なんとなくで始まった恋だから、
交際中男女の初めてのお泊まり、その深夜の逃避行の一幕。
彼女の一人称。
ほとんど出てきませんが、彼の名前は高瀬くん、彼女の名前は南雲さんです。
ついでに友人の名前は仲川くんです。
深夜十一時、コンビニの外で肉マンを食べる。
こんな時間に、とか太る、とか、今は考えない。
ありあとあっしあーなんてろれつの回ってない店員の声を背中に店の外に出れば、この時間、住宅街なんて人気もない。
高速道路の車の音を遠くに、しんと鼻を突く夜のにおいと一緒に冬の寒気が肺を満たして、ふわっと鳥肌が立った。パーカー一枚ではさすがに薄着が過ぎる。
一つだけ買った肉まんを半分に割ると、あまじょっぱいにおいと一緒にもわりと湯気が立って、ふうッと一息吹いてがぶりとかぶりつく。もふもふの皮の甘みと肉のうまみが一口目に来る。
ジャクジャクのタケノコと味のしみた肉とシイタケを奥歯で噛んで、喉の奥に流し込んだら、もう一口。もう一口がもう一口で、肉まんはあっという間になくなった。もぐもぐ咀嚼しながら、包み紙をくしゃりと丸めて燃やすごみばこへ。
それだけでもう手持無沙汰になって、ここにいる意味もなくて、でも帰りたくなくて、パーカーのポケットに両手を突っ込んで、空っぽの駐車場の縁石の上に座る。
コンビニの灯りと外灯のほの暗さに浮かぶ街並みをぼんやり眺めていれば、暗い道の奥からママチャリに乗ったオジサンがちょりちょり外したチェーンの音を立てて、よろよろ走り去っていった。はふぅ……と息をつく。
やってることが中学生の家出と変わらない。
帰らなければいけないとわかっているのに帰りたくないなんて、まんま子ども。コートも荷物も財布もケータイも忘れて飛び出してきた。
ポケットに入れっぱなしにしてた夕方の買い物のおつり百五十二円で肉まんを買って、残り二十円足らず。持ってても落としそうなので、レジ横の募金箱に投下して無一文。
でも、おなかがあったまって、ちょっとだけ頭がさめた。
帰宅の足はなくなった。これであの部屋に帰るしかない。
徒歩圏内のコンビニにいるのだからたやすいこと。きっと空っぽの部屋に気づいたあの人は今頃、わたしを探してる。優しい人だから。だから時間の問題。
この逃げが試し行動で、絶対探し回ってるってわかってて、あの人のそんな優しさに付け込んでるなという自己嫌悪で喉が詰まる。自業自得。
それでも衝動的に飛び出したのは、頭を冷やす猶予が欲しかったから。心にもない言葉が飛び出してしまう前に、聞きたくない言葉を聞いてしまう前にインターバルが欲しかった。結局自分の都合でしかなくて、そのうち自己嫌悪の地層ができそう。
はぁ~とため息をついたら、肉まん臭かった。ほんとにもう、締まらない……。
お付き合いしてる人にお泊りに誘われた。
交際期間四カ月。周囲からうかがい知れる情報よりちょっと遅い気がしないでもないが、まぁころあいかとうなづいた。
彼の独り暮らしの部屋には何度も行ったし、遅い時間まで居座ったことなんてそれこそ何度もある。
そのたび終電には間に合うように帰されて、きちんと家に入って施錠の確認をするまで、何度も連絡を寄こされるくらいには大事にされてる。
でも、それは友だち期間でもしてたので、彼にとっては特別なことじゃないのかもしれない。
彼はとにかく優しい。
そっけない態度としゃべり方で女子受けは悪いけど、同性の友人や先輩後輩からは信頼されてる。
そっけなさの壁を乗り越えたら意外と世話焼きで、親切で、それは近づけば近づいただけわかる。
参考書で重いカバンをそれとなく奪ったり、車道側を歩いたり、咳をしてたらのど飴をくれたり。
冷房に震えてたらパーカーを膝にかけてくれたり、飲み会で悪酔いする先輩からさりげなく遠ざけてくれたり。
横断歩道を渡る杖のおじいさんと並んで歩いたり、電車に乗るお母さんのベビーカーを持ったり。
購買で最後の一個に鉢合わせると相手が何も言わずとも自分が手を引いて、荷物の重そうなおばあさんが階段を上ってると、急に声掛けするでもなく黙って斜め下にいたりして、本当に危ないと思われる場面では手を貸して。
誰にも何も言わないで。
とくに無理してる様子はなく、目についたからみたいに自然にそうしてる。
些細なことだけど、そういう行動は、一度気が付くと目に留まる。
困ってる人に手を差し伸べることをためらわないって、自分にはできないことだから、割とすぐに尊敬する人のカテゴリーに入った。
行動に優しさがにじみ出ているとはこういう人かと納得するような、ちょっと損なんじゃないかと心配な、そんな人。
そんな人だから、わたしに対する優しさも特別なことじゃなく、友だちの延長にあるのではないかと、そう疑ってしまうのだ。
大事にされてる。それはわかる。
優しくされているとわかる言動が、友だちのころから変わらないから混乱するのだ。
それにいわゆる『恋人同士の接触』というのが『手をつなぐ』までなのは、二十歳を過ぎた男女としていかがなものだろうか。
健全だ。
健全すぎて不健全だ。
だからお泊りというのは、健全と不健全の一線を踏み越える行為なわけで。
せめてキスぐらいは進展ができるんではと、期待してしまったわけで。
でも何事も起きなかったわけで。
もやもやしてしまって、彼が風呂の準備をしている隙に、わたしは部屋をとび出してしまった。
なんとなくで始まった恋だから、なんとなくで終わってしまうのかもしれないって。
それがやだなって思ったとき、あの人に恋をしてしまったのだと、すとんと胸に落ちた。
大学で出会って、とってる授業が重なって、話してるうちに気が合って、近くにいるのが自然になった。
そこから友人関係を一年。
きっかけは「お前らもう付き合っちゃえよ」なんていう、友人の軽口。
笑って流そうとしたわたしに、きまずそうに「……付き合う?」なんて見下ろしてくるから、きょとんとしてしまって、
おもわず「うん」とうなずいていた。「じゃあ、よろしく」で始まった。
好きかどうかなんてわかってなかった。この時は、まだ。
付き合いだしてからもふたりで出かけたり、部屋に遊びに行くことが増えただけで、距離感は友だちのまま。
恋愛に関しては晩熟で、恥ずかしながら男女交際なんて初めてなものだから、こんなものなのかな? なんて思ってたけど、恋をして思う。
これは『友だち付き合い』であって、『恋人付き合い』ではないんじゃないか、と。
そう思ったら、じんわり汚れが染み出てくるみたいに不安が顔を出してきた。
この関係は、彼の優しさに付け込んでいるのではないか。
あの時の「付き合う?」は彼なりの冗句で、真に受けたわたしに合わせて、お付き合いごっこをさせているんじゃないか。
だからキスも、その先も、そんなそぶりも見せないんじゃないか。友人のラインを超えないんじゃないか。
彼はわたしといるこの時間に何か得るものがあるのだろうか。
……彼はわたしを好いてくれているのだろうか。
自覚してからの一カ月弱。
態度に疑問を持ち、距離感に疑問を持ち、このままこれでいいのかと自問自答し、よくないな、と自家中毒を起こしそうなところに提案されたのが、お泊りのお誘い。
何かがよくないのは鈍いわたしにもわかっていて、でも何がよくないのかわからなくて、いっそ行動に移してみればわかるものがあるのかもしれない。
正体不明の期待に一日そわつきながら、寝る段になって、とうとうもろもろがはちきれてしまって、今。
や、でも、お客用布団出されるとは思わなかったわけで。
それなりに覚悟も期待もしてたので、その落差にがくッときたというか。ふくらんだ風船に針を刺された気分というか。
お互いシチュエーションもコンディションも万端なのに、そういうことにならないというのは、つまりその気がないってわけで。
あれでなんだかがっかりというか、やっぱりというか、やるせなさが突き抜けてしまったわけで。
なんでかなあ。
どうでもいいことはずっと話してられるのに、肝心な話は切り出せない。弱虫だ。
キスしたいならしたいって言えばいい。その先をする気があるのか気になるなら、聞けばいい。それだけのことなのに怖気づいている。
したいと思うのはわたしの気持ちで、彼にそんな気がなかった場合、わたしはこれからどうやって、彼と付き合って行けばいいんだろう? それがすごく怖い。
どういう気持ちで彼が私と付き合ってるのかがわからないからこんなにもやるわけで、好意は持たれてるんだろうけど、それが友情なのか恋愛なのか、はっきり聞いたことない。……あれっ? これブーメランでは?
物思いに沈んでいたら、ふ、と前方に気配を感じた。顔をあげれば、息を切らした彼の姿。
「こんな時間にフラフラすんなこの馬鹿!」
トレーナー一枚にサンダルの姿に、人のことはいえないが寒そうだな、なんてぼんやり思ってたらカンッと声を荒げられて首をすくめた。こんな大声聞くの初めてだ。
「でも、冬だし。誰も通らなかったあいやウソ、自転車乗った通行人しか通らなかったし……」
「不審者に冬も夏もあるか! 暗がりに横道から引っ張られたり、車に引きずり込まれたら、お前なすすべもないだろうが! 頼むから、もっと危機管理しろ……」
息切れしながらしゃがみこんで腕に顔を伏せる彼が、どはぁとため息を吐く。その肺活量が彼の心配を物語る。
つむじを見ながら、都会じゃそんなこと考えて夜道を歩かなきゃいけないの? と思ってしまったコンビニがキロ単位で離れてるど田舎出身者。夜道で怖いのは野生動物の出没の方。
いや、実際迂闊だった。普段は気を付けているというのに、気を抜くとすぐ地金が出る。
「ごめんなさい」
「いないって気づいて、心臓止まるかと思った……」
「なるほどここにいるのはゾンビ」
「茶化すな」
「ハイ。心配かけて、ごめんなさい」
視線でとがめられ、素直に謝る。
ほんとに探し回ってくれたんだな、とか心配かけて申し訳ないな、とかやっぱり優しいな、とか。
夜風に乗って彼のにおいが鼻に届いて、胸がきゅうと切なくなった。単に寒さが身に染みただけかもしれないけど。
すう、と息を吸って、センチメンタルを追い出す。彼の部屋より外の方が冷静に話せるかもしれない。
「はっきりさせよ」
「……何を?」
「これからのわたしたちの関係について、ちゃんと話したいっていうか……」
なんと切り出したものか。もたもた考えながら視線を彼からずらす。この時わたしは気付かなかったのだけど、前髪の奥で彼の目ははっきりと傷ついていた。
「別れない」
切り込むようにかぶせられた否定だった。
わたしは一瞬あっけにとられて、その間を何ととらえたのか、彼はがばりと顔を上げ、逃がさないとでもいうようにぎゅうと二の腕をつかんできた。
「嫌だ。絶対別れない。なんでそうなるんだ」
「や、そうじゃなくて、」
「俺のこと嫌いになった? 魔の三か月だって過ぎたのに、最近よそよそしかったのは、タイミング計ってたのか? 急に急にいなくなるし、そんなに、俺といるのが嫌?」
眼が座っている。つらつら頓珍漢なことを言い募るものだから、こっちの言葉が追い付かない。
しまいにはうなだれて、しょんぼりという形容詞がぴったりな声で、ぼそぼそ核心的なことをささやいた。
「俺は、お前のことこんなに、好きなのに……」
「えっ!?」
「えっ?」
「好きなの? わたしのこと」
「えっ、好きだよ?! 好きじゃなきゃ付き合うなんて言わない……」
ぽかーんと見つめ合って、沈黙。
冷たい風がぴゅうとお互いの間を吹き抜けるのが、なんだか間抜けだった。
彼はわたしの二の腕をつかんでいた両手を外し、す、と姿勢を正して視線を合わせてきた。わたしも黙ってそれに倣った。
なんか、お互い、行き違いがあるな?
「……なんとなくで始まってしまったから、なんとなくて終わってしまうかもって、思ってた。だって高瀬くん、好きって言ってない」
「……言ってない?」
「今まで、一回も」
うなづけば、彼――高瀬くんは、頭を抱えてしまった。
内省中のところ悪いけど、この勢いで言いたいことを言っちゃおう。
「でも、それはわたしもって、さっき気づいて。わたしも、自分の気持ち、ちゃんと伝えてなかった。
付き合って、恋しちゃったなって自覚してから、わたしも何も言えなくなっちゃった。
高瀬くんの隣が居心地よすぎて、このままでいいっていうのと、このままじゃだめだっていうのがせめぎ合っちゃって。
あのね、話したかったのは、ちゃんと恋人同士になりたいって、言いたかったの。
なんとなくで終わらせられる関係じゃなくしたいから、高瀬くんの気持ちを聞きたかったの」
でも、聞く前に言ってもらっちゃったから、あとは彼の愛想が尽きてなければ、という話なんだけど。
「……なんか言って」
「……待って……噛み締めてるから……同時に猛烈に反省してるから……ちょっと待って……」
両手で顔を覆って微動だにしなくなってしまった。いくらでも待つけど、その反省はわたしこそしなくちゃいけないことだと思うのだけど。
「好きだよ」
好意を手のひらに乗せてそっと差し出すような声だった。
「ちゃんとした始まり方ができなくて、ごめん。言葉が足りなくて、ごめん。悩ませて、ごめん。
好きだよ。先に好きなったのは俺の方。
付き合うことになったとき、お前が俺のこと、恋愛的に好きじゃないってわかってた」
ギクッと肩がはねた。でも、やっぱりばれるよなぁと納得した。わたしは隠し事が苦手だし、顔に出るし。彼はちょっと抜けてるところもあるけれど、他人の些細な変化によく気付く気遣い屋さんだ。
「やっぱり、わかっちゃってたか。こっちこそ、ごめん」
「いいんだ。挽回したくて、そこから好きになってもらうために必死だった」
「必死だったの? わたしは、自覚してからの方が必死だった」
「いつも通りだったじゃん。友だち感覚のまま、いっこう進展しないし……」
「や、自覚したから、進展させたものかさせないものか、悩んだんだよ。そっちの方こそ、どういうスタンスでお付き合いしてるのか、わたしからしたら謎だったので」
「けっこう露骨に彼女扱いしてたと思うんだけど」
「だってそもそも、友だちのころからずっと、優しかった。彼氏になってからも同じ感じで優しいから、友だち扱いか恋人扱いかわかんなくなっちゃったんだよ」
また頭を抱えさせてしまった。
なるほど、つまりあの居心地の良さを感じていた間ずっと、わたしは想われていて、好きな人扱いで、恋人扱いだったのか。なるほど、なるほど。ふぅん。……なんだかおもはゆい。
「わたしの方こそ、逃げちゃってごめん。鈍くてごめん。言葉足らずでごめん。
好きだよ。好きになったよ。ずっと優しくしてくれて、待っていてくれて、ありがとう」
彼の目がじんわりうるんで、耳と目元が真っ赤になった。
小さな声で「こっちこそ」と答えてくれたのが聞こえて、わたしの耳も熱くなる。
三十秒ほどでたてなおした彼は、勢いよく立ち上がると、わたしに手を差し伸べて立ち上がらせた。
寒いところでずっと同じ体制だったから、足がじんとしびれてつかまれた手が温かく感じる。
そうしてわたしたちは、手をつないで帰路についた。
わたしの短い逃避行はこれでおしまい。
結局待たせてしまったのはわたしの方で、あいまいな状態をキープさせていたのもわたしだった。
彼もはっきりしなかったのは悪いけど、そこに悪乗りして流されるのもよくなかったな。
お互い言葉にするのに慎重になりすぎてしまっていた。
まだ四カ月。もう四か月。わたしが友だち以上になりたいと思い始めて一カ月。彼はそれ以上前から。
何しろ初めて尽くしで、正しい恋人同士の手順なんかまったくの未知なのだ。
聞きかじった知識が正解じゃないとこれで分かったので、相互理解のための会話と、踏み込む一歩を進めたい。肉体接触からわかることも多いのだろうけど、もう少し、思ってることをお互いに言えるようにならないと、不安が残る。それはお互いによくないのでは?
……でもなぁ、正直、好きと自覚してから、彼に触りたくてしょうがないんだよな。単純に、安心するから。
流されるのは止めにすると決めたのだから、わたしから積極的に行動しても問題ないのでは?
つらつら頭の中で反省と改善を洗い直していたら、隣からまた深ーいため息。
「泊まりまでこぎつけて結局逃げられるし、トラウマになりそう……」
「お泊まりはね、いやじゃないの。ちょっと頭冷ましたかっただけ。あと、あいまいなまま関係を進めて後悔しないかなってチラッと思っちゃって。逃げたのは悪かったって思ってるのよ本当に」
「じゃあ今はいいの?」
つないだ手に少し力を込められて見上げれば、まぁ、どこに隠していたんだろう?
わくわく期待するような、とろとろ熱のこもった、今まで一度も見たことのない視線。
全然、優しそうじゃない視線。
なるほど、彼は彼で、我慢してたのか。させていたのか。なるほど、なるほど。……そっか。
「わたしたち、もっとお互いを理解し合う時間が必要だと思うのだけど、どう?」
つないだ手をそっと引いて言ってみれば、いつも歩調を合わせてくれる足が急に速くなって。
わたしは夜だというのに声を上げて笑った。
:以上
(いうて、この夜はキスどまり。彼の方がトキメキでこれ以上進まん)
言葉にするって本当に大事なことですよ。