はじめて話せた日
俺は、精神科なんて、無縁だと思っていた。けど、俺はその白い部屋に座っている。
白い天井に、人工的な光。そして、どこか乾いた薬品のような匂いが、鼻を刺す。
胸の奥が、あのときと同じような感情を感じて、ざわついた。
その時、白衣の男が口を開いた。
「初めまして。私、精神科医をしております。」
「佐藤光希です。よろしくね。斉藤海馬君。」
俺は、心のどこかで期待をしていた。
けれど、もう疲れた。
どうせ期待してもどこかで裏切られる。
「よろしくお願いします。」
と言った。
けれど、心のなかで、(これでなにかが、変わるわけじゃない。)と思いながら。
声はどこか遠いような気がした。
――精神科に来たのは、学校へ行けなくなったからだ。
今日は学校へ行こうと思い、学校の敷地内に入ったら、駐車場で動けなくなった。
吐き気、動悸、落ち込んだ気持ちが、一気に押し寄せて、動けなかった。
帰ることしかできなかった。
そのことを母に話した。
「今日学校行けなかった。」
母はいつもだったら「そう。」としか言わない。
けど、その日は違った。
「どうして行けなかったの?」
母は心配したような声で、聞いてきた。
こう聞かれたのは、初めてだった。
その声に、少しだけ喉がつまった。そんな風に心配されるのが新鮮すぎて、どう反応したらいいか分からなかった。
俺は、そのときのことを話し始めた。
最初は言葉が詰まった。けど、母の顔を見たら少しずつ話すことができた。
「学校の駐車場に入るときに、段々気持ち悪くなった。……あと動悸が早くなった。それで、何とか帰ってきた。」
母は、話してくれた喜びと、なぜそうなるのかわからない困惑を抱えた声でこう言った。
「……そう。辛かったね。しばらく学校は休もうか。……先生に相談してみるね。」
母は、その日の夕方先生に電話をしたらしい、すると―――
「一度精神科の方で受診された方がよろしいかと思います。」
って言われたと、母は言っていた。
だから今、俺ここにいる。
光希は、こちらの様子を急かさずに、ただ静かに待っていた。
その沈黙が妙に心地いいのが不思議だった。
緊張していた肩が、少しだけ下がるのが分かった。
「……あの、学校に、行こうと思ったんですけど……駐車場で……」
言葉が途切れ途切れになる。
けど、それでも……話そうと思えた。
この人なら話せる。
そう思った。
光希は頷いて、まっすぐ俺を視ていた。
「……それは………とても辛かったよね。体が動けないぐらいに。」
―――辛かった。
―――分かって欲しかった。
呼吸が段々早くなる。
でも、誰にも言えなかった。
分かってくれなかった。
その時の感情が、今になって込み上げてくる。
「でも、それを話せるのは、ちゃんと、見つめている証拠。本当に勇気がいること。話してくれてありがとう。」
胸の奥が少しだけ温かくなる。
でも、すぐとなりで冷たい声が呟く。
(どうせ、分かっているふりなんだろ。期待しちゃダメだ。)
頭の中が、少しざわついた。でも――
それでも、光希の声は、どこかちゃんと届いていた。
この人ならちゃんと聞いてくれる。
それだけで、怖さが、ほんの少し薄れた。
俺は少しずつゆっくりとアネンのことを、話し始めた。
「……変なことを言ってもいいですか?」
光希は少し沈黙した後、柔らかい声で答えた。
「もちろん。どんな話なの?」
俺は、少し呼吸を深くしてアネンのことを話す。
分かってくれるのか、それは俺には分からない。
少し怖い。けど、話すべきだと思った。
「……俺、一度死にかけたんです。そのとき、"白い光"が見えたんです。すごく、安心して……全部どうでも良くなるような。……その声はアネンって言うらしいんです。その声を、アネンを、聞いた気がするんです。」
光希は目を細めて少し頷いた後、一拍をおいて静かに言った。
「その、アネンって言葉どっかで聞いた気がするな。………なんでだろうね。」
光希は一瞬、目線を宙へ動かした。その目線の奥に、なにかを探すような影があった。
「……でも、君と同じように髪が根本から白くなっている子が、昔来たことがあるんだ。」
「その子も、アネンのことを……いや、気のせいだったかな。」
「まぁ、関係あるか分かんないけど。」
いつもだったら俺には関係ないと無視する言葉。
それが今日は引っ掛かった。
「……その子の、名前って分かりますか?」
光希は、なぜそんなことを聞くのかわからない、と言う顔をしながら、親切に答えてくれた。
「さぁ、なんだったかな?……ごめん、思い出せないや。」
なぜだろう。思い出せないと、言われてもどこかで、その人のことを知っているような、繋がっているような、そんな気がした。
その後は、学校のこと家のこと、アネンのことは話してないけど、少しずつ過去を喋れるようになった。
話をするたび、光希は待つように静かに、でも確かに、俺の話を聞いてくれた。
そのようすは俺の中で始めてだった。
ここまで話を聞いてくれた人はいた記憶がない。
俺は素直に嬉しかった。
救いと、安心を光希に感じた。
ここまで自分のことを喋ったのは、幼稚園以来だった。
精神科のカウンセリングが終わった。
扉の先では、母が待っていた。
「どうだった?」
心配していたんだろう、受け付け番号が書いてある紙が、シワだらけになっていた。
あの白い部屋で話したことが、嘘のように、現実の空気が、少しだけ、吸いやすかった。
精神科の帰り、中学生ぐらいの女と目が確かに合った。
白い髪、虚ろな目、俺と同じだった。
胸がざわめく。
なぜだろうか、分からないけど、分かるような気がした。
何も言えなかった。だけど、気になって仕方がなかった。
気づいたら、彼女の姿を目で追っていた。
「どうしたの?」
母が聞いてきた。
「……何でもない。」
まだ母の態度に馴れてなくて、ぶっきらぼうに言ってしまう。
本当はちゃんと言いたいのに。
言えなかった。