~7~
春人と幸が2年ぶりの再会を果たした次の日、春人と幸は水上マーケットに顔を出していた。
川べりに暮らしている人間にとって、川は道路であり、道である。
バスのエンジンを元に作ったスクリューがついてある船は、陸地で言う車、現地のタイ人達はうまいもので、すいすいお互いに避け合いながら、運転している。
そうした船に乗り、お目当ての水上マーケットを目指すのだった。船着き場より、水上マーケットのある場所までは時間にして30分ほどの短い距離の船旅になるはずだったが、年末ということもあり船着き場は長蛇の列。
春人と幸、ガイドのハルさんはもう船旅の時間をとうに過ぎ去るくらい並んでいた。
「ごめんねー、春人、かすみ。いつもはこんなんじゃないの。もっと人、少ない」
ハルさんは、しかめつらして言った。
「何にもいいのよ。それにしてもいろんな人がいるのね。日本人だけじゃなく、欧米人も多いみたい」
「タイは、今、乾期ですよ。乾期は雨少ない。雨少ないと、旅行楽しい」
「だから観光客が多いのね。ま、私たちもそうだけど」
かすみは、汗をぬぐいながら言った。タイは年中通して暑い。乾期であるこの時期は、カラッとした暑さで過ごしやすいとはいえ、直射日光の元小一時間も外に立っているのは辛い。
もともと、かすみはそんなにタフな方ではないので、顔つきは少しぐったりしている。
「大丈夫?水、いるかい?」
春人が声をかける。幸と再会し思うことは山のようにあるが、顔に出さないよう春人は努めてかすみに優しく振舞っていた。
「大丈夫。ちょっと、暑さが辛いけど・・・」
かすみは、少し無理な笑顔を見せている。
「ゴメンナサイネー。もう少しで順番が来るので、がんばってー」
ハルさんが、申し訳なさそうに言う。確かに、もうすぐ春人達の順番が回ってくるようだった。
船には船頭が一人、乗客を乗せると船が出発し、出発の際に船着き場の係から金を受け取る。船頭は一度も船から降りずに、バトンパスのような形でお金を受け取るのだ。乗客は最大でも5人くらいまで。小さな船が何度も何度も道路くらいの幅の川を往復するのだ。
「やっと、順番来たね。んじゃ、春人さん、かすみさん、乗りこみましょう」
ハルさんが手を取り、一人ずつ乗せてくれる。幸いなことに、春人とかすみは先頭だった。
バルバルバル…安っぽい音を立てながら、船のスクリューが回りだす。
レバー一つで右回り、左回りと変わり、逆回りにするとバックもできるという。面白いもんだ、と春人は思った。
レバー一つで、前後が変わる。生き方なんかも、所詮そんなものなのかもしれない。会社の指示でレバーを切り替えた幸のことを、レバーを切り替えれなかった春人は思った。
船が動きだし、心地よい風を体全体に受ける。
「気持ちいいー!最高ね!春人さん」
かすみが周りをきょろきょろしながら言った。川べりには、現地のタイ人の住まい、野生のココナッツ林、また観光客向けの蛇の描かれた看板などがあった。
ハルさんが、エンジン音に負けないよう、大声で叫ぶ。
「あの看板は、コブラショーね。蛇のショー。みたい人、けっこうたくさんいる」
そんなハルさんの声も、春人の心には届かなかった。
春人は昨日会った幸のことを思っていた。
隣のかすみは笑顔で、風を受けている。心とは裏腹に春人は、かわいい人だと思った。
そんな春人に気づいたかすみが大声で言う。
「どうしたのー!なにかついてるー?」
はにかんだ笑顔を向ける。何も疑っていない目、優しい瞳。春人は、なんだか心が痛み、目をそむけた。
「なんでもないよー」
そっぽを向きながら、大声で返すと、「ならいんだけどー」と返してくる。にっこり笑いながら。
春人の心の中にはモヤモヤとした黒い雲ができていた。
別段、何も悪いことをしているわけでもない。2年も前に別れた女に再会はしたものの、一瞬だけだ。確かに、2年前に旅行に来たとは隠しているが、そんなのは別に言わなくてもいいことだと春人も思う。
もともと、春人はこの旅行で幸との思い出を振り切ろうと思っていた。今まで、どこか胸の奥に刺さっている刺を、苦々しい思い出をかすみと共に抜こうと。
しかし、何の因果か幸と出会ってしまった。その棘は、皮肉にもより深く、突き刺さってしまったのだ。
もう2度と会えないと思っていた。そうやって振り切ろうとした。
それが、目の前にもう一度、手の届くところに現れる。
あの時、伸ばせなかった手を、今、伸ばすことができるのだ。
春人は、風を受けながら考える。自分が何を求めているのか。
そんなことを思いながら風を受けていると、船は速度を落とす。水上マーケットに着いたのだ。
「なんだか風を受けたら、元気になっちゃった。さーて、楽しみましょう!」
新しい船着き場に着き、3人は船を降りた。
川の両側には、歩けるよう道ができていて、川に浮かんだ船の上ではドリアンなどの果物、バミーなどの麺料理といった食べ物から、Tシャツや人形、タイ舞踊に使うお面などおみやげがどっさり売っている。
かすみは、電卓を片手に値段交渉を始める準備も万端だった。
「2時間後、ここに集合ねー。ちゃんとご飯も食べてきてくださいねー」
ハルさんが言うと、かすみは春人の手を取って歩き出した。
かすみの手は、暖かかった。その暖かさが春人には辛かった。
かすみは鏡の前でくるりと回った。ひらりとワンピースのすそが翻る。
「ねぇ、春人さん、こんな感じで大丈夫かな?ドレスコードのある店って初めてで…」
不安そうな、顔を見せながらかすみは言った。
「大丈夫だと思うよ。ガイドブックにも、そんなに厳しくないって書いてあるし」
そういう春人は、シャツに袖を通しながら言った。暑いタイ旅行に1枚だけ持ってきた、一張羅のグッチのボタンダウンシャツだった。ループタイを通すと、シンプルながらもしっかりとした存在感を見せる。
かすみは、ノースリーブの花柄のワンピースに、薄いカーディガンを羽織っている。長い髪を下ろし、胸元にはバカラのネックレスが光っている。
二人は夕食に、64階建ての高層ビルの屋上にあるレストランに向かった。
タイのトップクラスの料理も味わった方がいいということで、ガイドのハルさんに予約しても
らっていたのだ。
エレベーターの前に行くと、スタッフが行き先を聞いてくる。
春人は、イタリアに一人旅をしたこともあり、簡単な英語なら話すことができた。エレベーターに乗ると、かすみが小声で言った。
「なんだかドキドキするね」
「そうだね、タイ料理の最高峰か・・・存分に学んで帰らなきゃ」
少し真剣な顔つきをすると、かすみはにっこりしていた。
エレベーターがつき、廊下を進むと一つのドアがあった。
「welcome!」
そういうと、スタッフが扉を開ける。そこは、空だった。
64階から見下ろすバンコクの街並み。それは、二人の初めて見るものだった。
「ふあぁ・・・すごい」
目を大きく見開いたかすみが感嘆の声を漏らした。
扉のすぐ下には、レストランに通じる階段があり、その先には大きなバーカウンターといくつかのテーブル席がある。逆側には、大きなステージがあり、黒人のシンガーがジャズの音色を歌っていた。
現地の人間はほとんどいない。欧米人が多い中、二人はテーブルに通された。
「すごいね、周りの人たちなんだかみんなかっこよく見える。映画の中に入ったみたい」
かすみはうっとりして言った。かすみの後ろには、地上にも空にも星を散りばめたようにキラキラしていた。
メニューを見て、春人はイベリコ豚、かすみは鴨をメインでオーダーし、シャンパンを頼んだ。
すぐに二つのシャンパングラスが運ばれてきて、グラスの中もキラキラと輝いた。
グラスを持ち上げながら、春人は言う。
「何に乾杯しようか?」
「…うーんとね」
かすみは考え込んでしまった。その表情に陰りがあるのを、春人は気付かなかったのだが。
そして、春人はしびれを切らして言った。
「二人のタイ旅行に乾杯しようよ」
「いや・・・ごめん。ちょっと待って」
かすみはこだわっているようだ。
「うん、やっぱりこれかな。変わらぬ想いに乾杯しましょ」
かすみはしっかりと春人の目を見て言った。
「あなたを愛する変わらぬ想いに、春人さんは?」
春人は詰まってしまう。それでも、言わなくてはならない。心の葛藤を押しやり、都合のいい言葉を出した。
「変わらぬ想いに」
チンッ。乾いた音がタイの夜空に響き渡った。
「・・・私に対する想いならいいのに」
かすみはつぶやく。春人の耳には届かなかく、首をかしげた。
「ううん、なんでもない。料理楽しみだね!」
かすみは、夜景に目を移した。
料理はどれも素晴らしかった。タイ料理というよりは、創作料理だった。ただ、味付けはやはりタイ風でナンプラーなどが使われていたが。
「おいしかった!最高だね!」
シャンパンから、キールに変えたかすみが言う。お酒に弱いかすみが2杯も飲みほすなんて、春人にはびっくりしていた。
「ちょっと酔っ払ってない?めずらしいね、2杯も飲めるなんて」
「こんなシチュエーションで飲まないのはもったいないよ。ちょっと酔いたい気分でもあったし」
「そうなの?」
「うん」
会話が止まった。がやがやした周りの喧騒の中で、ピンと空気が張り詰める。
「春人さん、嘘ついてる」
「へっ?」
春人は完全に虚をつかれた。かすみが何かに感ずいているなんて、露ほどにも思っていなかったのだ。
「春人さん、嘘ついてるでしょ?幸さんだっけ?あの人、会ったことあるはず。気付かないとでも思った?」
かすみは、酔いに任せて吐き出した。にやりと笑って続ける。
「気づいたよ。女の勘って鋭いのよ」
春人は、少し放心ていたが、慌てて言った。
「いや、あれは昔の友人で、今更言うこともないと思って…」
その先が続かない。かすみは、まっすぐと春人の目を見ている。
「…いや、変に話しても仕方ないか。ごめん。確かに幸は知ってるし、昔の彼女だったんだ」
「ふぅん」
「あの時はびっくりしたけど、でも、今は何もないよ」
「ふぅん」
かすみはキールを飲み干した。空になったグラスをそっとテーブルに戻すと、そっと言った。
「私はね、春人さん。あなたが好きなの。たぶん、あなたが私を好きじゃなくても、私は好きであり続けると思う」
かすみの目には、涙が浮かんでいる。かすみは、うつむきながら続けた。
「それだけはわかってね」
ポタポタと落ちる涙を見せないようにしているかすみを見て、春人は素敵な女性だと心底思った。
それでも、幸という棘が抜けないのが、春人には悔しかった。
そして、最終日の夜は更けていき、日本に帰る朝を迎える。




