キリスト教を確立した者 それは イエスではなく、パウロこそキリスト教の真の教祖だった 私のパウロ論 私のキリスト教遍歴ノートより
まず初めにこれだけは断言しておこう。
パウロがいなければ今のようなキリスト教というものはなかった、という厳粛な事実だ。
パウロこそが原始キリスト教を確立した最大の功労者である、
つまり、、キリスト教とはイエスの教えを、パウロが理解し、咀嚼し、再構築したものであり、
もしかしたら?イエスがほんとうに言ったこと、教えたかったこととは、、違うのかもしれない?
、、、、と、さえ、言えるのだ、
つまりキリスト教とは、とりもなおさず「パウロ教」に他ならないということなのである。
そもそも
イエスはイエス個人崇拝を望んでいたろうか?
イエスキリスト崇拝による救済を主張していたろうか?
パウロはそれを理論化し、正当化したのだ。
ここからキリスト教が始まったのである。
イエスは偉大な説教師だった。
数々のたとえばなしで神の国の到来が近いことを触れ回った。
数々の奇跡で人々を癒した。
数々の法話で人の道を説いた
だが?
イエス自身を崇拝せよとか、
イエスが神との新しい契約の象徴(神の子)だなどといっただろうか?
それはすべてパウロの編み出した教義でしかないのだ。
パウロが始めた新興宗教なのだ。
だからキリスト教なるものの実態は「パウロ教」だというのである。
あなたがもしも
本当にイエスというこのたぐいまれなるキングオブキングスの実像を知りたいなら
4福音書以外は読まない方が良いだろう。
☆イエスとは?
そもそもイエスという「人」(神ではない)はユダヤ教徒でありあるいはユダヤ教の
伝道師。説教師です、
イエスはそれまでの大工をやめて、洗礼者ヨハネに師事し、洗礼を受けて本格的に民間の
説教師としての活動を開始します。
既成のユダヤ教の律法家や伝道師では在りません。
イエスは、いわば在野の説教師です。
ところで、、
洗礼者ヨハネは激しくユダヤ社会の上層部を批判しました。
ゆえに、、すぐ囚われて処刑されてしまったのです。
イエスもまた彼の師匠である「ヨハネ」のように激しくユダヤ教会の上層部を批判します。
その批判を街頭で村々で人々に説いて回ったのです。
そのイエスの批判とは?
そもそもが
ユダヤ教の核心は、「神との契約」と「選民思想」です。
神とユダヤ人が結んだ契約であり選ばれたユダヤ人です
「神との契約」
まずイエスは神との契約、、という概念を改めてとらえなおします。
当時のユダヤ教では契約をすなわち「律法の順守」だけと狭義にとらえ
いわば律法をただ守ってればそれでよし、という形式主義に固定化していたのである。
それをイエスはそうではないという。
彼は端的にこういう。
「律法のために人があるのではない。人のために律法があるのだ」
ただ形式的に律法をまもるだけではだめなのだ。
そうではなく、本来は、人が本当に神に背いたのかどうかはその人が自得するべきであり。
おのれの罪をおのれが自覚することでしょう。
それを形式的に律法違反?というだけでは
そんな形式的なことでは本当の律法順守ではないはずです。
全能の神の前では
律法家も裁判官もみんな罪びとにすぎません。
そういう連中が律法を盾にとっていわば無辜の民を形式的に裁く。
これこそが本当の罪でしょう。
「選民思想」
神はすべての人間に平等に愛を降り注ぎます。
その愛に対して肉の子が神へお返しなどできるはずもないのです。
だから人は同胞を愛することで神の愛に報いるしかないのです。
この愛はただユダヤ人同士だけでなく外国人にも同様です。
奴隷にも、はしためにも同様です。
民族や国家に縛られるものではないのです。
そんな枠 (しばり)があったらそもそも神の愛と言えるでしょうか?
そんなみみっちいものが神の愛でしょうか?
完全な平等な愛こそが神の愛でしょう
これがイエスの説いた「博愛」なのです。
この教えは期せずして?
ユダヤ教の範囲を超えてしまっていますね。
「ユダヤ人だけの神」から「すべての民族のための神」にイエスは180度転換してしまったのです。
ユダヤ教の枠をはみ出してしまった、ここに「キリスト教」が始まったといえるでしょう。
ただ、、
イエス自身は自分が新しい宗教を初めたとは全く思ってはいませんでした。
イエスは旧弊の、固陋のユダヤ教を改革したいとは思っていましたが
まさか自分が新宗教を始めてしまったなどとは全く思っていなかったのです。
ですが旧来のユダヤ教陣営からすればこれは完全な異端であり受け入れることなどできないものでした。
だからイエスはあのヨハネののように、とらえられ、処刑されてしまったのです。
こうして
イエスの死により彼の教えは立ち消えになるかに思われました。
しかし、、、人々の間にイエスが復活したといううわさが広まったのです。
死体が墓場から消えていた。
鳩とともに昇天するのを見た。
死んだはずのイエスがあらわれて私に声をかけた。
などなどのうわさが広まったのである。、
すると消えかかっていたイエスの教えも見直されて、離散していた弟子たちも再び集まってきて
イエスはやっぱり神の子だった。メシアだった。
教えを守り広めようという動きが出てきたのです。
ここに原始キリスト教団が成立したのです。
☆パウロとは?
まず最初にパウロは生前のイエスを見たことがありません。
パウロはもともと熱心なユダヤ教徒であり、イエスの一派を弾圧する急先鋒だったのです。
元の名をサウロと言います。
原始キリスト教団を弾圧しひっとらえ牢獄にぶち込むのが彼の役目でした。
サウロがダマスコに迫害に向かっていた時。突然光が彼を襲い
「サウロよなぜ迫害するのか?」という声が聞こえてきた、。
「あなたは誰か?」
「わたしはイエスだよ、立ち上がり街に入りなさいそうすればわかるだろう」
サウロは立ち上がったが目が見えなくなっていた。
それより先ダマスコにアナニヤというキリスト者がいた。彼はイエスの幻を見て「サウロの目を見えるようにしなさい」、、と言われていたのだ。
街に来たサウロをアナニヤは「あなたは聖霊に満たされるでしょう」といって出迎えた。
すると
サウロの目からうろこのようなものが落ちて目が見えるようになったのだ。
この事件でサウロはイエスに深く入信しそれから熱心なキリスト者になったのである。
やがてパウロは原始キリスト教団の中心人物となり、
パウロはキリストイエスの教えを整理してまとめ、解釈しなおして異邦人にもわかるように
布教した
パウロのイエス解釈である。これが原始キリスト教の「根本教義」となったのである。
こうしてパウロによって衣装替え??したイエスの教えはより世界的なり、異邦人にも広まったのである。
☆パウロの教えとは?
パウロの教えとは
1、キリストイエスへの全き信心
2、愛の働きこそが人の子の守るべきこと
この二つに集約されるであろう。
1、キリストイエスへの全託
キリストイエスがなぜ処刑されたのか。
それはイエスが人祖アダムとイヴの罪
から始まる人間の罪をすべて背負って、
私たちの罪をあがなうためにあえて処刑されたということなのだ、
ユダヤ教には律法があり守るべきことが定められているが
そこには贖いはない、それをイエスキリストが自ら犠牲となり身代わりに十字架上で贖ってくれたのだ、だから彼こそが救い主なのだ。
キリストイエスが律法の罪をあがなってくれた。
それが神に認められたからこそイエスは復活した。
これこそが神との「新しい契約」なのだ、
つまり「新約」なのである。新約聖書の由来である。
だからイエスを全く信じることで我々は罪から解放されるのだ。
キリストイエスによってのみわれらは「義」とされるのである。
キリスト信仰のみが救いであり永遠の命への門である。
異邦人でも律法を知らないものでも関係ない。
男女の区別も関係ない。
奴隷でも関係ない。
キリストを信じる者は救われるのである。
ここからキリスト教が世界宗教への道が開かれたのである。
こうしたパウロの説教は当然既成のユダヤ教からは猛反発を招くことになる。
このようにパウロがキリストイエスへの信仰のみが義とされる
という教義を確立したのである。
生前のイエスが「私を信じることだけが義です」なんて言うわけないですよね。
だからキリスト教は「パウロ教」だというのです。
キリスト教とはパウロの始めた宗教(新宗教)なのです。
パウロによって、
イエスキリストへの個人崇拝へと舵を切ったのです。
2、愛こそ最後に残るもの
パウロはまた愛について多く語ってもいる。
人間が守るべきこととしてパウロは
信仰
希望
愛
の三つを挙げているが中でも最も重要なのが愛であると述べている。
コリントの信徒への手紙 一 13章
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、 やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、鏡と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
☆まとめ
パウロによってキリスト教は確立し、またパウロはじめ熱心な信徒による異邦人への布教で
ローマ帝国全体へと広まっていったのである。
パウロ自身も布教の旅を何度も行い
また各地の信者たちへの書簡を送って教義を広め確定したのである。
もちろん弾圧も熾烈を極めたが、それをしのいでキリスト教は広まったのである。
パウロは布教途上で弾圧されて殺されたと伝わっている。
以上述べてきたように,キリスト教とは?
パウロが咀嚼して、理解した、再構築した「パウロ教」という新興宗教なのである。
では?本当のキリスト教とは?
それが4福音書だけである。
これはイエス伝であるから、ここにだけはイエスの本当の言行が記されているのである。
まあこれらにしても福音書作者の虚構?が混入しているから厳密には
イエスの肉声ではないのだが
それでもまだパウロの見解が混入してないだけましだろう。
本当にイエスという人に触れたければ4福音書以外の新約聖書は読まない方が良いだろう。
ロマ書も
使徒行伝も
手紙類も読まない方が良いだろう。
私は現にそうしているし、福音書からは相当な霊感とサジェスチョンを得ているのである。
イエスの言行録以外は読まない方が良いという私の結論である。
パウロのくだくだしい理論構築はまあ神学であり宗教の霊感と息吹には欠けるからである・
パウロの理屈よりもイエスの何気ない一言のほうが1000倍の霊知に充ちているということである。
ある意味パウロはイエスの教えをゆがめてイエス個人崇拝に舵を切った張本人だからである。
イエスはそもそも仲介者であり 伝道者であり、説教者であり
メッセンジャーである。
イエス自身が神の子ではないし、
ましてイエス自身が救済者ではない(と、私は思う)
だがこれでは信者は集まらない?
やっぱりイエスが神の子でありメシアでないと
パウロとしては困るわけだ。
そこでパウロがイエスの神格化を図り
イエスを神に祭り上げたのだ。
だがこうしなかったらキリスト教は発展しなかっただろう。
そういう意味ではパウロは大功労者である、
だから何度も言ってるように
キリスト教ではなくて
パウロ教だというのである。
この辺は仏教もある意味似ていて、
ブッダという人は求道者であり、修行者であり、
人間です。神様ではありません。
だが仏陀死後、やがてブッダの神格化が始まるのである。
そういう神格化されたブッダ信仰によって仏教もあれだけ広まったのである。
宗教というのはこういう神格化された教祖、、というか崇拝対象がないと、発展しないのですね。
それは共通です。
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