第66話
魔力欠乏症→魔気が濃いか、魔力が不足し、周囲の魔気に体が耐えられなくなると発症する。頭痛や目眩から始まり、次第に体温低下や衰弱と悪化していき最悪死に至る。魔気の薄い場所で安静にするか、魔術や薬品で治癒可能。症状が長時間続くと、治癒した後でも魔力の生成に障がいが残る。
意識を無くしたテレシアの命が凶爪に刈り取られるより早く、風が彼女の体を攫っていった。風はズィンベルの脇をすり抜けると砂埃を巻き上げながら直進し、やがて止まった。
「テレシア!」
砂埃が舞う中、風の正体が両腕の中で力無く眠るテレシアへ呼びかけるが返答は無い。舞い上がった砂を吸い込むことさえ難しそうな、弱々しい呼吸が返ってくるだけである。
「魔力欠乏症、シルフィアの言っていた奴か!」
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エルセの治療の為にシルフィアを呼ぶべく、宿屋に着いたところでステインは異常を知らされた。特定の人間が酷い衰弱状態に陥ったこと、何者かに魔力を吸われていたこと、そしてテレシアと数名の村人が外に出て行ったこと。
体力的にも魔力的にも限界に近いステインだったが、危機が去っていないどころか迫っている状況で自分の体を労われる程気の利く性格ではない。それでも外へ飛び出そうとしたところをシルフィアに呼び止められたのは、本人の意思に反して体が警告を発していたからに違いない。
シルフィアはステインの体力と魔力が激しく消耗していることを悟りながらも、現状で頼れる人物がステインしかいないことも理解していた。一人に負担を掛けることを心苦しく思いながら、応急処置程度の魔力と風の魔術を与え、出来る限り明るい口調で送り出す。疲労困憊な者が挫けず走り続けるのに、余裕のある人間が先に落ち込む訳にはいかないのだ。走り去って行く背中に心の中で何度も祈りの言葉を捧げつつ、宿屋の防護を維持することに集中した。
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これまでの個体より大きく、濃い霧に覆われ、何故か所々粉っぽいズィンベルを正面に捉えながら、ステインは撤退の機会を伺おうとする。しかし、テレシアを早く避難させたいという焦りと襲い来るズィンベルがステインを精神を乱す。
行く手を遮るズィンベルは見た目だけでなく知性も他の個体とは異なり、単純な突撃だけでなく尾のリーチを活かしてステインを宿屋から遠ざけようと攻撃する。
シルフィアに掛けてもらった風の魔術は足を止めた時点で消えており、素の運動神経でどうにか回避し続けるステインだったが、いよいよ堪え切れなくなり火と風の混合魔術を放つ。鋭い炸裂音と共に強力な爆発が生じ、ズィンベルを吹き飛ばす。全速で宿屋に向かう途中、二回同じ魔術を放ってズィンベルを転がす。
「俺の従者を頼む!」
「は、はいぃ!」
宿屋の扉を乱暴に開け、近くにいた自警団の男にテレシアを押し付ける様に預けると、乱暴に扉を閉めて外へ走り出す。
宿屋を出て一歩踏み込んだ時ステインは足元に、ある筈のない影を見た気がして半ば反射的に土の魔術を地面に潜らせた上で横に跳び退く。ステインの足が地面から離れた直後、影から音もなくズィンベルが現れ、右足の爪を突き出す。魔術を発動する時間は無く、咄嗟に左腰に装備していた聖剣をベルトごと引っ張り上げて爪を防ぐが、突きよりも殴打と表した方が適切な攻撃にステインはバランスを崩し、綺麗に着地出来ず倒れ込んだ。
「くっそっ!」
手や顔に擦り傷を作るのも気にせず両手に魔力を籠めて立ち上がるが、ズィンベルは既に直前に迫っており、後ろ足で立ち上がって前足を大きく振り被っていた。
振り被った前足を合わせるとステインの倍以上もの高さの影が、覆い被さる様に双爪を振り下ろす。輝きを忘れた六本の爪が命を塗り潰そうと差し迫るが、ステインは臆する事なく両手の魔力を燃やし、双剣を模った魔術でズィンベルの前足を二本共焼き切る……筈だった。
火の双剣が細かい火花となって弾け、燃える緋色に変わって生きた赤の飛沫が飛び、胸部から腹部が焼けるように熱いが体は冷水に浸かっている様に冷たい。眼前のズィンベルの眼が僅かに開いて揺れる。
感覚も思考も定かではない、空を覆う黒雲の中に放り込まれた気分だった。だから、鼓膜を揺らす咆哮が自分の物だったかも分からない。
「おおおおおっ!!」
ズィンベルの爪によって散らされた魔術が完全に消える前に左手で握り絞め、新たな魔術に変換して切り裂かれた胸部に当てる。大雑把に変換した火の回復魔術は皮膚が焦げる臭いを残しつつも傷口を防ぐ。空いた右手には既に別の魔術が編まれており、自分の血液を巻き込んでズィンベルに向けて放つ。水色と鮮やかな赤の長細い針はズィンベルの体に突き刺さると、入射角に対して九十度方向転換して更に伸び、纏っていた霧ごとズィンベルを喰い荒らした。
「うっ……まだ、倒れる、わけに……は……」
自らを奮い立たせようと言葉を漏らすが、身体はとうに限界を超えていた。全身から力が抜け、抵抗する間もなく乾いた地面に倒れ伏した。
空は未だ、黒雲から解放されていない。
【ウィルデル遺跡】
乾いた風と共に細かい砂の粒子が舞い上がる枯れた大地の先で、石の建造物が忘れ去られた様に佇んでいた。
自らの所在を定めていた壁の劣化は激しく、荒野の中の障害物にはなり得ても仕切りと呼ぶには無理があった。白い石で造られた巨大なアーチは建造時ならばさぞ神秘的で美しかっただろうが、曲線を描いていた部分は遥か昔に崩れ落ちており、今では周囲に立つ円柱と変わりない。円柱にはレリーフが彫られていたのだが、こちらも長年の劣化でただの傷に成り下がっている。朽ちたアーチと柱の先には、暖炉にしては大きく、人が入るには手狭な石造りの建物が在り、その周囲には半壊した彫刻が不規則に転がっている。
風が過ぎて行く音しか聞こえぬ遺跡で、何の予兆もなく岩の転がる音がしたと思うと、巨大暖炉が縦に二分して緩慢にも左右に動き出した。そして、人ひとり分の隙間が開くと、細見だが長身の男が飛び出すも、斜め掛けしていた黒色の頭陀袋が岩の隙間に引っ掛かってしまい、石畳の上で派手に転ぶ。
「あいだっ!」
男の間抜けな声と共に、手にしていた銅の錫杖が喧しく鳴り響いた。
「嗚呼、命の危険を感じたとはいえ、急いでしまうとは拙僧も修行不足ですねぇ」
頭に被った黒のテンガロンハットが落ちぬように手を当てながら起き上がると、服に付いた汚れを手で払う。テンガロンハットから覗く金糸雀色の短髪は整った跳ね方をしており、垂れた薄花桜色の瞳とスッキリとした鼻筋や口元は、そのままにしておけば多くの者に好印象を与えられるだろうが、薄ら笑いを浮かべている所為で軽薄さが印象強くなっている。
男は立襟の黒い上着に折り目の付いた黒いズボンを着用しており、ズボンの裾は茶色のブーツの中に仕舞い、上着の上に羽織った白衣には呪いじみたカラフルな模様が幾つも描かれていた。それに加え、白衣のポケットからは木や骨で作られた人形が張り付く様に入れられており、怪しさに溢れている。
服の汚れを払うと、首に掛けた金の輪袈裟と銀の十字架の位置を正した後で頭陀袋を掛け直し、最後に石畳で倒れたままの錫杖を拾い上げ、自分が出て来た遺跡の方へ振り返る。
「この古さなら彷徨える者の一体や二体や三体いらっしゃると思いましたが、まさかまだ生きているとは……拙僧はとんだ場違いな所に来てしまったようですねぇ。しかぁし!生きている!結構!これほど嬉しいことはない!この嬉しさを誰かに伝えなくては!そう、今漂って来た無念の亡骸のキミに!」
両手を広げ、大空を仰ぎながら男は宣誓とも言える独り言を口にする。自身を追って遺跡から出て来た火炎のモンスターが接近しているのもお構いなしに言い切ると、踵を返してスキップ混じりに遺跡を後にしていった。




