第95話
【グロート町】
クライペン・スラングが討伐され、湖が元の姿に戻った頃。港では大きな騒めきが起きた。討伐隊が勝利したのだと、今まで通り船を出すことができるのだと。
周囲の喧騒を受けて、テレシアも気持ちの昂りを覚えたが、周囲の人々のように明るい感情ではなかった。戦いが終わったという安堵感は少なからず存在したが、彼女の心境の大部分はステインやシルフィアやマルリースが無事であるかどうかといった心配である。
庁舎で待機を命じられていたテレシアが港に出て来ているのは、単に討伐隊の帰りが待ちきれなくなったからではない。湖の水が変色してから、大きな波が港に押し寄せて来て、桟橋や船のいくつかが破壊されただけでなく、波に乗ってモンスターがやって来たからである。
モンスターは港だけでなく、波に呼ばれる形で平原側からも飛行型モンスターが飛来し、町の中でも戦闘が勃発したが、幸いにもゲレゲン村やミッセン村の時のような異常性は無く。自警団や町に残留した魔術師団でも十分に対応することはできた。町への被害、負傷者共に無しとはいかなかったが、どちらも大事には至らぬ程度のもので済んだ。
テレシアが港から水平線に向けて目を凝らしていると、不意に詩が耳に入って来る。
「この世に思いが溢れる時、彼の者は現れる。彼の者は思いを拭い去り、世界に無を与えると自らも無に帰す。この世に無が与えられた時、彼の者は現れる。彼の者は失われる思いを拾い集め、無の中に世界を築く礎になる。この世が混迷に陥った時、彼の者は現れる。彼の者は未だ現れぬ」
詩が聞こえて来た方へ顔を向けると、いつの間にか隣りに男が立っていた。男は見たことのない不可思議な服装をしていて背が高く、テンガロンハットから覗く綺麗な金糸雀色の短髪は跳ねているが整えられている。端整な顔立ちに備えられた薄花桜色の垂れ目は水平線の更に先をぼんやりと眺めていた。
「魂は解放された。救われぬ魂が何処に行くのか拙僧には皆目見当も付かぬが、求められぬ救いは魂の拘束になりかねない。故に拙僧は見送ろう。時に給仕さん」
大きな独り言を発したと思ったら急に話し掛けられ、テレシアは思わず肩を震わせた。
「あ、あたし?」
「囚われた魂が幸福に暮らしたとして、どうする?」
上着のポケットに胡散臭い人形をいくつも入れている胡散臭い男の、訳の分からぬ質問に脳が停止しかけるテレシアだったが、彼女が何かを言う前に男は話しを続ける。
「答えは南の山にある。そうご主人様に伝えておいてくれたまえ。ああ、拙僧の名前はヴェイドハーツ。特に名声はないが、名乗る為の名は持ち合わせている旅人である。では、またいつの日か互いの旅路が交わる事を祈っているよ」
最初から質問の答えを求めていなかったのか、ヴェイドハーツは一方的に話すと上着を翻して港を去って行き、テレシアはただ茫然と奇妙な男の背中を見送った。
ハルムの荷車に乗って無事に帰還を果たしたシルフィアとステイン。
丁度町に着いた頃ステインが目を覚ました事もあり、門の前で降りる予定だったが、ハルムに「配達の報告があるから」と庁舎まで乗せてもらった。
マルリースを始めとして魔術師団や船乗り全員が、まさか街道側の出入り口である南門から帰ってくるとは思っておらず、町の巡回をしていた魔術師が二人の姿を見たことで漸く帰還が知れ渡る事となった。
「ご主人様ーーー!!」
庁舎の一階の待合席に座っていたステインに真っ先に飛び付いたのはテレシアで、その後を追ってマルリース、魔術師、船乗り、の順で庁舎に押し掛ける。ステインが「他の者の迷惑になる」と窘めるも、俯いているマルリース以外やいのやいのと唯一つの報告を待ち望んでいる。ステインは自身に抱き着いて離れないテレシアの背中を優しく叩いて宥めると、座ったまま聖剣を床に突き立てる様にして開口する。
「クライペン・スラングはこの私、ステイン・スヴィンケルス・ファン・レイセヘルが聖剣の力で以って討伐した。直に湖も平穏を取り戻す」
静かに告げられた事実に、魔術師も船乗りも、庁舎の職員や所要があって偶然居合わせた者までもが喝采を上げる。
湖に訪れた平穏とは裏腹に町に活気が戻る。グロート町の住民ならば、これ程の吉報は無い。庁舎の中はお祭り騒ぎとなり、騒ぎは屋外へと漏れ、人から人へ瞬く間に伝わって行く。
踊り浮かれる人々の中心で静かに笑うステインに、マルリースが歩み寄る。
「ステイン王子……無理のしすぎです」
周囲の喧騒に掻き消されそうな声だったが、マルリースが言わんとしていることと、その声が震えていることはステインに伝わっていた。
「はは……マリーにはバレてるよね……。実は、とても……眠い」
気を張って平静を繕う必要がない相手だと分かった途端、ステインの身に強烈な眠気が襲い掛かってきて船を漕ぎ始める。
「テレシア。ステイン王子を宿で休ませてあげて」
「あ、あぁ。ご主人様、お疲れ。あたしが宿まで連れてくから、もう休んでいいぞ」
「ん……ごめん」
謝罪の言葉を残して脱力する体をテレシアが受け止めて、腕を肩に回して立ち上がる。ステインの体格が大柄ではないにしろ、当然男女相応の体格差はあるため、テレシアへの負荷は大きい。
「シルフィア、今日はお疲れ様でした。ステイン王子を連れ帰ってくれて、本当に感謝しています」
「うん。マリーの方こそお疲れ様。ゆっくり休んでね」
「ええ。この騒ぎを落ち着かせて静かになったら、休みます」
もはや収拾が付かなそうなほど騒ぎは拡散していたので、落ち着くのはどれぐらい後になるのだろうか。シルフィアが心配そうに視線を向けてきたので、マリーは苦笑を返すと共に手の平で扉を指し示した。
先に宿に帰る事に後ろめたさを感じつつも、シルフィアはお辞儀をしてテレシアと共に庁舎を出た。
「テレシア、大丈夫?わたしも手伝うよ」
「んー……何とか行けるだろ。シルフィアだって疲れてんだしいいよ」
そう言ってステインを引き摺って歩くが、身長差のある脱力した人間を運ぶのは見た目以上に負担が掛かっている筈である。シルフィアは少しの間、心配そうにテレシアを見ながら並行して歩いていたが、ある事に気付いてポーチを探り出す。
「これ使えば少し楽になるかも」
赤茶色の細長い根を二本取り出して見せる。それはいつか採取した、圧力を加えるとうねって前進する不思議な根、ウォークウォーテルだった。その根の効果を身を以って体験していたテレシアは、シルフィアの意図したことを直ぐに理解し、通りに設置された花壇の縁にステインを座らせた。
ステインの爪先にウォークウォーテルを結び付けてからテレシアが立ち上がらせると、狙い通りウォークウォーテルは圧力を受けてうねり出す。ステインは眠りに就いたままなので体を支える必要があるが、引き摺って歩くより大分楽になった。
「これなら腰痛めなくて済みそうだな。ありがと、シルフィア!」
「ううん。わたしは大したことは何もしてないよ」
謙遜するシルフィアの顔に、夜とは違う暗さが見えたのをテレシアは見逃さなかった。
「どうかしたのか?」
問い詰めるわけでもなく普段通りの軽い口調で、視線を前に向けたままの問いにシルフィアは少し間を置いてから答える。
「ステインは頑張りすぎだなぁって思ったの。湖でモンスターを退治してからぐったり眠ってたのに、町に着いた途端目を覚ますんだもん」
睡眠によって体力が回復して目覚めたのであれば、シルフィアのこの言葉は内に仕舞われたままだったろうが、ステインは報告を済ませるとまた眠りに就いた。自らの使命を果たそうとする気力で体力の尽きた体を動かすなど、並大抵の責任感では出来ない。
「いつも通りのご主人様なんだろうけど、この無茶さは一生治らないんだろうなぁ」
ステインの頬を指で突くが深い眠りを妨げるには至らない。
「あ、でもシルフィア。ご主人様に合わせて無茶はすんなよ。シルフィアが無茶してるところ見たら、ご主人様はそれを上回る無茶をするから」
「あ……ふふっ。そうだね。気を付けます」
妙に納得したシルフィアは自然に笑みが零れ、悪戯っぽくステインの耳元で囁いた。
「あれやれ、これやれって煩く言われるのは気に障るけど、ご主人様みたいに求めて来なさすぎるのも考えもんだよな」
「うん。期待されてないから、もっと頑張らなきゃって思う」
「それすっごい分かる。そんでご主人様はご主人様で、自分の努力が足りないと思って一人で無茶する」
少女達の談笑に挟まれて、自分が話題にされていることも知らないステインは穏やかな寝顔のまま、宿へと運ばれて行く。
ウォークウォーテル:赤茶色の細長い根。圧力を加えるとうねりながら前進する。速度は歩き程度。移動距離は数十メートルだが、精錬をすることで距離が延びる。他の素材と調合すると動く(うねる)ようになる。




