第92話
「ステイン!?」
渦が止まり、港に向かって進んで行く景色を船室の椅子に座って眺めていたシルフィアが突然声を上げた。
魔力を多量に消耗したシルフィアはマルリース共々、船乗り達の手によって半ば強引に船室へ押し込められた。魔力自体は自製の薬によって回復傾向にあったので、船上に残る意思を示したが、自然と共に在る船乗りに理屈は通じない。「疲れて倒れたら休む」そんな超自然的な意見に圧倒され、二人は担がれたのである。
「ステイン王子の身に何か!?」
窓へと飛び付き、シルフィアと頬を合わせて外の景色へと視線を投げる。湖は依然として鈍色であるが、海嘯も渦も発生しておらず穏やかである。しかし、マルリースにとってそんな事はどうでも良い。ステインの姿を探して目を凝らす。
「シルフィア、ステイン王子はどこですか!?」
「え、えーと……ずっと向こう、だと思う」
マルリースの圧にたじろぎながら船の進行方向とは逆を指差す。精錬した聖剣の魔力が微量になったことを感じ取ったので場所は間違いないのだが、思わず自信なさげに答えてしまう。だが、マルリースはシルフィアの心境には気付かず、何があったのか話すように無言で促した。彼女の真剣な眼差しに、今度は気を引き締められたシルフィアは立ち上がって答える。
「詳しくは分からないけど、とても危険だよ」
聞くや否や、マルリースは船室のドアを蹴破る勢いで出て行き、甲板へと上がって行き、シルフィアも彼女に続いて行った。
「んおっ!嬢ちゃんたち、血相抱えてどうした?さっきまで倒れてたんだ、まだ港まで時間が掛かるしゆっくりしときな」
すれ違った船乗りが気遣ってくれるが、マルリースの耳には塵が宙を舞う音ほども聞こえず、シルフィアが愛想笑いを浮かべて「もう大丈夫です」と答えた。
船尾に向かって駆けるマルリースは、疲弊した様子を見せながらも周囲を警戒していた男の部下を見つけると掴み掛かる勢いで命令を告げる。
「今からステイン王子の援護に向かうわ。お前たちはこの船を無事に港へ送り届けなさい」
「はっ!……え?隊長、あんなのと戦うんですか?無茶ですよ!」
魔術師が指差した先には最早クライペン・スラングの面影の無くなった黒く巨大なモンスターが水中から這い出そうとしていた。
「あれは何!?ステイン王子は!?」
今度こそ掴み掛かって来て状況報告を求めるマルリースに、魔術師が短く悲鳴を上げたのでシルフィアが仲裁に入る。
「マリー、落ち着いて。船が動き出した後、何があったんですか?」
「え、あぁ……渦が止まってステイン王子が水中から出て来た後、敵を水中から引きずり出しました。その時はまだクライペン・スラングの姿をしていてステイン王子も攻撃を加えていたのですが、敵が吐き出した濁った水にステイン王子が飲み込まれると、敵も水中に潜って行きました。しばらくは何の変化も無かったのですが、つい先程あれが水中から出て来ました」
魔術師が視線を向けた先では、黒く長い手足が四本、水中から伸ばした手足の関節を曲げて水面に着いていた。手足とは別に放物線を描いたものが出ているが、距離がある事もあり背中なのか頭部なのか、それとも別の何かなのかは分からない。
「凄く嫌な感じ」
漂って来る不穏な気配にシルフィアが顔を顰める傍らで、マルリースは無表情のまま縁へ足を掛けて飛び降りようとする。
「た、隊長!なに無言で行こうとしてるんですか!おーい!誰か手伝ってくれ!」
少なくない疲労が溜まった体に鞭を打ってマルリースの体を抱き留め、騒ぎを聞き付けた他の魔術師や船乗り達の手を借りて何とかマルリースを船上に戻す。
「何故止めるの?」
肩で息をして座り込む部下を冷たく見下ろす。その視線は重罪人に審判を下そうと言わんばかりの冷酷さであり、部下である男は視線を一瞬合わせただけで押し黙ってしまう。普段ならば視線を落とし、黙り込むだけだったろうが、疲労感と訳の分からないモンスターの出現で混乱していた男は半ば投げやりに言葉を発した。
「あんなの、隊長だって倒せるわけありませんよ。俺は見たんですよ。ステイン王子が、隊長以上の魔術をあいつに叩き込んでも微動だにしなかったのを……。あいつの攻撃に呑まれたステイン王子の姿を!」
ステインが敗北し、命を落としたかの物言いに周囲がどよめく。男と同じく、周囲を見張っていた者の数名は同じ光景を目にしていたが、それを口に出そうとは思っていなかった。相手がマルリースならば尚の事である。
「貴様……」
静かであるが、マルリースの言葉には憤怒の感情以外は籠められていなかった。彼女の右手に風の魔気が集中していく気配を感じ取った魔術師達は、魔術を止めようと思いながらも止められない事を察した。それは座り込んだ男も同様であったが、魔術による制裁を受ける前に言うべきことがある。自身が所属する部隊長を見上げ、大きく口を開く。
「俺は隊長にいなくなってほしくないんだ!」
命乞いの言葉や詫びの言葉ならば無視しただろうが、男の発した言葉はどちらでもなかった。マルリースは微かに眉を顰め、言葉の続きを待つ。
「他の魔術師団と違って何かに特化したわけでもない、器用貧乏で気まぐれな連中の多い第四魔術師団が成果を上げて行くには、隊長がいなきゃ駄目なんだ!」
「何を言っているのか分からない。時間の無駄だったようね」
顰めた眉は元の位置に戻り、魔術発動の詠唱を始めようとするマルリースの手の平にシルフィアの手が合わせられる。
「なっ、シルフィア!危ないですよ!」
魔気と魔力の混ざった、魔術の元に手を突っ込むなど、沸騰したお湯に手を入れるより危険だ。魔術が体内にでも入ったら暴走して内側から切り刻まれ、二度と魔力を扱えなくなる可能性もある。しかし、シルフィアにとって風の魔気を操る事は造作もないことであり、手が魔力の元に触れた瞬間、魔気と魔力を分離し霧散させていた。
「マリーにとってステインが大切な人であるように、この人にとってはマリーが大切な人なの。だから、許してあげて」
合わせた手の指を絡めて握ると、マルリースは一瞬どうして良いか分からず目を泳がせた後で握り返す。
「ステインはまだあそこにいるけど、魔力の流れはかなり危険な状態。急いで助けに行かないと間に合わなくなる」
「ならば急いで私が向かいます!」
握った手を離そうとするマルリースだったが、シルフィアは強く握り返して離さない。
「マリーは船をお願い。ステインも言ってたけど、あのモンスターには普通の魔術が効かないし、さっき聞いた話しだと、精錬した剣を持ったステインの魔術も効かないみたいだから」
「ではどうすれば!?」
質問に対する答えをシルフィアは持っていたが、予想の範疇でしかなかったので答えることは控えた。その代わりに「わたしが行って訊いてみるよ」と告げる。マルリースは「無茶です」と言おうとしたが、目の前の少女があまりにも真っ直ぐな瞳をしていたので、言葉は喉を通らなかった。
「私が言えたことではありませんが、シルフィアは結構、強引なんですね」
「えへへ、ばあちゃん譲りかも」
「ステイン王子のことはシルフィアに託します。なので、必ず二人で帰って来てください」
「うん。約束」
握り合った手を離したシルフィアが船尾の縁に立つと、船を押している風とは別の風がどこからかやって来て髪飾りを揺らして行った。




