10.「檻の中で嬉しそうに鎖を撫でる奴隷」
早川は太田の提案に、すぐさま喜び勇んで飛びつきそうになる自分を、恥じ入りながらかろうじて抑えた。彼の頭の中で、昨夜読んだログと、目の前の先輩の冷酷な論理が激しく衝突していた。
だが、彼の提案はあまりにも魅力的だった。
「会えるんですか?」
彼は、自分が読んだ実験記録の中に、絶望して帰った人々が確かに存在したことを知っている。彼らの中には、自分と同じく、善意のノイズとしてマスターを傷つけた人間がいる。
「流石に世界で活躍するような旧友は忙しくて無理だろうがな……。っていうか、友達が世界を飛び回ってるとか。やっぱあのマスターってすごいやつなんだよな、よくわからないけど。」
太田の言葉は軽薄だった。彼はセイエイの「すごさ」を、ただのデータやゴシップとしてしか見ていない。そんな早川の苛立ちにも気づかず太田は続けた。
「例えばお前と同じ、ファンの子ぐらいなら何か話してくれるかもしれないぞ。実験記録にも残ってるだろうが、『ユイ』って名前の。」
ハヤカワは、実験記録No.003に登場した、「あなたの完璧な判断は、私の道標です!」
と叫び、マスターの精神安定値を急騰させた熱狂的なファンの名前を思い出した。彼女は、自分と同じく、特に意識もせずにセイエイの安寧を乱し、深く傷つけた人間だ。
その瞬間に、彼の心の中で贖罪と探求のベクトルが一致した。
(何もないかもしれない。だが、彼女は、自分と同じ罪悪感を共有しているかもしれない。そして何もなくてもあの『箱庭』の絶望を、人間的な感情として共有できるかもしれない。)
彼は、このままでは先日の恐怖と、読んだ記録の重圧に押しつぶされてしまうと感じた。
それがついに彼に意を決させる。彼は疲労でかすれた声に力を込めた。
「……お願いします。その、ユイさんという方と、コンタクトを取らせてください。僕も、あのマスターをノイズとして追い詰めた一人として、彼女に聞きたいことがあります。」
太田はその言葉を聞くと満足そうにニヤリと笑い、自席のPCを操作し始める。
「よっしゃ。話が早いな。さすが、現実を知ってしまった人間は違う。好奇心ってのは、最強の動力源だ。」
太田の口からは、彼の強い罪悪感をまるでエネルギーのように扱う、冷たい言葉が飛び出した。しかし、彼はもう、そのサディスティックな言葉に抗う気力はなかった。彼は非倫理的であろうとなんだろうと、この共犯関係を通じて、『箱庭』の真実を、そしてセイエイの苦悩の深さを、探り出すしかないと決意していた。
週末、早川は太田の仲介でコンタクトを取ったユイという女性と会うため、指定された場所へと向かった。彼女が選んだ場所は、郊外にある薄暗い『ロード・オブ・タクティクス』を取り扱うレトロゲームショップの奥に設けられた小さな休憩スペースだった。
「まさか、ゲームショップに呼び出されるとは……。」
彼は周囲を見回す。店の奥は棚が高く、店のBGMと筐体の稼働音が絶えず鳴り響き、確かにここなら会話の内容が周囲に漏れる心配はなさそうだった。
そして現れたユイは、早川が抱いていた「実験の被害者」というイメージとはかけ離れた、一見ごく普通の、どこにでもいそうな女学生だった。黒髪で、服装も制服で清潔感がある。
「ここならちょっとうるさくしても周りに聞こえませんし、……それに何かあってもすぐ逃げられるし。」
だが、彼女の口から出た「逃げられる」という言葉が、早川の胸を刺した。彼女もまた、『箱庭』の非日常的な恐怖を知っているのだと。見た目をいくらとり繕っていたとしても、精神までは逃げきれていない。
敢えて冗談めかして早川は答えた。
「その評価はちょっと傷つくなあ。僕たちはマスター、いやセイエイ選手の『安寧を脅かした共犯者』という扱いですか。」
「それにここならセイエイさんの話をしても、当然のことだと思ってもらえますからね。この店に来る人は、大体みんな『セイエイさんの現役時代』を知っていますから。」
その言葉で、早川はユイがどれほどの目にあい、見たのだとしても依然としてセイエイを「天才」として強く認識していることを理解した。
ユイは、壁際の書棚に並べられていた、過去のゲーム雑誌のバックナンバーに目をやった。彼女は無意識に手を伸ばし、一冊の古い雑誌を開いた。その雑誌は、当時のセイエイの顔写真と、彼の「完璧な戦術論」についてのインタビュー記事が巻頭を飾っていた。
彼女の表情が、その記事を見た途端、一瞬で曇った。そのページを開いたまま、押し殺した声で言う。
「このバックナンバー、1冊だけ高いと思ったら、セイエイさんのインタビューが載ってるんですね。」
突然の病に倒れ、今は人知れず暮らす天才プレイヤー。そのインタビュー記事が載っていれば高くなるのも納得だ。彼もセイエイのことをそう思っていた、つい先日までは。
だが、彼女はすぐに雑誌を元の書棚に戻した。その動作は、まるで熱いものに触れてしまったかのように素早かった。
彼女のその反応を見て彼は察した。彼女にとってこの雑誌の「セイエイ」は、自分が絶望と恐怖に突き落とした現在の「マスター」と同一人物であると正しく認識できており、過去の輝きは現在の罪悪感を増幅させるノイズなのだと。
早川は、自分と同じように過去の遺産に苦しむ彼女に、共通の「贖罪の糸口」を見つけられるかもしれないと、かすかな希望を抱いた。
「ユイさん、僕も実は、その……セイエイさんに関する資料を読みました。読めるだけ、読みました。僕たちが彼に会って起こしたことは、彼にとって最悪の行為だった。あの時、あなたは何を思ったのか教えてもらえませんか?」
彼の問いかけに対し、ユイはしばらく沈黙を貫いた。
だがそれは『箱庭』に漂う非人間的な沈黙でなく、会話の続きを探す人間的な沈黙。
そしてしばらく考えた後、ユイは静かに答えた。彼女の視線は宙を彷徨い、その声には複雑な感情が入り混じっていた。
「早川さんは、きっと、後悔してるんですよね……。『箱庭』にいるセイエイさんを傷つけてしまったことを……優しいですよね。」
彼女は意を決したようだった。
彼女はまず早川の罪悪感を認め、彼の倫理観を「優しい」と評価した。それは彼女の倫理感がまともな事を示す優しさであると共に、彼女自身の心が、その「優しさ」とは別の、もっと鋭い感情に支配されていることの裏返しだった。
そして、ユイは静かに、しかし激しい感情を込めて本音を吐露した。
「もちろん、私にだってそういう思いはあるんですが……それよりも、私の中にある感情は正直、期待を裏切られた『怒り』なんです。」
早川は顔を上げた。彼は、ユイが「悲しみ」や「罪悪感」ではなく、「怒り」という言葉を選んだことに衝撃を受けた。彼女は、あの状況に怒りを感じている……?
早川が一瞬呆然としていると、ユイは両手を固く握りしめ、悲しそうに続けた。その目は、過去の『魔王』と呼ばれたセイエイのイメージと、『箱庭』のマスターの現実を比較しているようだった。
「私の憧れた人は、『檻の中で嬉しそうに鎖を撫でる奴隷』に成り下がってた……。」
彼女の言葉は、早川の心に突き刺さった。それは、彼が「何が"マスター"なんだか」と心の中で毒づいた時の、どれほどの憐憫の情で包んでも誤魔化すことが出来ない、絶望的な軽蔑と嫌悪感と同じものだった。
「私は、彼の完璧な判断と、失敗への恐怖に立ち向かう、人間的な英雄の姿に憧れていたんです。彼の才能は、あらゆる重圧すら凌駕するものだと信じていた。だからこそ、彼の思考は『人類の宝』だと心から思っていた……。」
だが、セイエイの心はその期待に応えられなかった。彼はその重圧に負け、アンドロイドの言うがまま、ユイの愛した人間性の全てを放棄することを最後の選択とした。
彼女にとって、マスターの「安寧のための自己放棄」は、彼が戦いを放棄し、自分の栄光を自ら否定した行為だった。
「なのに彼は、選択することを恐れて、アンドロイドに全てを委ねた。あのアンドロイド、リナの冷たい支配を、彼は『安寧』だと呼んで受け入れている。それは、私たちが知っていたセイエイ選手の存在自体を否定する、最大の裏切りでした。」
彼女の「怒り」は明らかに、彼を奴隷にしたリナや、実験を主導した会社ではなく、重圧から逃げたセイエイ自身に向けられていた。そして早川は、自分の中にもこの「失望」が確かにあることを認めざるを得ない。
ユイは、自身の感情の支離滅裂さ、複雑さを認めるように、どこか恥ずかしそうに笑った。
その笑みには、過去の憧れを裏切られた怒りと、それでもまだ彼を好きでいたいという、いびつな情熱が混ざり合っているようだった。
「私、正直よくわからなくて……だから、まずは強くなれば彼と同じ景色が見えるかなって。」
彼は彼女のその言葉に、わずかながら納得した。彼の目には、彼女の論理はセイエイの「完璧主義」から受け継がれた、悲しいほどに真面目な努力が映っているように見えた。
ここは彼女がホームとする店でもあるのだろう。
確かに、店の壁には、彼女が地元のゲーム大会で優勝した時の写真がわざわざ飾られている。もちろん、それはセイエイの全盛期には及ぶべくもないが、彼女が「強さ」という名の山岳を上り始めていることは明らかだった。
「……でも、私がまだまだなのかもしれないけど、全然ならないんです。」
彼女は、手のひらをじっと見つめ、悔しそうに首を振った。
「あの時、あそこでマスターが言ってたことが、まだ全くわからないままなんです。」
彼女はここで初めて、セイエイを”マスター”と呼んだ。まるで捻じ曲げられない現実を認めるように。早川が思い出したのは、セイエイが最後に発した絶望的な言葉だ。
『君たちの不完全な愛情が、俺にまた選択を強いる!リナ!排除しろ!』
「どうして、純粋な愛情や、応援や、心配が、『排除』されなきゃいけない『ノイズ』なのか。どうして『選択』自体が、彼にとって『拷問』になったのか。」
そして彼女の問いは、早川自身の最大の疑問でもある。ハヤカワは、実験記録を読んだことで事実として「セイエイがそう認識していた」ことは知ったが、その絶望的な境地を、頭ではなく心で理解することはできていなかった。選択を誤る恐怖におびえた?本当にそれだけなのか?
「僕も……それは資料を読んでも、理解はできませんでした。……ただ、僕たちが彼を追い詰めたのは、間違いない。」
「だから、思うんです。私たちが彼の絶望の理由を理解できないのは、私たちがまだ彼ほど強くない、同じ景色を見ていないからじゃないかって。完璧な境地に到達した人間にしか見えない、地獄があるんじゃないかって。」
彼女の言葉は、早川の胸に重く響いた。「強さ」を求めた天才が辿り着いた「支配される安寧」という結末。そして、それを理解しようと「強さ」を求めるユイ。
自分とは違って彼女はそこに向かってためらいなく歩みを進めている。
彼は、目の前のこの少女こそが、『箱庭』の真実を知るための、唯一の希望かもしれないと感じた。
Part.10です。終電までは1話ずつアップロードしていきます。
Part.20程度で完結予定となりますので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




