第33話
坂を登ってクヨーラの傍まで行くのは距離にして十数メートル。しかし、その短い距離を歩くだけでテレシアの額には拭い切れないほどの脂汗が滲み出ていた。空魔精霊獣が住まう霊山の山頂ともなれば魔気の濃度は相当なものになる。平均的な魔力量しか持たないテレシアにとって、山頂の空気を吸うだけでも体に負荷がかかっているのだ。
前を歩くステインとシルフィアに気付かれまいと、やや俯きながら一歩後ろを歩く。もし不審に思われても、周りの景色を見ていたと誤魔化す気でいたが、幸いなことにその言い訳を使う事はなかった。
「来たか……」
振り向かずに呟かれた言葉を風は瞬く間にさらい、同時にクヨーラの心の中に残っていた迷いも連れて谷間へ消えて行った。
「どうしてこんな所に呼んだか分かるか?」
「空魔精霊獣の力を継承させるため、でしょ」
即答したのは意外なことにシルフィアだった。否、意外でも何でもない。空魔精錬術師の家系に生まれ育ってきた彼女だからこそ答える事が出来た問いだ。クヨーラが無言の肯定を示すと、シルフィアは自分とステインに言い聞かせるように語り出す。
「空魔精霊獣は世界と生物と共に在る。世界か生物、何れかに厄災が及ぶ時、声によって聖域への扉は開かれる。聖域にて空魔精霊獣はその力の全てを空魔精錬術師に託し、解決へと導く」
「よく覚えてるじゃないか」
「子供の頃、ばあちゃんに毎日聞かせられたからね」
継承やら厄災やらの詳細を一刻も早く聞きたいステインだったが、つい最近空魔精錬術師になった者が口を挟める話しでもないので言葉を飲み込み、静かに成り行きを見守ることにした。
「その通りだ。おれっちはシルフィアに風土の全てを継承しなくちゃならん」
「うん。わたしはいつでも良いよ」
またもや即答され、クヨーラは咄嗟に振り返ろうとしたが拳を強く握って堪える。
「何で、そんなにあっさり引き受けられる?」
「あっさりなんかじゃないよ。ばあちゃんがクヨーラと“約束”を交わして反魂残存になった時から、何かが起きるんだろうなって思ってた。クヨーラったら隠し事が下手なんだもん」
「これから起きる厄災が空魔魄霊獣だと知ってもか?」
「え!?」
心のどこかで予感していた厄災の正体が言葉として出て来てしまい、ステインは思わず声を上げた。一同の視線が集中した為、自分の失態を恥じると共に咳払いをして場の空気を戻す。
「アニカからも話しを聞いただろ?」
「うん。とっても恐ろしくて危険な存在なんだよね。でも、今、空魔魄霊獣が現れたとして、それを止められるのがわたしだけなら、力を継承することは迷わないよ」
世界の命運を託されると言っても過言ではない場面だというのに、何故ここまで素直に受け入れられるのか。隣りにはこの国の王子であり、仮にも空魔精錬術師のステインがいるというのに、そちらへ任せようという気配すら感じさせないのはどうしてか。クヨーラが問い質そうとするも、先に「だって」と優しい声が耳を撫でて行く。
「わたしはゲレゲン村の皆が好き。優しくて、温かくて、元気な村の皆が好き。わたしが生きて来た世界は狭くて短いけれど、きっと他の村や町の人も同じようなんだと思う。互いを思いやって楽しく生活して、小さな幸せで毎日を満たそうと生きている。そんな世界をわたしが守れるのなら、迷う事なんて何もないよ」
「シルフィア!!」
とうとう我慢できなくなり、彼女の名を強く叫んでから振り向いたクヨーラであったが、込み上げていた思いは言葉にするより早く、シルフィアの屈託ない笑顔に受け入れられていた。
「この国の王子様がこんなに真面目で優しい人なんだから、きっと皆良い人だよ。この風のように」
「シルフィア、風の声が聞こえるのか!?」
「はっきりとは聞こえないけど、クヨーラのことを宥めてる感じなのは分かるよ」
額に手を当てて空を仰ぐクヨーラを見て小さく笑うシルフィアとアニカ。ステインは三人に気付かれないように、風が無感情なものだと思った事に謝罪した。
「もう何もかもシルフィアの方が上手じゃないか。クヨーラ、これ以上は往生際が悪いよ」
「あぁ……分かった、分かったよ。こっちに来い」
未だ納得し切れていないのだろう、クヨーラは覚束ない足取りで崖の先に広がっている空を歩いて行った。
「これ、大丈夫なの?」
シルフィアが不安そうにしながら見えない床を爪先で突く。
「大丈夫に決まってるだろ!早く来い!ステインもだ!」
「え、僕も?」
思わぬ指名に間抜けな声を出してしまうが、クヨーラの無言の圧力を受けたので急いで向かうことにした。だが、いつもより後ろが静かな事に違和感を覚えて振り返る。すると、胸を押さえて項垂れているテレシアの姿が眼に飛び込んで来た。
「テレシア!?」
瞬発力を全開に発揮し、テレシアの体を支える。こちらを見ることもせず、ただ荒い呼吸を繰り返しており、危険な状態だということは瞬時に理解できた。
「魔気の影響か。クヨーラ!テレシアを麓まで送ってくれ!」
「だ、大丈夫、だって……。ご主人様が…………」
体を預けながら口を動かしているが、囁きにも満たない声はステインの耳には届かない。届いたとしても聞く耳は持っていないのだが。
「気付いてあげられなくてごめん。クヨーラ!」
怒鳴る様に名前を呼んで急き立てると、クヨーラは無言で手を振って風を呼び、テレシアを麓へと送った。高濃度の魔気から遠ざけて休ませれば回復するだろうが、自力で立つ事すら難しい状態の彼女を一人にする訳にはいかない。ステインは自分も下山させてもらうべく、もう一度クヨーラに呼び掛けようとしたところでアニカに阻まれた。
「あんたはここで役目を果たしな。テレシアの事はうちで面倒見といてやるよ」
「……ありがとうございます!」
本来ならば自分が行かなくてはならないのだが、アニカの言う通り、この場で役目が残っている。継承の場でどんな役目があるのかは分からないが、決して軽い物ではないだろう。不本意ではあるが、テレシアの事はアニカに任せるしかない。ステインは一礼すると、シルフィアとクヨーラの待つ空へと駆け出した。
「そうだ、シルフィア!貴重な儀式なんだ、生前のわしがやった髪飾り着けておくれよ!」
アニカは一方的に言い放つと答えを待たず、景色に溶ける様にして山頂を後にした。
「髪飾り、か。少し派手に見えるから着けてなかったんだけど……んしょ」
ポーチから手の平大の花形の髪飾りを取り出すと右側頭部に着ける。白い葉と黄緑色の花弁の髪飾りは生花の如き瑞々しさでシルフィアの橙黄色の髪に咲き誇った。
慣れない重みに違和感を感じていると、やがてシルフィアとクヨーラの周囲に魔気が集中し、いよいよ継承の儀式が始まった。




