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朝焼けは霧の中から始まる。
タイの高層ホテルのビル群を春人は見上げた。
上の方は霞にかかっていて、見えない。
それは、タイという地域の特色なのだろうか。
タイの交通渋滞は世界最悪と言われている。貧民層と富裕層が混沌と入り混じる町。ピカピカのベンツも、荷台にたくさんの人を乗せたトラックも、みな同じように道路に並ぶ。
何百万台という車から吐き出されるスモッグのせいで、空がくもっているのか。春人にはわからなかったが、間違いなく言えるのは気持ちのいいものでないということだった。
春人とかすみがタイに来て、もう2日目である。
初日の夜は、ホテルの近くのタイ料理屋に行き、ほろ酔いのままホテルへ。
春人は夕食を食べながら、
「エキゾチックな夜にしようね」と笑って話すと、かすみは「バカ」といって顔をそむけるのだった。
恋人として付き合いを続けている以上、体の関係はもちろんあるのだが、イマイチしっくりこないというのが春人の想いだった。
人間の体にもいろいろな種類があって、合うものと合わないものがある。それは努力とか想いだけではどうにもならないんだろうな、というのが春人の考えである。
それでも、タイの夜は濃密に更けていったのだが。
ホテルのビュッフェを食べながら、春人は話し始める。
「今日はどういう予定なんだっけ?ツアー、申し込んでるんだよね?」
かすみは、タイまで来たというのにヨーロピアンスタイルに決め込んでいる。クロワッサンにコーヒー。欧米か!と突っ込みたくなった。
「うん、春人さんに任せてもよかったんだけど、私は海外初めてだったから、申し込んじゃったんだ。ごめんね」
上目づかいで春人の目をのぞきこんでくる。かすみは、この顔が得意のようだ。
「いや、この前に来た時は、食べ歩きで観光らしい観光をしなかったからちょうどいいよ。で、どんなところにいくんだい?」
「えーっとね、エメラルド寺院って有名なところとか、暁の塔って有名なところ。知ってる?」
「うーん、聞いたことあるような、ないような」
「さんざんガイドブック見せたじゃない」
ぷーっと頬を膨らませながらかすみはぼやいた。
「じゃあ、寝っ転がってる仏さまの寺院は知ってるよね?」
「あ、それならわかるよ。大丈夫」
「そういう寺院は、帽子とか靴を取らなきゃならないから、気をつけてね」
「OK!」
平和な会話が続いた。ふと、春人は窓の外に目をやる。桟橋に船が止まり、現地の人間がぞろぞろとあふれて出てくる。
そういうものを見ていると、あぁ、異国の地に来たんだな、と春人は思うのだった。
そして、昔の恋人を探している自分にも気付くのだった。見つけることなんて、出来るわけもないのに。
「春人さん、乗りたいの?」
「え?何に?」
「いや、船をずっと眺めているからさ。乗りたいのかな~って」
視線を変えずに、春人は言う。
「うん。前の時も乗ったんだ。夕日が沈むころ。川がオレンジに染まるのを見て、感動したのを覚えてる、きれいだったんだよね」
ぱぁっと、顔を輝かせてかすみは答える。
「すごい!そういうの見てみたいな~。ねぇ、ガイドさんにお願いしてみようね。なんか、ロマンチックじゃない?」
春人は、純粋な年上の女性を見つめ、「あぁ」とか「うん」とか気のない返事をするのだった。
「見て、春人!夕日がきれいだよ。川も人もビルも、みんなオレンジ色!何か一色に染まるのって、素敵よね。一日のうち、一瞬だけみんな同じになるの。それって、その一瞬だからきれいに見えるんだろうね。人もそうかもね。一瞬だけわかり合える、一つになれる、みたいな。・・・いや、エッチなこといってるんじゃないって!」
オレンジ色の笑顔は、かすみには持っていないものだった。
その影を求めて、今回のタイ旅行を受けたのかもしれない。その影を、振り払うために今回の旅行はあるのかもしれない。
春人は、振り切るように船から目を離し、かすみと同じクロワッサンを取りに席を立つのだった。
そして、その日の午後、そのオレンジ色の笑顔をもう一度見ることになるとは、春人には全く想像できるわけもなかった。
世間は広いようで、狭いのだ。




