~6~
「いやー、タイ楽しみだね。本場の味はやっぱり酸っぱいのかな?」
ホットパンツからスラリと伸びる足がまぶしい。
ニヤニヤしてしまうのを悟られないように、春人は幸から目線を外した。
話は2年前にさかのぼる、春人は今のイタリアンレストランに勤め始めた初めの年、幸と二人でタイに向かっていた。
成田空港から飛び立った飛行機の中、幸はもうタイに向けた格好をしていた。
ホットパンツに小さめのTシャツ、薄手のカーディガンを着ている。
小さめな体だが、細い体には健康的な色気があった。
「でも、飛行機って肩こるね、映画も飽きたし、お酒も飽きた。早く着かないかな~」
うーん、と上に背伸びをすると、小さめのTシャツからへそがチラリと見える。春人は人知れずドキドキした。付き合って3年、まだまだときめきを忘れたことはない。
「おいおい、へそ見えてるって!」
「いいじゃん、減るもんじゃないし!あー、それって独占欲じゃないの?」
「なっ、馬鹿、違うって!」
「絶対そうだよ。私は春人のものじゃないよ。春人専用ではあるけど、他の人は見るだけ。大丈夫、大丈夫」
からからと笑って幸は言うのだった。春人は、苦笑いを返す。付き合いは深まっても、ペースは幸が作るのだった。
タイに着いてから、二人は夢のような時間を過ごした。
「うわー、すごいね、タイの屋台って。安いから、とりあえずフードファイトと参りますか」
と言いながら手を取って、幸は走り出した。
「まずはネームピン、焼き鳥みたいなもんかな?もうちょいしっかりあっためてほしいよね」
幸は自分がほおばり、そのあとに春人の口にも運んでくれる。
「自分で食べれるって。串を人に向けるな、危ないよ」
「私のような、美人に食べさせてもらえる幸せをかみしめなさい」
食べ終わった串を幸は、自分のカバンにポイッと入れた。幸は絶対にポイ捨てはしない。
「次はここね。これは・・・マンゴー?かな?」
身振り手振りをしながら、幸は屋台で料理を調達し続ける。
「タレもくれたよ。これにつけて食べるのかな?」
「そうだと思うよ。青い身をしてるけど、確かにマンゴーの匂いがする」
「さすがはイタリアンシェフ、頼りになります。あっ、タレはなんかみたらし団子みたいな味がする。おもしろいね~」
屋台をめぐる春人は、タイ料理と一緒に幸せをかみしめていた。
フリーで屋台を回ったり、酒を飲んだりしながらあっという間にタイ旅行は最終日。
春人は、ホテルの荷造りをしていた。男の自分はスーツケース一つ。女の幸は、大きめのディパックが一つ。
幸は化粧っ気がないので、女性のそういうものが少ないのはわかるが、あまりにも荷物が少ないと春人は不思議に思っていた。おみやげなどを買っていた様子もない。
「ねぇ、幸、どうしてこんなに荷物が少ないの?職場のみんなのおみやげは?」
シャワーを浴びて、バスタオルを巻いただけの幸に春人は声をかけた。
少し、間を空けながら幸が答える。
「んー、買ってないよ。いらないとかいってたから買わなかった。ってか、後ろ向いてて着替えるから、エッチ」
春人は後ろを向けさせられ、シュルシュルと着替える音に少し興奮しながら続けた。
「いらないっていっても、普通は買うもんだよ。そういうのは、社交辞令ってやつさ」
「私は嘘を言う人が嫌いなの。いらないって言ったから買わなかった。それでいいじゃん」
「ま、間違ってはいないけど・・・」
「この話はこれでおしまい」
と言って、幸はなんだか悲しげな顔をした。
幸は自分の意見を曲げない。間違ってることも少ないのだが。
端的に、的を得ている。そのくせ、人には押し付けようとはしない。
春人にまぶしく映る魅力だった。春人は優しすぎて、相手に合わせてしまうところがあるのを自分でも知っていた。
ホテルを出て、空港に向かうバスの途中。幸は、無言だった。珍しく。
春人はウトウトしていた。
「ねえ、春人。私、嘘ついちゃったの」
「・・・ん?嘘?」
目をこすりながら春人は聞き返す。幸は窓の外を見ている。
「そう、嘘。おみやげの話」
「あぁ、職場の人がいらないって言ったって話だっけ」
「そう。職場の人ね、いらないって言ってないの。欲しいって言ったんだ」
「じゃあ、買っていけばいいでしょ。空港でも買えるよ。めんどくさかったの?」
「そうじゃなくてね。そうじゃ・・・ないんだけど・・・」
「どうしたの?幸らしくもない。なんかあった?」
「おみやげ、みんなにあげることができないんだ」
春人は、尋常じゃない雰囲気を感じ取った。
何かが始まる予感がする。
別れ話?なんにも悪いところなんてなかったのに?春人の心拍数が跳ね上がったようだ。
胃のあたりが痛い。絶対普通じゃない。
「あのね。私、日本に帰らないの」
窓の外を見ながら、幸は言う。
「え?日本に帰らない?・・・それどういうこと?」
春人は、言葉の衝撃を受け止めきれなかった。
「ビザ取ったの。このまま、タイに住むの。会社から異動辞令がきて。タイで買い付けの仕事やれってさ。ひどいよね、うら若き乙女に海外派遣だよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。タイにこれから住むってこと?」
「そうなの。部屋も取ってあるし、荷物も全部送ってある」
だから荷物が少なかったのか。春人は納得した。
でも、納得できないことの方が多かった。
「じゃあ、日本に帰らないってこと?え?俺はどうしたらいい?」
「・・・一人で帰って」
幸は、まだ窓の外を見ている。表情は見えない。
「私は遠距離恋愛なんて続かない。続ける気もない。私はタイにいる。あなたは札幌でがんばって」
「ちょ、ちょっと・・・冗談だろ?」
幸は窓の外を見て答えない。
「そんな大事なこと、黙ってこの旅を続けてたってことかよ」
春人は、必死になって続ける。
「もしかして、始めからこの旅行自体そのために・・・」
春人の頭は真っ白になった。
「そんなの!そんなのってあるかよ!」
春人は思わず声を荒げた。バスの他の乗客が何事かと、振り返った。
構わずに続ける。
「そんなの独りで決めて、独りで勝手に結論出すなよ!おかしいよ!」
幸は黙って窓の外を見ている。
「でも、決めたことだから。私はタイに残る」
「だから勝手に決めるなって!」
焦って春人は続ける。なんとか考え直してほしい。
「おいっ!幸、俺達は付き合って3年だろ!その3年間があって、この終わり方かよ。そんなのってないんじゃないか?」
しかし、声を荒げて反発しながらもどこか納得するところもあった。
幸もわかってないわけじゃない。
いろんなことを考えて出した結果がこの形だったと。
ここまで追い込んだ状態じゃなきゃ、別れられない。それは幸が一番感じてることだと。
まだ、窓の外を見ながら幸は言う。
「好きって感情だけじゃどうしようもならないのよ。私の人生での夢もある。私は自分のインテリアショップを持つのが夢、それにはこの異動は蹴るわけにはいかなかったのよ。あなたも自分の店を持つ夢がある」
幸は続ける
「あなたのことが好き。でも、お互いの道は一緒にはならなかった。それだけよ」
理論的には間違っていない。人生という道が一緒になる人もいれば、一緒にならない人もいる。
幸の声は震えていた。肩も震えていた。
春人は何も言えなくなった。
バスは空港に向かう。
幸は、それから春人と目を合わせようとはしなかった。
春人にはどうしたらいいかわからなかった。話が急すぎてまとめることができない。
自分の夢を捨てて、幸を追いかける。
「俺もタイに残る」
そう言えば幸は喜んで、「ウン」というだろう。春人が幸を好きなように、幸も春人のことが好きなのもわかっている。
好きだから、こういう形でしか別れることができなかったのだ。
わかってはいる。わかっては、いる。
バスは空港につき、目を合わせようとしない幸が荷物を運び、搭乗手続きを済ましてしまう。
何かを振り切るように。
「はい、チケット。改札は向こうね。忘れ物しないでよ」
目が合った。
幸は、唇をギュッとかみしめながら、耐えている。自分が選んだ道だから、絶対に泣かないと決めているかのように。
春人は、泣いている。止められない。
「じゃあ、私はここまで」
幸が足を止める。
「私は夢をとった。春人はどうするの?」
幸は、春人をまっすぐ見つめて言う。
「春人の夢を、私にくれる?」
幸の目から涙がこぼれた。感情がこぼれたようだった。
泣きながら言う。
「後、1分で決めて。じゃないと、私があなたを追いかけちゃう」
泣きながら言う。
「私は、春人が好きなの。好きで好きで、好きで好きでしょうがないの。でも、だめなの。だめなの。二人の恋なのに、私が全部決めて。わがままで身勝手だってわかってる。恨まれてもしょうがないの」
泣きながら言う。
「こんなこと言える資格はないけど」
泣きながら言う。
「ありがとう」
春人は、動くことができなかった。
「5」
雑踏の中に、響きわたる声。
「4」
立ちすくむ身体。
「3」
のどの奥がヒリヒりする。乾いて、ねばついて、言いたい一言が出ない。
「2」
まっすぐと見つめるその眼には、不思議な力がある。
「1」
目を離すこともできずに、ゆっくりと動く口元だけを見つめていた。
「0、タイムオーバー」
それが、最後の記憶となった。
幸は、体を翻し、迷いのない足取りで雑踏の中に消えていった。
春人は、幸が見えなくなってもそこに立ち尽くしていた。
2年前の、一つの別れだった。
そしてまたこのタイでの出会いがあった。
それを、人は「再会」と呼ぶのだった。




