1.【特務】透明体
都心にあるアンドロイド開発会社の一つ、【サイネティクス・ソリューションズ】社。
近年アンドロイドは社会に普及してきたとはいえ、特に値段や汎用性の問題から一部の専門的な使用用途に限られているのが現状だ。
その課題に日々取り組む社員が在籍するオフィスルームは、昼下がりだというのに蛍光灯の冷たい光と、数十台のPCが発する単調な稼働音に満ちている。
そこで会社の新人研修を終えたばかりの早川は、暇を持て余し、社内ネットワークの共有フォルダを整理していた。
彼は、ファイル整理をサボっている先輩社員達の尻拭いをしながら、奥深くにあるセキュリティフォルダに目を留めた。フォルダには奇妙な名称が付いている。
彼はディスプレイの冷たい光を浴びながら、独り言のようにつぶやいた。
「あれ、なんだこのフォルダは? “【特務】透明体”? 凍結中?」
背後のコーヒーメーカーで休憩をとっていたのは、今は早川の教育係も務めている入社十数年の中堅社員、工藤だった。
彼は早川のそのつぶやきを聞き、マグカップの熱を確かめるように息を吹きかけた。
「ああ、それはな……今は何もしてないんだよ。俗に言うなら、昔の『ヤバい遺産』みたいなもんだ。」
早川は顔を顰めた。彼のデジタル整理の規範からすると、「何もしてないファイル」は即座に削除されるべきゴミだった。
「何もしてないなら片づけて欲しいんですけど? サーバーの容量も圧迫してるでしょう。」
彼はそのまま、会社勤務のアンドロイド(オフィス・アシスタント・アンドロイド)に、不要なファイルを削除する指示を出そうとキーボードに手をかけた。だが工藤はそれを制止する。
「待て待て、触るな。指示を出そうとするな。そのフォルダに入ってるデータ、倫理的価値は低いが、技術的価値は高いんだ。…おい、早川。」
変な言い方だと早川は感じた。その言われ方をして、はいそうですかとだけ言える人間がどれくらいいるだろうか。
そして、工藤は早川の向かいに座った。マグカップをデスクに置き、質問を投げかける。
彼の目が、何かを試すように細められた。
「お前、アンドロイドが何でもお前の指示を待たずに自分でやってくれればなと思ったことは?」
早川は笑いながら即答する。
「そりゃありますよ。朝食の用意だって洗濯だって、今日のタスクだって、勝手にやってくれればどれだけ楽なことか。フォルダだってすっきりして、毎日が休日ですよ。」
「それはいいな。そのまま朝食の献立はもちろん、今日どこに行くかとか、上司の俺に何を話すかまで全部決めてもらえばいい。楽だし間違いないぞ。失敗もストレスもない。ついでに俺も助かる。まさに完璧だ。」
まさにその答えを待っていた、と言わんばかりに工藤が言った。
彼の口調は笑っていたが、その言葉に含まれる絶対的な支配の響きに、早川は微かな不快感を覚えた。
「いやぁちょっとそれは……それって、なんというか、『飼育』じゃないですか。僕は手伝ってもらいたいのであって、やってもらいたいわけじゃない。自分の意思がないなんて、そんなの、生きてる意味がないですよ。」
工藤は、早川の予想通りの反応を見て、静かに頷いた。
彼のマグカップから立ち上る湯気が、オフィスの冷気をわずかに揺らめかせた。
「そうだな。お前が今まさに『飼育』だと感じてる、その境界線を扱っていたのが、その透明体のプロジェクトだ。」
彼は、凍結中と記載されているそのフォルダを指差しながら、その核心を簡潔に語った。
「”【特務】透明体”ってのは、挫折からそれ、つまり飼育……いや、あれはそんな生易しいものじゃないとは考えているが……を望むようになった持ち主と、その持ち主に対して異常な感情値を持つアンドロイドの記録だよ。アンドロイドは主人の安寧のためなら、外界の倫理も会社のプロセスも、そして何よりも主人の意思もすべて排除する。そして当の持ち主はそれを『究極の幸福』として受け入れている。その記録だ。」
彼は、プロジェクトが中断された理由についても付け加えた。
「もちろん他にはない現象だからな。昔は研究のために色々干渉してたみたいだが、リナ…アンドロイドが創造主であるはずの会社にまで警告を発したことと、倫理的な問題が複雑化しすぎたからっていう理由でやめたみたいだな。だから今は凍結だ。アンドロイドから形式的に報告を受け取るだけで、他は何もやっていない。
……あ、おれもその持ち主と話したことあるぞ。昔、仕事で定期的に持ち主の『機能的生存』を確認するっていう、妙な業務でな。」
早川の興味と恐怖が混ざり合った。
彼は、オフィスの冷たい稼働音の中で、その「人間を飼育するアンドロイド」の存在を具体的に想像しようとした。
「……どんな人なんですか?その、持ち主は。」
工藤はマグカップの残りを一息に飲み干すと、顔を顰めて答えた。
「仕事ならともかく、プライベートで話すのは御免な相手だ。不気味だし、信じられないくらいつまらない。しかも、アンドロイドの方は怖いし……何より、あいつが発する『安寧の論理』を聞いていると、こっちの正常な倫理観が壊れるような気がするんだよ。物言わない死体と話してる方が悪影響がない分だけマシだ。」
工藤は立ち上がり、空のマグカップを置いてオフィスを出て行った。
まだそこからは湯気が立ち昇っている。
早川は、背中に冷たいものを感じながら、ディスプレイの”【特務】透明体(凍結中)”というフォルダ名から目を離せなくなっていた。彼の頭の中には、完璧な管理という名の檻と、その中で『死体のように生きる持ち主』の姿が焼き付くようだった。
何よりも早川は、工藤が触れるなと言ったフォルダのデータではなく、先ほどの工藤の言葉に引きつけられていた。彼は、その「持ち主」のその後が気になって仕方がなかった。
戻ってきた工藤を食い入るようにを見つめて彼は聞いた。
「もしかしてこの人って今も無事なんですか?」
工藤はフッと笑い、肩をすくめた。
彼にとって、この存在はもはや会社の奇妙なアトラクションのようなものだった。
「それは当時のプロジェクト内の『機能的生存』のことを聞いてるのか?ま、肉体的な意味なら元気だぞ?」
工藤は早川のマウスを取り画面を操作すると、”透明体”のフォルダ内にある「最新ログ」という暗号化されていないファイルをあっさり開いた。そこには、リナから形式的に送られてくる主人のバイタル報告書のファイルが並んでいる。
「ほら、これだ」
早川の目の前に表示されたのは、すべてが『理想値』で埋め尽くされた数字の羅列だった。
彼自身の健康診断の結果よりもいいのは明白だ。
血圧、心拍、ホルモンバランス、すべてが完璧な安定値を示している。彼の目には、その異常なほどの健康状態が、まるでSF映画の冷凍睡眠カプセルのデータのように映った。
彼は思わず息を飲んで感嘆の意を表した。
「すっげー……完璧じゃないですか。」
「おう、機能的には完璧に健康だ。外で暮らしてる俺たちの10年は若いかもしれんな。なにせ、あのアンドロイドの管理下じゃ、ストレスも不規則な生活も病気もありようがない。」
工藤は笑いながらそういうとマグカップを手に取り、オフィスのドアへと向かい始めた。
「そして、その異常に健康な持ち主とアンドロイドが住んでる家もまだある。会社が『介入しない監視プロセス』を継続させてるからな。」
工藤は最後にこともなげに言った。
「プロジェクトではその場所のことを『箱庭』って言ってたな。でもあんま調べ過ぎんなよ。何度でも言うが既に凍結されたものだし、覚えといてもいいことないぞ。」
『箱庭』。それはその場所の美しさを示しつつも、どこか恐怖に似た完全性をはらむ言葉。
ドアに手をかけ、最後に工藤は顔だけを早川の方へ向けた。
彼の表情は明らかに人間らしく、警告の色を帯びていた。
「あんま調べ過ぎんなよ。覚えといてもいいことないぞ。」
ドアが静かに閉まり、工藤は去った。早川は再び一人になり、目の前のモニターに表示された完璧な健康の数字の羅列と、その裏にある倫理的な虚無を前に、しばらく動くことができなかった。彼の頭の中では、「飼育」という言葉が不気味に響き続けていた。
工藤が去った後、オフィスには再び他人の喧騒と打鍵音だけが響いていたが、早川の心臓は以前より速く脈打っていた。
「あんま調べ過ぎんなよ。覚えといてもいいことないぞ。」
冗談じゃない。
そんな忠告だけで、サイネティクス・ソリューションズ社に入れるほどの知的好奇心が収まるわけがなかった。
彼の仕事は、まさに「異常」の存在を突き止め、それをシステムに組み込むことそのものだった。
早川は、先輩に言われた通りにする代わりに、セキュリティレベルが低い”【特務】透明体”のフォルダの中を手当たり次第に漁り始めた。持ち主である“マスター”の日次ログ、アンドロイド”リナ”の行動記録、そして2年前に遡るプロジェクト立ち上げ時の初期ドキュメント。
資料の数は膨大だったが、彼は疲労を全く覚えなかった。完璧な健康と、その裏にあるアンドロイドによる究極の支配。その物語があまりにも奇異で、危険ささえも漂わせるほどに魅力的だったからだ。
そんな時、彼の視線が、初期ドキュメントのヘッダーに記載された持ち主の氏名に留まった。
「というかこの人の名前、どっかで見た記憶あるんだよな……」
彼の頭の中で、その名前は会社の堅苦しい報告書とは全く別の、熱狂と勝利の光景と結びつこうとしていた。その記憶は、仕事とは無関係の、彼が夜な夜な楽しむ趣味の領域に深く埋まっている。しかし、その結びつきはまだ朧で、確信に至らない。彼は、この名前が持つ意味に気づく一歩手前で、キーボードを叩く指を止めた。
この『箱庭』の主人が、かつて、いや今も彼自身が熱狂した世界の頂点にいた人物だとは、まだ知らない。そして、その過去が掘り起こされたとき、この凍結されたプロジェクトが再び動き出すかもしれないことを。
療養中に一気に書き上げました。
既に完結したデータがあるので、定期的にアップロードしていく予定です。
20part程度で完結予定ですので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。




