第9話
予定より少し遅くなってしまったが、いよいよ空魔精錬術師と対面することになる。先に顔馴染みであるエトが話しを付けるべく屋敷の戸を叩くが返事はない。もう一度戸を叩いて少し待つが、やはり返事はない。
「留守なのか?」
思わぬ展開に引き締めた表情が緩んでしまうステインに対し、エトは眉根を寄せて小さく唸った。
「精錬中かな?山の方に行ってみよう」
確認のため倉庫の方にも声を掛けたが、人の気配は無かったので屋敷の裏手に回り、山道を登り始めた。
【フェドラス霊山】
険しく切り立った岩山がいくつも連なっており、頂上は霞がかって全貌を捉える事は出来ない。空は快晴だというのに岩壁は日光を拒絶して暗い灰色をしていて、肌で触れると氷のように冷たかった。
「精錬はいつも山の方で行っているのか?」
何人にも無関心でいる岩に挟まれた山道を歩きながらステインは疑問を口にした。
「うん、精霊が近くにいた方がやりやすいんだって」
無難だが、これ以上ない理由だった。精錬場がどういった場所なのかも興味あったが、あまり話しすぎて集中を切らせてもいけないと判断し、軽く頷くだけに留めてそれ以降は黙って歩く事にした。
山道は大きく蛇行して続いていて道幅こそないものの、地面はよく踏み固められており傾斜も緩やかなので、霊山全体から受けた視覚的印象よりもずっと歩きやすかった。
登山を開始して数十分程経過した時だった。ステインの頬を悪戯な風が撫でて行くのと同時にエトが振り返った。
「こっち!シルフィアはあの洞窟を抜けた先でいつも精錬してるんだ。にーちゃん達のことを話してくるから少し待ってて」
「分かった」
精霊が住む霊山に居るというのに、エトは村と変わらぬ様子で駆け出す。きっと彼にとってこの霊山は離れにある庭のような物なのだろう。ここに居る精霊は空魔精錬術師であるシルフィアだけでなく、ゲレゲン村の人々とも親交があると予想できる。
どうか自分達に対しても友好的でありますように、と心の中で祈りを捧げていると、思いの外早くエトが戻って来る。
「会ってくれるってさ!」
エトは元気よく告げると手招きをしながら再び洞窟の闇へ消えて行く。ステインは高鳴る心臓を抑えようと深く息を吸ったが、吐き出す前にテレシアに押されて息を詰まらせた。
「うっ!おい、何をするんだ!?」
「ここまで来たら心の準備も何もないだろ!さっさと行くぞ!」
テレシアの言う通りではあるのだが、大事な話しをしに行くからには出来るだけ自分のペースを保っていたいというのがステインの心情だった。
心の準備どころか、足取りも覚束ない状態でステインは洞窟を抜ける。外から見た時は出口の光りすら見えない深い闇が漂っていたのだが、実際にはとても短い洞窟だったようだ。
精錬場と言うものだから、岩盤に囲まれた空間に空魔精錬術で使う術式が描かれた厳かな場所を想像していたステインだったが、彼の眼前には予想とかけ離れた空間が広がっていた。
この空間を外界から守る様に並び立つ太い樹木。生き生きとした茶色の大地に柔らかく生い茂る芝や色とりどりの花。吹き抜けになっている天上からは日光が溢れんばかりに降り注ぎ、微かにそよぐ風が自然の匂いを調和し鼻孔をくすぐった。
小さな楽園とでも呼べる空間の中央では、椅子に座って白いテーブルを囲む二人と一匹がいた。エトはその者達と一つ二つ言葉を交わすとステインの方へ振り返る。当然、椅子に座っている者達も同じく意識を向けてきたので、ステインは真剣な表情のまま歩を進めた。
ステインから見て左手に座っている少女、シルフィアは緩くウェーブの掛かった橙黄色の髪を腰辺りまで伸ばし、浅緑色の瞳が柔和な顔立ちを一層優婉に見せていた。服装は白い袖なしのブラウスにオレンジ色をした膝上丈のジャンパースカート、シースルーのケープレットを羽織っている。加えて肘付近までを覆う白い手袋をしており、周囲の風景も相まって気品に満ちた雰囲気を醸し出している。
右手に座っている老婆も穏やかな雰囲気でステインとテレシアを出迎えてくれたが、肌も髪も衣類でさえも全身が白みがかった灰色に塗られていた。その奇異な姿を目の当たりにしたステインは思わず口の中から「反魂残存」という単語を漏らしてしまいそうになるが、口端を引き締めることで防いだ。
中央奥に鎮座しているのは明らかに人とは違う姿をしており、この者こそ霊山に住まう空魔精霊獣なのだろう。全体的な容姿は月草色の毛をした猫なのだが、眉間辺りの毛が長く伸びて眼を隠していたり、髭が無い代わりに黄色の嘴が付いていたり、所々に奇妙な変化が見られる。
「突然の訪問を失礼します。私の名はステイン・スヴィンケルス・ファン・レイセヘル。この地に住まいし空魔精霊獣並びに空魔精錬術師へ請願したき件があり参上致しました」
「却下、帰れ」
低く渋みのある声色が、王子の真摯な申し出を軽く跳ね除けた。想定していた展開の一つだったのでステインは特段動揺もせずに声の主、空魔精霊獣へ真っ直ぐな視線を向けた。肉球の付いた手で払う動作をされるが、そう簡単に引き下がることは出来ない。
「これこれ、若者に意地悪くすると老化が進むぞい」
「そうだよクヨーラ、折角のお客さんなんだから仲良くしなきゃ」
苦笑を浮かべる老婆に続いてシルフィアが空魔精霊獣、クヨーラを咎めた。猫耳の間を軽く叩いているが、叱りつけているというよりは仲良し同士がスキンシップをとっているように見える。
「そうは言ってもよ、絶っっっっっ対、おれっちと契約して空魔精錬術を教えてくれって言うぜ」
身内の言葉も聞き入れずに腕組みをしてそっぽを向いてしまう。頼みの内容が分かっていて断るということは、何か理由があるのだと判断したステインは質問を述べるべく口を開いたが、老婆の言葉が出る方が一足早かった。
「分かってるなら力を貸してやりんさい。別に大した労力でもないんだろう」
「んー……後ろにいるショートカットとメイド服が似合う可愛い娘になら喜んで力になるんだけどなぁ」
「もー、クヨーラ、そんなこと言ってるとスペイシアル豆のプリン作ってあげないよ」
「おいおい、やきもち焼かないでくれよシルフィア」
「それならお餅も焼いてあげません」
「うわわ、勘弁してくれぇ」
来訪した二人を置き去りにして、否、テレシアは容姿を褒められたことを小声でステインに自慢しているので、会話に付いて行く気がないので置き去りになっているのは実質ステイン一人だ。エトは口こそ挟まないものの、三人の会話を聞いて笑いを堪えるのに必死な様子だ。
焦ったクヨーラがシルフィアの機嫌を取ろうと煽ての言葉を並べているが、そっぽを向かれて一蹴されると肩身を狭くして椅子に座り直した。
「あ、ごめんなさい。こっちでばかり話してしまって」
ステインと視線が重なったシルフィアは柔らかい笑みを浮かべながら軽く頭を下げた。
「いえ、構いません」
「それでは改めてお聞きしますが、どのような用件で訪ねて来たのですか?」
「そちら様の予想通り、私に空魔精錬術の手解きをして頂きたく存じます」
言い終えてからクヨーラの方を見遣るが、奥の椅子に彼の者の姿は無く、いつの間にか老婆に抱きかかえられて頭を撫でられていた。ステインの言葉は聞こえている筈なのだが、反応しないということは話しを続けても良いのだろう。
「非才な身ではありますが、どうかご教授願います」
姿勢を正して深く頭を下げるステインを見るや否やシルフィアは慌てて立ち上がる。
「そんなそんな、頭を上げてください。えっと……上手く教えられるか自信はありませんけど、わたしで良ければ頑張って教えますね!」
「シルフィアはああ言ってるけど、あんたはどうするんだい?」
「シルフィアに嫌われるくらいなら野郎に協力するさ」
一時はどうなるかと思われた弟子入りだったが、結果を見ればなんとも呆気なく受け入れられた。ステインは歓喜の声を上げたくなる気持ちを押し殺し、シルフィアの前で跪いて腰の剣を地面と水平にして頭上へ掲げた。
「私、ステイン・スヴィンケルス・ファン・レイセヘルは空魔精錬術を私利私欲の為に行使する事を一切禁じ、国家と国民の恒久的な和平の為に尽力する事を聖剣の名の下に誓います」
「えーっと……?」
いきなり誓いを立てられてどう対応していいものかと困惑したシルフィアは助けを求めてテレシアに視線を向けた。シルフィアが困っていると分かると、テレシアは明るく笑ってステインの背後に忍び寄り……
「ご立派な誓い立てありがとよ!」
思い切り振り上げた足をステインの尻に叩き込んだ。
「いったぁ!何をする!?」
あまりの激痛に聖剣を落とし、両手で尻を抑えながら声を荒げて立ち上がるが、テレシアは腹を抱えて笑うばかりで全く相手にならなかった。
「やれやれ、騒がしくなりそうだ……ん?こいつは……!」
老婆の膝の上で溜め息を吐きつつ満更でもない様子のクヨーラだったが、地面に転がる鎖に縛られた剣を見ると長い眉毛の上からでも分かる程に眼を見開いた。