一歩目を踏み出すという意味
決意したあの日から二年の月日が流れた。
最初の方こそ、初歩的な文字の暗記や計算の暗記など覚えることが多く苦労する場面も何度かあった。
だが、あいつらの勉強への熱意。そしてシスターの助けもあって予定のペースよりも遅くではあるが、確実にあいつらに教科書の内容を理解させることができた。
基礎をいろいろと覚えたことで、孤児院にもいろいろな変化が起きている。簡単に言えば、それぞれが別の場所で仕事を見つけたということだろう。といってもまだ正式なものではなく、お手伝いの延長線。現代で言うならアルバイトに近いものだが。
それと同時に孤児院自体でも畑を作って農作物の栽培を始めている。生産性の高い芋や玉ねぎ、あとは簡単なハーブなどだが、生活の下地を支える大切な食糧となっていた。
部屋のカーテンを開け、朝日の眩しさに目を細める。窓を開ければ、涼しげで気持ちいい風が吹き込んでくる。まだ暑いというほどでもないが、昼は半袖で過ごせる季節になってきた。
孤児院の個室の窓は南側に面しており、そこには裏庭がある。かつてはあいつらの遊び場になっていた裏庭だが、今は一面の畑となっていた。
そして早朝から仕事をしているのは、早起きが得意なエーリアとイーレンの女子二人組。水路から組んできた水を撒き、雑草を抜いて、成長具合を確かめている。
「おはよう二人とも」
「ノクト、おはよう!」「おはよう!」
声をかければ、ニコニコと手を振り返してくる。
二人の様子を見るに、畑は順調のようだな。
「そろそろ収穫か?」
「うん、今日収穫してみようかと思ってるの。イーレンちゃんの畑もいい感じだしね」
「私の努力の成果が試される時!」
孤児院の畑には大きな区画とそのそばに小さなイーレン用の畑というのが用意されている。
これは勉強していく過程で化学的な分野に興味を示したイーレンのために用意されたものだ。
彼女は比較や実験がかなり好きなようで、この畑を使って土壌の改善や栄養などの研究をしている。といっても、今はまだ科学的なものというよりは実験の積み重ね、経験則からの証明といったほうがいいかもしれないけど。
で、イーレン用とは違い大きな区画を任されているのがエーリアだ。彼女は最初のころからよく畑の面倒を見てくれていたし、その延長のような形で本格的な畑作業に取り組んでもらっている。
主に農作業の効率化や収穫量の安定化なんかを目指して、種の選別や作付け方法などで実験を行っている。
もちろんイーレンの畑で効果があったものはどんどんとエーリアの畑でも行っているので、ここ二年で収穫量はいい感じに増大している。芋なんかは多少は販売するほどに取れるようになった。最初は見様見真似でやって収穫五個とかだったからなぁ。それを考えると感慨深いものがある。
エーリアが「よいしょっ」と勢いよく芋の苗を引き抜けば、一つの房にまるまるとした芋がいくつもついている。今回の収穫もいい感じなようだな。
「後で味の比較とかもするから、二人の芋は混ぜないように気をつけろよ」
「はーい」「わかった」
さて、いつまでも畑作業を眺めているわけにもいかないし、俺も着替えて仕事を手伝わないとな。
俺は窓を閉じると、着替えをしてから裏庭へと足を運ぶのだった。
収穫を終え、大籠二つと小籠が一つ分の芋を収穫することができた。
小籠が丸々イーレンの実験畑で採れたものだが、作付面積の差を考えると収穫量としてはどっこいどっこいといったところだろう。まあ、今回の実験は収穫量の変化よりも味を重視したものだ。それでエーリアの畑と面積当たりの収穫量が同じというのはむしろ喜ばしいことだろう。
俺たちが一つずつ籠を背負い調理場へと向かう。
「シスター、いっぱい収穫できました!」
「私のところもいい感じ」
「まあまあこんなに沢山とれたんですか。もう立派な農家さんですね」
朝食の準備をしていたシスターは、俺たちの持ってきた芋の量に驚きの声を上げる。
そして調理場の隅にある床のフックを引っ張り上げた。
現れたのは地下への梯子。その先は貯蔵庫になっている。五年以上も使われたことのなかった貯蔵庫だ。そのため、シスターもすっかりその存在を忘れていたのだとか。
半年ほど前の収穫で調理場と食堂の床に野菜やら芋やらがあふれたため何とかしなければと頭を悩ませていたところでシスターが思い出してくれたのだ。
長年放置されていた貯蔵庫は埃まみれで最初の掃除は大変だった。総出で倉庫内の換気と清掃を行い、何とか利用できるようになるまで丸二日もかかってしまったぐらいだしな。
「一籠残して後は露天売りだな。イーレンの芋はさっそく食べてみよう。味の研究だし、食べてみるのが一番手っ取り早い」
「分かった」
「エーリア、地下に下ろすの手伝ってくれ」
「はーい」
籠を持ったまま梯子を下りるのは危険だ。特に俺たちみたいな力のない子供じゃ芋の重さに負けてそのまま落ちかねない。だからエーリアに先に下へと降りてもらい、小分けした芋を渡していく。
その間にシスターとイーレンが芋の調理に取り掛かっていた。といっても、水で洗って蒸かすだけだ。
シンプルイズベスト。塩をかけて食べれば、味の違いは一発で分かるだろう。実験が成功していればだけど。
「シスター、みんなおはよう!」
「ふわぁぁぁ。おはよう」
「おはようございます!」
「おはです」
そんなことをしているうちに男子連中が起きてきたようだ。
こいつらもしっかりそれぞれの道を歩み始めている。半分は俺が誘導しているようなものだが、深くは考えない。考え出すと鬱になりかねないからな。それで去年はちょっと体調を崩したりもしたし。
「ご飯は?」
「蒸かし芋ですよ。今朝エーリアたちが採ってきてくれたんです」
「おお、畑の芋か! イーレンの畑のやつってこと?」
「そうだよ。イーレンちゃんが頑張って育てたお芋なんだから、しっかり味わって食べてよね!」
そう言ってテーブルへと並べられた蒸かし芋たち。その横には当初の予定であったスープとパンがひっそりと添えられている。
待ちきれないと言わんばかりにシークとディアスが手を伸ばす。
「うまい!」
「凄いほくほくだ。けどしっとりもしてるね。今までのとは大違いかも」
子供の二人でもはっきりと分かるほどに味の違いがあるようだ。
俺も蒸かし芋を一つ掴んで齧ってみる。
「ふむ、いい感じじゃないか」
現代の男爵イモに近い触感だ。パサパサとした感じもなく、味もしっかりとしている。だが品種改良まではやっていないため、甘みなんかは少ないか。蓄える糖の量が足りないのか?
これ以上を望むなら、品種改良が必要になるな。土壌や栽培方法でどうにかできるレベルじゃないか。しかし品種改良に手を付けるとなると芋を入手するための伝手が必要になる。なら品質に関してはいったんここで打ち止めか。
そろそろ発酵肥料にも手を付けさせてみるか。となると微生物関連をイーレンに教えないといけないな。
エーリアには今回の結果を踏まえて腐葉土を混ぜた土壌の制作と土手栽培、浴光育芽、選別なんかの集大成で芋を作ってもらおう。この芋なら露天での売り上げも期待できるし、設備投資も考えるか。
設備といえば、エフクルスに買ってやったナイフなんかがそろそろダメになるかもしれない。露天や男子組のアルバイトのおかげで手に入れた資金を使って、エフクルスに工芸用の道具を買ってやったのだ。それのおかげでエフクルスの作った皿やカップなんかに模様が入る様になって、より売れ行きも上がっている。
一部の奥様方にはエフクルスの描く模様はとても美しいと評判なのだとか。花や鳥の絵なんかを掘っているみたいだが、俺にはよくわからん。
そんな感じでいろいろと好循環な環境にあるのが今の孤児院だ。
徐々に俺の手からも離れ始めているし、そろそろ計画を第二段階に進める時が来たのかもしれない。その兆候を示すように、ビーレストのところには養子縁組の話も来ていた。
「ビーレスト、今日の顔合わせじゃまだ本格的な話はしないんだよな?」
「うん。とりあえず先方が僕を実際に見てみたいってことで少し話をするだけだよ。さすがに娼館のお嬢様方の話だけじゃ決められないって」
「まあ当たり前だよな」
ビーレストに養子縁組の話を持ってきたのは、とある貴族。
なんでそんな人物の目に留まったかといえば、ビーレストが娼館で給仕として働いているからだ。持前の顔の良さと、弟分たちで培った面倒見の良さ、そしてなにより女性が好きというビーレストたっての希望で娼館の給仕をやらせてもらっているのだが、ビーレストの奴は娼婦たちの受けが凄くいい。まあ、美ショタで器量も頭もいい奴がなついてくるんだから娼婦たちだって嬉しくもなるよな。
そんなことで娼婦が常連の貴族にピロートークでビーレストのことを話したらしい。その貴族から又伝手に養子縁組をしたいと希望する貴族へとビーレストの話が伝わったのだとか。
正直言ってこの展開には俺も驚いていた。
ビーレストには確かに将来的には外国の情報を得られるような立場になってほしいと思っていたが、うまくいけば貴族の当主である。情報網の構築に大いに役立ってもらえそうだ。それに子供のうちでもその家に引き取られれば悪役令嬢やその周りの情報を集められるかもしれない。
というわけで、俺としては是非とも上手くいってほしいわけだ。
「ビーレストが貴族とか想像できないよねぇ」
「すげーたくさんの妾さん囲ってそう」
「退廃的な生活だね」
「どスケベ」
一体どこでそんな言葉覚えてきたのだか……いやまあ十中八九娼館街だろうけど。
ちなみにビーレスト、常に娼婦たちの香水の匂いをつけている上に女性大好きと公言しているため、エーリアとイーレンからは微妙に距離を置かれていたりする。
「でもその貴族の人も惜しいことするよねぇ。家に直接見に来てたら、ノクトを見られたかもしれないのに」
「確かに。でもそれだと僕が選ばれなくなっちゃうから、僕としては助かったけどね」
イーレンがそんなことをつぶやき、本来ならば怒るべきはずのビーレストもそれに頷く。
「ンなことあるか。娼婦たちが認めて推薦したのはビーレストであって俺じゃない。人となりなんて一見で分かるようなもんじゃないし、信頼できるスジからの紹介ってのは大切なんだぞ。ビーレストも自信持て。それだけ娼婦の姉ちゃんたちから信頼されるだけの仕事をしてたってことなんだから」
それを勝ち取ったビーレストが優秀だったということだ。
「う、ごめん」
「ごめんなさい」
「お前らもだけど、他人からの評価を軽く見るなよ。どれだけ自分では優秀だと思ってたって、他人から無能と思われたら仕事なんて回してもらえないんだからな」
「「「はーい」」」
ほんとに分かってんだろうな?
夢中で芋に齧りつく子供たちを見て、俺は不安になるのだった。