第2話
従者の爪先で何度か小突かれて漸く世界が安定したステインはノロノロと立ち上がる。
「テレシア、痛い」
頭を擦ってこぶが出来ていないか確認する。幸いにも頭に異常は感じられなかったが痛みは中々消えてくれない。
「ふん、こっちはずぶ濡れで風邪引きそうなんだ」
悪びれる様子が無いどころか何かを期待する視線を向けられ、ステインは軽い溜め息を吐いた。元より謝罪の言葉を求めたわけでもないし、彼女の悪辣とした態度は今に始まったことでもないのだが、それでもやるせなさを感じずにはいられなかった。
「分かったよ……」
ステインは眼を閉じると意識を体内へ向ける。血液とは別の流れを掴むと、それと似た流れの気を空気中に見つけ出して手繰り寄せた。拳を握って気の流れを押し止め、圧縮したかと思うと今度は拳を広げて一気に放出する。
「うわっ、温かい!」
突然足元から巻き上がった温風に思わず声を上げるエト。
魔術によって生じた温風はたちまちに濡れた二人の体と服を乾かした。
「うん、今回は温度も風の強さも丁度良かった」
少しだけ乱れた服の裾を直しながらテレシアが頷くと、アホ毛も満足そうに跳ね上がった。
「ここは風の魔気が豊富だから調節がしやすかったよ」
「へぇ、あたしは風属性の適正がないから分からないけど、王都で白昼堂々幼女のスカートを捲るご主人様でもそう感じるってことは相当だね」
「えっ!?」
何食わぬ顔でとんでもない事を暴露するものだから、エトは思わず必要以上に驚いてしまう。そしてその様子を見たテレシアは待ってましたと言わんばかりに口角を吊り上げ、エトに耳打ちし始める。
「待て待て、誤解を生むんじゃない。いや、事実だけど悪気があったわけじゃない。状況は今回と同じ様なものだ」
「ちっ、言い訳だけは無駄に慣れてる」
「お陰様で。さ、村に戻ろう」
眉根を寄せて忌々しそうにしているテレシアを軽く受け流し、ステインは村に向かって歩き出した。
【ゲレゲン村】
緑豊かな大地に建てられた風車は今日も優々と回り、村の人々に自然と精霊の加護を知らせてくれている。
「おや、エトじゃないか。どうしたんだい、王子様をシルフィアちゃんの所に連れて行くんじゃなかったのかい?」
村の入り口で老婆に話しかけられたエトは少しだけ気まずそうに頬を掻いた。
「そのことでちょっと村長に相談があってさ……村長、家にいるよね?」
「ああ、タチアナさんならさっきまで庭でお茶を飲んでたよ。あたしも今ご馳走になったところでねぇ……」
「そっか、ありがとう!」
世間話が始まると察知したエトは老婆の言葉を遮る様に声を張って礼を言うと、後ろに立っていたステインとテレシアへ小声で「行こう」と言ってその場を立ち去った。
タチアナ村長の家は村でも数少ない二階建てであり、村人のエトの案内があればまず迷う事はなかった。小さい村といえど、長が住むには些か質素に見える住居の前で、タチアナは木のテーブルに置かれた茶器を片付けていた。
「村長!」
手を振るエトに気付いたタチアナは持っていた茶器をテーブルに戻し、いくつもの皺が刻まれた顔に朗らかな笑みを浮かべて三人を迎えた。
「今帰ってきたの?随分と早かったねぇ」
エトへ言葉をかけながらもステインとテレシアへの会釈は忘れない。
「いやいや、流石に早すぎだって。ちょっと問題が出てさ、森を怒らせちゃったんだよ」
「おやおや、じゃあ立ち話もなんだから、お茶を淹れ直そうかね」
「テレシア」
「分かってるよ」
テレシアは落ち着いた動作で茶器の回収を再開するタチアナの隣りに移動すると、手際良く片付けをし始める。
「あらあら、そんな悪いです。お客様なのだから座って待っていてくださいな」
「いいっていいって、座って待つより動いてた方が楽なんだ」
普段のお茶友達に言われるならば素直に受け入れられるが、王子の従者相手ではそういう訳にいかない。タチアナの視線は自然と主であるステインへ向けられた。
「無作法な者で申し訳ありませんが、どうぞお使いください」
普段ならここで皿の一枚でも飛んで来るのだが、流石のテレシアも他人の物は投げずに我慢している。
「いえいえとんでもありません。ありがとうございます」
タチアナが深々と頭を下げたタイミングを見計らい、テレシアはエプロンドレスの下から掃除用のブラシを取り出し、ステインへ投げ付けた。
「痛っ!」
正確無比に投げられたブラシは見事、眉間へ直撃。脇で見ていたエトも思わず額を押さえた。
「どうかされました?」
「い、いえ。何でもありません」
頭を上げたタチアナが小首を傾げたが、愛想笑いで誤魔化す。
「ほら村長、これはどこに片付けるんだ?」
テレシアは何事も無かったかのように茶器の片付けを進め、いつしか場の空気も彼女を中心に流れて行った。