死に触れた朝
俺は、生きたくなかった。
けど、死ぬ理由もなかった。
「海馬!!起きなさい!!」
耳をつんざくような母の声。
朝はいつだって、憂鬱の始まりだ。
それでも毎日は、勝手にやってくる。
望もうが、望むまいが。
俺、斉藤海馬は朝が嫌いだ。
どんなことを試してみても、結局母(斉藤香住)の声、それだけしか、俺を現実に引き戻すことは出来なかった。
目覚めた瞬間から、心の中に空洞を感じる。
もともと何があったのかも分からない。
息をする度に胸の奧が軋む感覚がする。
まるで、不完全のように。
朝が嫌いなのは、今日は何も変わらないと分かっているから。
朝の光が、俺を急かすように輝いていた。
テレビは偉人の格言を報道している。
「今日を精一杯生きなさい。」
そんなの綺麗事だ。
無責任だ。
そう思ってしまう。
考えを放棄し玄関に向かう。
「いってらっしゃい」
母が言う。
その言葉は、まるで古いテープレコーダーの再生音みたいだった。
音はあるのに、心がない。
ぬるい風のように、俺の穴をすり抜けていく。
人の形をした何かが、愛の形をなぞっているだけ。
そんな感覚が、胸の奥で冷たく澱んでいた。
俺は宮城県の中学校に通っている。
自分でも不足はしてない。
そう思う。
でも、なにか物足りない。
そう心が語る。
置き忘れられているような感覚。
恵まれているはず。
それなのにどうしても満たされない。
普通に話したりしている。
友達もいる。
今日も授業を受ける。
ふと、思い出すことがある。
小学四年生のときだった。
皆に笑われた。
何気なく口にした将来の夢を。
幼稚園児みたいな夢みてんじゃねーよ。
そう言って。
それ以来、人に何かを伝えたりする時に言葉が詰まるようになった。
自分を伝えることが、怖くなった。
この気持ちを周りには言えない。
言ってしまったら、きっと馬鹿にされる。
「そんなの皆抱えて生きている。」
「大丈夫だよ。」
きっとそう言われる。
だから言えない。
皆が抱えているのだ。
俺にとってそんなの慰めにならない。
関係ない。
そう思ってしまう。
涙が溢れてしまう。
だから伝えられていない。
俺は無難に生きてきた。
大人の言うことはとりあえずやってきた。
そんなとき、ふと思うことがある。
このままでいいのか。
なんて考えるが、結局なにもしないんだろう。
ある程度自分でわかる。
夢も目標も無く、ただ生きている。
どうせ何も変わらない。
それならこのまま消えてしまうのも――。
そう思うことがある。
そんな毎日だ。
笑っても泣いても、心にただ空気が通り抜けていくようだった。
穴を埋めるものが一体何なのか、自分でも分かっていない。
どうして俺は、いつもこうなんだろう。
自己嫌悪が走る。
その朝、空気がざわめいた。
足音が少しずれている。
鳥がいつもより静かだ。
いつもと違う。
確かに、そう感じた。
俺の通学路には一つだけ横断歩道がある。
歩行者分離式の大きい十字路だ。
そこを渡ればすぐ中学校だ。
ただ、信号の間隔が長い。
信号が早く変わらないかなと待っていた。
そしたらーー。
"ドンッ"
鈍い痛みを伴った音がなった。
痛くて声も出せなかった。
背中に、何かがぶつかった。
男の人の肩だ。
その人は謝る素振りも見せない。
まるで確認する。
俺の奧の奧を視る。
鯨の腹のように白い。
そんな目だった。
その男は音もなく人混みの中に消えていった。
足がもつれる。
気づけば、車が、物凄いスピードで向かってきている。
ここで死ぬのか。
そう思った。
そのときだった。
校庭を走る友達。
母の微笑み。
あの頃の暖かさが、脳裏に溢れ出す。
それと同時に、大量になにかが俺の脳を蕩けさせている。
それが俺の脳から出てるのを感じる。
これが走馬灯ってやつか。
「海馬遊ぼうぜ!」
小学校の校舎。
あの頃の声、匂い、感触。
友達の遠ざかる背中。
それを遠くから優しく見守る母の姿。
暖かいのにどこか、遠い。
届きそうで、届かない。
記憶が浮かんでは消えていく。
脳がまだ死にたくない。
そう訴えている。
しかし、心は囁く。
こんな毎日に戻らなくて済む。
もう馬鹿にされることも。
なにかが満たされない日々も。
大人達の言うことを無難にこなす日々も。
もう来ることはないんだ。
車と衝突した。
意識が遠のいていく間、胸の奥から何かがゆっくりとほどけた。
そして、白い光の中に消えていった。
肉体を抜け出すような感覚。
不安や物足りなさ、疑念がすべてやさしい白に溶けていった。
どこか懐かしく、そして暖かい。
「これが死なのか」
確かにそう思った。
でも少しも怖くなかった。
むしろ本当の自分に会えた。
そんな気がした。
「海馬起きて。」
お母さんの呼ぶ声がして現実に引き戻されてしまった。
まるで別の世界から聞こえてくるようだった。
「……あ、ああ……」
口からもれたのは、虫の羽音のような細い声だった。
意識が戻った。
それは喜ばしいことの筈。
それなのに。
どこかに置き忘れられたようだ。
そんな感覚が残っている。
まだ、あの光の中にいたい。
不安も何もかもなくて、浮遊感と幸福しかない。
白い光の中にいたい。
そう思ってしまった。
「よほど怖かったんだね。」
母の優しそうな声が聞こえる。
そんなことはどうでもよかった。
頭の中は、あの光の中がとても美しかった。
それだけだ。
それだけが大事だと思った。
そう思った瞬間。
現実のこの空気。
人工的な蛍光灯の光。
母の手の柔らかい確かな感触。
全てが色褪せて見えた。
あの光の中にいたとき、確かに生きている。
そう感じた。
現実では味わうことの無い。
静かで蕩けるような"生"の感覚。
入院中、母が持ってきてくれたゲームをしていた。
ふと天井を見る。
少し黄色く濁った蛍光灯が光っているだけ。
カーテンから差し込まれている日の光を見る。
どれもあの光とは違う。
あの光は特別だった。
引き込まれる。
いつまでも視ていたい。
そう思わせてくれる。
そんな光だった。
どうやら俺の傷は比較的軽少だったようだ。
だから、一週間ほどで退院できた。
母はとてもほっとしていた。
その目の奥は、どこが震えていた。
どうやったらもう一度あの光の中に入れるか。
俺はそればかり考えていた。
まるで禁断症状のように。
あの光を求めている自分に気がつく。
そしたら少し怖くなった。
しかし考えるほど、あの光の中の幸福が浮かんでくる。
もう一度あの光の中にいたい。
しかし、あの光はなんだったのか。
俺の言葉では言い表せない。
ただ、あの瞬間だけは、今生きているよりも、生きている。
確かにそう実感した。
俺は大事をとって一週間学校を休むことになった。
母がそう言ったからだ。
俺は家で一人で過ごしていた。
そんなときだった。
ドアベルが鳴った。
警戒せずドアを開ける。
真っ白の服。
真っ白な髪。
そんな男の人が立っていた。
微笑みを浮かべていたが、口元だけ。
目の奧は笑っていなかった。
男の目はまるでビー玉のように冷たく感じた。
まばたき一つせず、こちらをみていた。
みられているというより、観察されているような気がした。
男が話し始める時、空気がざわめいた気がした。
「はじめまして。」
そして白い男は静かにこう言った。
「あなたも……感じたんですね。」
「あの"死の甘美"を。」
「あれには、名前があるんです……"アネン"と。」
「ようこそ、こちら側へ。」
"アネン"……そう聞いた瞬間、背中に少し冷たいものが走った。
「……アネン?……あの光のこと……知ってるのか……?」
俺はそう言ってしまった。