乗鞍 ヒルクライム
僕は、山岳自転車レースの、乗鞍ヒルクライムに出ると決意し、その現地視察と練習を兼ねて友人と伴に乗鞍岳を訪れた。さて、その顛末は?
北アルプス南端に、「乗鞍岳」という火山がある。日本に21座ある三千m超の山の一つだが、標高2,704mの畳平まで2本の車道が通じている。この日本最高所を走る車道の1本が「エコーライン」である。エコーラインは、標高1,400mの乗鞍高原から畳平まで通じる道だが、殆どの時期は、厚い雪に閉ざされているため7月からの僅かな期間しか通行出来ない。それも以前は平日ならマイカーでも通れたが今では自然保護の為に、ハイブリッドの路線バス、タクシーと自転車しか通行出来なくなってしまった。
この山岳道路では、毎年8月下旬の日曜日に車を一斉に通行止にして日本最高所の自転車登山レース(ヒルクライム)が開催される。実に辛いレースだが、高原を吹き抜ける風は爽快で気持ち良く、大変人気があるレースだ。その練習の為か、近年は多くの自転車野郎達がここを走りにやって来るようになった。
僕が初めてここを走ったのは、20年程前の7月下旬の事だった。乗鞍高原まで車を走らせ、番所に車を停めて自転車を下ろし、自転車を組立て、友人と伴に路上を走り出した。キツイ登りがずっと続く。カーブを幾つか過ぎるとスキー場のゲレンデと思われる草原へと出てその中を九十九折に進む。蝶々が飛び交い鳥の囀りが聞こえて、息は切れるが心は和んでいた。
暫く走ると「三本滝レストハウス」が、見えてきた。「名物ソフトクリーム」の幟が、僕らを誘惑する。食べたいなあと自転車を並行に走らせながら友と相談した。結論は、道程は始まったばかり。帰りに立ち寄る事にしてスルーした。
登り坂は、ひたすらと続いた。余りのキツさに結局は途中の冷泉小屋の水場で、小休止することになった。俺たちは軟弱で甘いな。こんな事ならさっきのソフトクリームを食べておけば良かったよと、二人で悔いた。レース本番では、途中の休憩等あり得ない。僕たちは息が整うと、再び走り出した。途中から、周囲の樹木は段々と少なくなり、2,400mの森林限界を越えた頃から低木のハイマツや草だけの世界へと変わり、視界は更に広がって来た。
懸命にペダルを漕ぎ、登り道を攻める僕達の横をブルーの外車が、ゆっくりと追い越してゆき、前方で止まった。車の窓を下げると中から欧州人と思われる貴婦人がちょこんと顔を出し、話しかけてきた。「自転車で登ってらっしゃるの?」「大変ねえ疲れない?」「頑張って!」と、極めて社交辞令の言葉を流暢な日本語で投げ掛けられ、僕達はただ頷き、辛うじて片手を挙げて応えた。車は外交官No.。何れかの国の優雅な大使夫人てとこだろうな。
九十九折が終わると位が原に近付く。大量に残る雪渓ではサマースキーを楽しむ者が大勢居た。雪渓下を抜ける時に、突然冷気が襲ってきた。ここを過ぎれば 直に2,740mの国内一般車道最高所を越える。その先を少しだけ下って畳平に到着した。
畳平のバスターミナルは、真夏だというのに雪の壁が囲んでいて気温はなんと8℃。真夏の格好の僕達は、余りの寒さに自転車を置くと直ぐに目の前にある郵便局へ飛び込んだ。中で焚かれていたストーブに急いであたると、周りの人がその格好で寒くないのかと問いかけてきた。僕は寒いに決まっているだろうと思いながら、周りの冬支度の人達に、ただ笑って頷いた。
この先、僅か300m登れば山頂に立てる。上を目指せば雷鳥にも出逢え、砂礫のコマクサは、可憐なピンクの花を披露してくれる。頂上からは直ぐ隣、巨大に聳える御嶽山を始めとして遠くには富士山、南アルプス、そして憧れの槍ヶ岳など、日本の高峰の殆どが見渡せる絶景が待っている。だが、この上は登山者の領域。残念だがこの日の僕達には立ち入れない聖域なので諦めだな。
その代わり?、僕達は記念に郵便局で、白樺の樹をスライスして作った葉書を買い、自宅宛に手紙を出した。数日後には山からの便りが時間差で遅れて自宅に届き、受け取れるだろう。
休養充分で僕らは山を下り始めた。自転車は、みるみる加速して行く。ブレーキを効果的に使って、スピード調整。カーブを注意深くターンする。山肌を嘗めるように清らかな気流が躯を通り抜けて行く。その快感に陶酔している間に、うっかり三本滝レストハウスを通り過ぎてしまった。下りは速い。それからあっという間に番所へと戻り着いた。
自転車を分解し、車に積みながら、食べ損ねたソフトクリームの事が頭から離れないが今となっては仕方ない。車でレストハウスまで行くか?と相談したがそれよりは食事しようとなって、少し下った所にある「いがや」で蕎麦を食べていく事にした。店頭で回る水車小屋で挽かれたソバ粉を地元のおかみ衆が打つ。味は素朴で店には気取りが無い。心地好い座敷の板の上で暫し横になってみた。窓から先程までいた頂きが見えている。次にこの山へと来れるのはいつになるのだろうか。そしてその時こそ絶対にソフトクリームを食ってやると心に誓うのであった。
夜行で向かい実に辛い休日ではあったが、後には爽快な思い出だけが残っています。皆さんも機会が有りましたら、是非、訪れてみて下さい。勿論、観光或いは登山目的でも、素敵な所ですよ。