最終話
朝を迎える。
日本までの飛行機は7時間半。朝一番の便の飛行機のため、ホテルのチェックアウトは6時。その時間にハルさんがロビーで待っている手はずだった。
春人とかすみは、昨日の夜のことがあったにも関わらず、いつもと変わらないように接していた。何かを隠すように。そして、触れてしまうと何かが溢れてしまうかのように。
「おはようございますー。タイの最後の朝です。心残りはないですか?」
ハルさんは、今までと変わらずに笑顔を見せた。
「ありがとう、ハルさん。あなたのおかげで、この旅もすっごい楽しいものになったよ」
ハルさんは荷物をバスに詰め込みながら言った。
「二人、仲のいいカップルだったからがんばった。私も、付き合っている人、いる。でも、ケンカ多い」
「えー、ハルさんの彼女ってどういう人なの?」
「恥ずかしいから教えない。でも、きれいな人よ。いつか、日本に旅行に行くときには連れて行く」
「じゃあ、ぜひ札幌に来てよ。ハルさんみたいにうまくできないけど、私がハルさんのガイドになるからね」
「じゃあ、その時はお願いするね。じゃあ、バス、出発するね。空港まで1時間、早いから寝てていいよ」
「なんだか、寂しいなぁ・・・タイともお別れかぁ・・・」
かすみはハルさんとひっきりなしに話し続けた。春人はその横で眠ろうとした。もちろん、眠ることはできなかったのだが。
「じゃあ、私はここまで。私も楽しかったよ」
バスは空港に着き、ハルさんが荷物を降ろしながら行った。搭乗手続きも済んでいるので、後は改札に向かうだけになった春人とかすみを残し、ハルさんを乗せたバスはまだ朝もやの翳る道路の向こうに消えていった。
無言で荷物を二人は運んだ。改札に向かう途中で、春人は足を止めた。
そこは、2年前のあの場所だった。幸が立ち止まった場所。かすみは、何も言わず改札に向かう。春人の足が止まったのはわかっていた。何も言わないのではない、言えなかったのだ。
5歩ほど、かすみは歩き、足を止めた。振り返る前に、春人が言った。
「・・・ごめん」
春人の胸のうちはもう決まっていた。自分の気持ちを整理する旅の中でこんなことになるとは、誰が想像できただろうか。
「ごめん。俺、行かなくちゃ。行かなくちゃだめなんだ」
振り返ったかすみは、目に涙を浮かべながら堅く唇を噛んでいる。決して泣かないと決心しているかのように。
「かすみのこと、好きなんだ。でも、行かなくちゃならない。ここで行かなくちゃ、俺はずっとここから飛び立てないんだ」
空調の効いた空港の中、二人の周りの空気だけより一層温度が下がったようだ。人ごみの音が、遠ざかる。
春人はスーツケースの上に置いてあった絵を見た。透明なビニールでくるまれたひまわりは、優しく微笑んでいた。
「2年前、あの人は・・・」
「いいの。何も言わなくて」
春人の話すのをさえぎるようにかすみは言った。
「いいの。言わなくて。気付いてたけど、気付かないフリをしていたの。でも、こんなに急な話になるとは思ってはいなかったけど」
「ごめん」
「春人さんと付き合ってから、春人さんの心の中に私の届かない場所があるのは知ってたの。でも、それがあの人なんてね・・・こんなに広いタイって国の中で、どうして会わなきゃならなかったのかしらね」
かすみは続ける。
「私があの店に入らなきゃ、今頃幸せな気分で飛行機に向かってたんだね。悔しいな・・・でも、もう春人さんの気持ちは決まっちゃったんでしょ。わかったわ。飛行機には私独りで乗るね」
春人はかすみの顔をじっと見つめていた。何も言える訳がない。自分勝手なわがままで、一人の人生を狂わせようとしているのだから。初めての海外旅行で恋人に逃げられるなんて、とてつもないトラウマになるはずだった。
「幸さんだっけ?芯の強い人だよね。一人でタイに来て・・・きれいな人だったね」
「うん、強い人だよ。俺なんか全然かなわないくらい」
「でも、春人さんは追いつこうとしてる。あの人に真正面から。私にはそんな強さないから。ここで、春人さんの手を引っ張ることすらできないの・・・」
かすみは、下を向いた。床にポタポタとシミができた。春人は見ないふりをした。
「いってらっしゃい。私は私のできることをする」
かすみは大粒の涙をこぼしながら笑顔を見せた。儚く、もろく、けどひっそり確かに咲いている一本のかすみ草のように。
「私は、あなたが好き。好きでい続けるから」
笑顔で手を振るかすみの目を春人は見た。涙で濡れているその目には、強さがあった。
春人は心の中で数えだす。
5、4、3、2、1、そこまで数えたところで、くるりときびすを返し、歩き出した。
あの日の幸のように、迷いのない足取りで。そして、春人はもう振り返らなかった。
キキーっとタクシーが止まる。交通事情の悪いタイのタクシーはストップ&ゴーを繰り返す。エコドライブとは正反対だ。
扉が開くなり、春人は駆け出した。
スーツケースを店の前で放り出し、ひまわりの絵だけ持って店の中に入る。
キョロキョロとあたりを見回すが、幸の姿は見えない。
店内には、タイ人の店員が一人。幸いなことに英語が通じたので、幸がどこにいるか聞く。店の裏で、絵を描いていると言われ、春人は走り出した。
どうなるかなんてわからない。ただのひとりよがりの行動なのかもしれない。それでも、春人には動くしかなかった。
店の裏には、公園があり、暑い日差しを浴びながら幸が絵を描いているのが見えた。今度は、公園の中の大輪のバラの花だった。
「幸っ!」
春人は大声を出した。幸が振り向く。そして、大きく目を見開いた。
「春人?どうして?」
春人は幸の前で止まり、肩でゼイゼイと息をした。のどはからからで、声が出ない。でも、今回はなんとしても言わなきゃならなかったのだ。
「幸・・・俺・・・全て、ぶんなげてきたよ。全部、ぜーんぶ」
幸は何も言わない。春人が続ける。
「2年かかったけど、やっと追いついた。幸に手を伸ばせるところにまで来たんだ」
春人は、幸を見た。あの時と同じようにまっすぐに目を逸らさずに。
幸の口が動く。
「5」
幸の目は笑っているようだった。
「4」
春人の目からは涙があふれていた。あのとき、止まっていた時間は今動き出したのだ。
「3」
春人の体が動く。
「2」
春人は、幸の小さな華奢な体を抱きしめた。
「1」
そして、続きが言えないようにキスをしたのだった。長い長いキスを。
タンッとキーを叩いて、俺は大きく一度伸びをした。キーボードを叩くのはまだまだ慣れなかったが、少しずつ文章を打ち込むのも早くなっていた。
コンコンとノックの音が聞こえた。ドアが開き、声をかけられた。
「また、パソコンなんかいじって。明日の仕込み早いんでしょ?もう寝たら?」
「わかってるよ。だからもう寝るよ。それより、聞いてくれよ、完成したんだ!」
「本当!結局どうやって終わらせたの?実際のままじゃないんでしょ?」
「こんな感じ。読む?」
声をかけて、俺は椅子から降りた。部屋を出て、コーヒーを入れなおすことにした。料理人足るもの、しっかりとコーヒーにも気を遣いたいところだけど、家の中くらいはインスタントで充分だ。
お湯を沸かし、コーヒーを2つ入れる。一つはブラック、もう一つには角砂糖を2個入れた。
カップを持って部屋に戻ると、声をかけられた。
「こんな風になる訳ないよ!2年も待たせてたんでしょ?すぐに抱き合うなんてね~」
「変かな?ドラマチックに終わらせたつもりだったんだけどな」
「もうちょっとリアリティがあったほうがいいかもね。でも、空港のシーンはやっぱりリアルだね」
「そうでしょ。合格点?」
「うん、なかなか。待つ強さってわからない人って多いんだよね。待つっていうのも、一つの行動なのに、次から次へと動くことがいいことみたいに見られるでしょ?恋愛って、それだけが全てじゃないのよね」
「そうだね」
「さて、明日からまた仕事が始まるんだから早く寝ない?」
「もうちょっと起きてるよ。ハガキ、全員に書いてないんだ。先に寝てていいからね」
「ん~、じゃあ、式のアルバムでも見ながらベッドにいるね。結婚しましたハガキは、私はみんな書いちゃったから、明日からはゆっくりするんだ~」
「いいご身分だこと。家のことは任せたよ」
「了解。あんまり遊びすぎちゃだめよ」
俺は、軽くキスをするとパソコンに向かった。
そして、部屋で一人になってから、机の中から一通のハガキを取り出した。満面の笑顔の二人が写った結婚しましたハガキだった。
ただ、ちょっと他のと違うのはエアメールだってこと。
これは、内緒にしなきゃならない。見つかったら、事件になってしまう。
宛名書きは終わってるから、あとはメッセージだけだ。なんて書こう?
少しだけ悩んでから、俺は「ありがとう」とボールペンで書いた。
でも、想いなおして、ありがとうと書いた場所をグリグリと塗りつぶし、代わりに書いた。
「ざまあみろ」
完全な負け惜しみだけど、まぁ良しとしよう。あの時、ガツンと言われたから、今の幸せがあるんだから。
エアメールを机に戻し、ふと後ろを見る。
壁にかかっているひまわりとバラの絵が、少し笑った気がした。
「タイムオーバーって2年前に言ったでしょ?無理よ。いまさら。でも、もがいて悩んで行動した後だから見えてくることってあるんじゃない?待っててくれる人がいるんでしょ?大事にしてあげなさい。ってかね、私には恋人がいるの、タイ人で日本人向けのガイドをしてるんだけどね・・・」
お付き合いありがとうございました。
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