第64話
回復魔術→対象の怪我や魔力を回復させる術。被術者の適正属性にと魔力量に併せて行使する必要があり、誤った属性や魔力量だと怪我を悪化させたり魔力の流れが麻痺してしまう。属性と魔力量を合わせれば軽い怪我や病気は原因が何であれ忽ち治るが、所詮は他人の魔力が流し込まれるので、魔力の回復は自然回復を少し早める程度にしかならない。魔術の難度の割りに恩恵が少なく、回復薬も広く普及しているので専任の回復魔術師は少ない。
まだ幼さの残る少年が勇敢にズィンベルへ立ち向かい、村の中へ逃げ込んで姿が見えなくなってから、エルセは自身の脚が竦んでいる事に気付いた。
「くっそ、子供があんなに頑張ってるのに……情けない!」
拳を握り締め、硬直した脚を叩き起こす。その直後、眼前の地中からズィンベルが飛び出し、硬質化した尾を狙いも定めず張り払った。エトを追うつもりで地中に潜った筈なのに、とんだ見当違いの場所に出たものだ。しかし、エルセにとっては不幸極まりなく、悲鳴を上げる間もなしに吹き飛ばされて畜舎の壁に激突する。
腹部と背部を激しく打ち付けて悶えるエルセに、新たな獲物を見付けたズィンベルが咆哮を挙げて襲い掛かる。
「「ノォォォォォッ!!」」
ズィンベルの咆哮を掻き消すように畜舎から幾多もの雄叫びが轟く。普通の生物ならば臆して立ち止まるが、今のズィンベルは普通ではない、雄叫びなど意に介せずエルセに爪を突き立てんと迫る。だが、ズィンベルがエルセを攻撃圏内に捉えるより早く、畜舎の壁を突き破り突進するもの達がいた。エルセが何よりも優先して守りたかった存在、エンコエ達だ。
成体を筆頭に普段のマイペースさからは想像も出来ない力強い走りでズィンベルに突進する。体躯はエンコエの方がやや小さいが、一体、二体、三体と次々と衝突していくにつれズィンベルは身動きが取れなくなり、やがて地に伏した所をエンコエ達が駆け抜けていく。
エンコエの行進が終わると、全身満遍なく踏み荒されたズィンベルが地面にへばり付くように絶命していた。
「「ノー」」
脅威が無くなると、エンコエ達は先程までの勇ましさを忘れさせる程にのんびりとした声を発してエルセの元に集まって行く。
「いっつつつ……。まさか、あんた達に助けられるとはね……ありがと」
痛みが響く腹部を抑えながら心配掛けまいと笑って見せるが、エンコエはエルセが無事ではないと分かっているのだろう、飼い主を守るように陣取ったまま動こうとしない。
「ねーちゃん!生きてるかー!?」
「生きてるよ、なんとかね。さ、助けが来たから、おまえ達は畜舎ん中に戻りな」
エンコエ達が素直に移動しエルセの姿を確認すると、エトとステインは慌てて駆け寄る。
「ねーちゃん、怪我してんのか!?」
「一発、モロにくらったよ。暫くは動けそうにないね」
「回復魔術を使います。エルセさん適正属性を教えてください」
まだまだ元気そうなエトとは対照的にステインは息切れが激しい。本人は呼吸の荒さを抑えているつもりだろうが、周りからはバレバレである。
「はは……あんたを先に回復した方が良いんじゃないかい?」
「僕の鍛錬不足ですので心配には及びません。外傷のあるエルセさんの方が先です」
「はっ……いてて、まったく生真面目な人だね。腹が痛いんだから笑わせないでよ」
エルセは苦笑して見せるが、ステインが真顔で質問の答えを待っているのを見て観念したように大きく息を吐いた。
「は~……。ごめん、適正属性は知らないんだ」
「知らない?」
予想外の答えにステインは思わず聞き返す。自身の身長や体重や血液型等と同じく、誰しも一度は測ったことのある筈の適正属性を知らないのだから当然だろう。
「あの子達の世話に魔力や魔術は必要ないからね。あたしだけじゃなく、この村の住人じゃ適正属性を知らない人は珍しくないさ」
ステインは自分の常識が外れたことに強い衝撃を受けた。適正属性や魔力量の測定は都市部なら一般的だが、地方の村ではそれほど浸透していないのだ。王都で生まれ育ったステインにとって魔術は物心つく頃から常に身近にあった物なので、適正属性を知らなくとも困らないとは予想できる筈もなかった。
「……エト、エルセさんを頼む。今出現しているズィンベルは視界に映らなければ襲って来ないから、屋内に隠れていればやり過ごせる」
自らの思慮の浅ささから湧き上がる悔恨を乱れる息ごと強く噛んで背を向ける。
「う、うん。でも、にーちゃんはどうするんだ?」
「シルフィアを連れて来る。彼女なら適正属性が分からなくても回復魔術を使える」
「分かった。こっちは任せて」
助けに来た筈のエトに護衛を任せなければならない事にステインは下唇を噛み、宿屋へ向かって全力で走り出した。
避難して来た村人で溢れそうになっている宿屋で、シルフィアとテレシアは静かにモンスターの襲撃が治まるのを待っていた。一階のラウンジだけでは村人を収容しきれず、各部屋のドアは全て開かれており、シルフィア達が借りている部屋にも村人が十名ほど避難していた。
全体を通して、村人は大まかに四つのタイプに別れていた。親しい者と身を寄せ合う者、自由の利かぬ状況に苛立つ者、普段よりお喋りになる者、手を組んで祈り続ける者。過ごし方は違えどそれぞれの根底にあるのはモンスターが襲撃して来たことによる不安と恐怖だ。重い空気が漂う中、宿屋のドアが勢いよく開かれる。
「お医者さんはいますか!?母さんが大変なんです!」
開かれたドアからは血相を変えたシェルトが叫びながら飛び込んで来た。シェルトの家にも避難の指示は出されたが、病床の母親を連れて行く事が出来ず、自警団の護衛付きで自宅に立て籠もっていたのだ。
ドアが勢いよく開かれる音とシェルトの焦りに、宿屋にどよめきと更なる不安が走り、幼子は泣き出す。
「なんだい、騒々しい。早くドアを閉めな」
重々しくも何とか保たれていた平静を破ったシェルトに、トルディが苛立ちながら尋ねる。
「ごめんなさい。でも、母さんが突然苦しみ出して大変なんです!早く診てください!」
シェルトの必死の頼みに、一人の中年の男が立ち上がる。ミッセン村唯一の医者であり腕は悪くなく、肥えた体と愛嬌のある顔から村民に慕われている。しかし、普段は子供達に突かれて遊ばれている腹も、現状では議論の余地なしに無駄でしかない。
「シェルト君、わたしが診に行くから落ち着きたまえ」
最低限の医療器具が入った鞄を手に、危なげな足取りで座り込む人々の間を進む医者だが、今のシェルトには他に頼れる人物はいない。
「お願いします!呼吸が荒くなったと思ったら、体温が下がってきているんです!」
「分かった、急ごう。護衛に二人付いて来てくれ」
入り口に立っていた自警団の男に声をかけると、そこで初めて護衛する必要性を知った様に返事をした。これ以上ない不安に包まれていた村人達は自警団の反応に特別な感情は抱かなかったが、正常な精神状態の者からすれば「頼りない」の一言に尽きる。
「あたしが護衛するよ」
階段を下りる音と共に聞こえてくる声に、ラウンジに居る者全ての視線が集中する。わざとらしくゆっくりとした足取りで階段を下り切った人物はエプロンドレスを纏い、緋色のショートカットとアホ毛を揺らす少女だ。同年代の少女より逞しい体格もしていなければ武器も持たぬ、黙っていれば可愛らしい少女だ。
「あの、気持ちはありがたいのですが……」
「少年、一瞬でも早く医者を連れて行きたいなら黙って任せな!」
シェルトの言葉を遮り、狭いラウンジを堂々と直進して行く。
「避難所の護りを減らしてもしもの事があったら大事だ。いつもヘタレご主人を介護してんだ、自分と一人二人護って走るだけの腕の覚えはあるさ」
村人達に背を向けているテレシアの表情は物凄く物言いたげだった。場の空気がもう少し安定していたなら「へっぴり腰で護衛に出るくらいなら座り込んで地蔵にでもなってた方が役に立つ」と言い放っただろう。
「急ぐんだろ。行くぞ、少年、おじさん!」
異論が出るより先にテレシアがドアを開けようとするが、一階の客室から女性の声が飛び込んで来る。
「誰か来て!こっち!」
緩やかなだった不安の波紋は広がり、一部の村人の容態を急変させる。
「そういえば、俺も……さ、さむ」
「うちの子を診てくれ!息をしていない!!」
「こっちにも来て!」
異変は瞬く間に宿屋に満ち、あちこちで救助を求める声が飛び交う。
「なんだってんだ……っ!?」
異常事態を放って外に出られる筈もなく、テレシアはドアから手を放して状況の確認に動こうとするが、足に力を入れた瞬間に膝から崩れ落ちた。
「き、君もか!?」
医者が慌てふためきながら声を掛けるが、テレシアの耳には酷くぼんやりとしか聞こえていなかった。両膝と両手を床に着けてどうにか倒れないでいるのが精一杯だったが、それも長くは続かず、意識が途絶えると共に力無く横たわった。




