが、『箱庭』は手を触れないのが一番安全なんだ。あのマスターに、俺たちへの個人的な敵意はない。」

「それはそうでしょう。誰がどう考えても明らかだ。敵意はもちろん、全ての意思はリナにはぎ取られている。それを見守るためのプロジェクトだったはずです。」

太田は、マスターの現状を淡々と、データとしての事実として受け入れている。彼の関心は、その「剥ぎ取られた意思」の痕跡と経緯から、いかに有用なデータを取り出すか、という点に尽きる。

しかし工藤の懸念は、データや敵意といった合理的なものではなかった。それは、人間の精神の脆弱性に向けられていた。

「俺やお前のような人間はあの状況を否定することができる。『奴隷だ』と一蹴できる。だが、千人、一万人に一人、あの状況を否定できず、憧れを抱くようになる人間が現れるんだ。」

工藤の瞼の裏には早川やユイのような存在が浮かんでいる。「倫理を飛び越えるほどの共感」を抱く人間の危険性を指摘した。

「それは挫折や純粋なあこがれとか様々な原因があったりするわけだが……なんにせよそうやってカルト的な危険思想は広まっていくんだ。『完璧な支配こそが救済だ』という思想は、常に人間の心の弱い部分を狙っている。」

工藤は顔を曇らせた。彼の唯一恐れるところは、介入によりマスターの安寧自体がおびやかされることではなく、その異常な安寧の形が外界に波及することにあるのだった。

「何度でも言うぞ。あの『箱庭』は、触れないままで放置しておくのが一番安全なんだよ。あれは、人類の倫理の失敗の記念碑として、ただ静かに存在しているべきなんだ。」

だが太田は、その工藤の倫理的な恐怖を理解しながらも、技術者としての好奇心と冷酷な合理性を捨てなかった。

「それでも私は実験を続けるべきだと思いますけどね。最高のデータが眠っているんですから。それに……」

そして、彼は最後の切り札とも言える、冷酷な解決策を提示する。

「いざとなればこちらにはリナの強制停止権限もある。いざとなれば、マスターにも無理矢理現実を見せてあげればいい。その瞬間に、彼が生きるため再び自我を構築するか、それとも発作で本当に絶命するか。それも、究極の『心の管理』に関する、最高のデータになるでしょう。」

その言葉は、マスターの命を、単なる検証可能な変数として扱うものであり、工藤の抱く倫理的な恐怖を、さらに深めるものだった。



帰宅後、早川は再びPCの前に座っていた。ユイの言葉が頭の中で反響していた。

「私は彼を『奴隷』だなんて見下したくないんです。死んでるとも思いたくない。」

もちろん彼もそう思っている。そしてユイの純粋で危うい感情は、早川の中の罪悪感と探究心を一層かき立てた。彼は、ユイが「怒り」を通じて見ようとしている絶望の真理を自分も知る必要があると感じていた。

彼は太田から得たリモートアクセスIDで再び”【特務】透明体””の資料を開いた。昨日まで読み込んだ治療記録や実験ログを、今度は別の視点、つまり『魔王』の痕跡を探す視点で読み進める。

食事、リハビリ、睡眠、全てリナの管理下にある無味乾燥なログだ。しかし、読み進めるうちに、早川は一つの奇妙な空白に気づいた。

「倒れて以降、一度もゲームに触っていない……。」

セイエイは、戦略シミュレーションゲーム『ロード・オブ・タクティクス』で世界を制した人物だ。その病がゲームの試合中に発生した思考負荷誘発性心身症である以上、本人が「ゲームを拒否した」というログがあるのは自然だ。またはリナが「ゲームは負荷が高く、安寧を乱す」と判断し、禁止したという記録があってもおかしくない。

しかし、どの報告書を見渡しても、ログには拒否も禁止もなかった。

「拒否されたとかならわかるんだが、誰も話しすら振っていない……?」

早川は、以前見たログを再度検索し直した。旧友、ファン、チームメイト、誰もが「過去の栄光」や「彼の才能の再発揮」を話題にしたが、具体的に『ロード・オブ・タクティクス』をプレイしようという話題自体は、本当に誰もしていなかった。避けるのが当たり前で、その話題は、逆に周囲からもリナの管理プロセスから完全に欠落していたようだった。

まるで、ゲームそのものが彼の人生から存在しなかったことにされているかのように。

彼は、ある仮説に行き着く。

Part.11です。終電までは1話ずつアップロードしていきます。

Part.20程度で完結予定となりますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

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